③
「く、くるしい……」
両手でお腹を抱えながら、私は庭園をふらふらと歩いていた。さっきまで甘いケーキをいくつも頬張ったせいで、胃が今にも悲鳴を上げそうだ。
隣を歩くノアというと、それはもう涼しい顔をして、苦しむ私を横目に見下ろしていた。
「食べ過ぎだな」
「なっ……あなただって、もっと食べろって差し出してきたじゃない! あなたのせいよ!」
「ははっ、まあ、それだけ食べれるならもう大丈夫だな」
くすりと笑うノア。その声音は、わざと私をからかって楽しんでいるようで妙に腹が立つ。
けれど、その飄々とした笑みは――まさに私の知っているノアそのものだった。
髪も背丈も声も、大人びてしまったけれど、こうして笑う姿はあの頃と何も変わっていない。
「ノア」
名前を呼ぶと、彼は即座にこちらを振り返った。まっすぐに向けられる蒼の瞳に、思わず息をのむ。
私の隣に立つ――婚約者。
「うん?」
私の記憶がなくなっただなんて、本当はただの大掛かりな嘘だったんじゃないの?
「……本当、記憶がないとか信じられな……あっ!」
言葉の途中で思わず声を上げる。
視線の先――庭園の中央で、水を弾いている白い大理石の噴水が目に入ったのだ。
私はスカートの裾を両手で持ち上げ、子供のように駆け寄った。
「わあ、懐かしい!」
陽光に照らされ、水滴が宝石のようにきらめく。涼やかな風が頬を撫で、幼い日の思い出が一気に蘇った。
「ねえ、覚えてる? 昔、一緒におじい様たちとここへ遊びに来た時に、二人で抜け出して遊んだ……」
「そんなに近くに行くと落ちるぞ」
「…………」
低い声に振り返ると、そこには眉をわずかに下げたノアが立っていた。
思っていた以上にすぐ傍で、顔を近づければ肩唇が触れ合ってしまいそうな距離。
(相変わらず、綺麗な目……)
太陽の陽に照らされて光る噴水の水とは比べ物にもならない、奥深く輝く蒼の瞳。私をいつだって見つめていた、その目。
脳裏に浮かぶのは幼い日の光景――。
『ほら、フリル! お前もこっちに来いよ!』
水飛沫を浴びながら笑っていた少年の顔。
無邪気に手を差し伸べてきた小さなノアは、もうここにはいない。
(ああ、あなたったら……こんなにも大きくなってしまったのね)
「私、もう子供じゃないんだけど?」
「中身は16歳なんだろ」
「だから、16だろうと17だろうと、子供じゃないから。あなたと同い年だから!」
「落ち着けよ、大丈夫。数センチくらいならいつか伸びるさ」
「は? 身長のこと言ってるの?……別に私、気にしてないけど?」
「前の君は毎日のように俺の背と比べて、背を伸ばす魔法を見つけて見せると生き込んでいたものだよ」
「…………」
「もう、知らない!」
両手を組んで、わざとらしいほどフンッとそっぽを向く。
顔を逸らしながらも、視線の端でノアの姿を捉えたまま。
肩の力を抜いて笑うその表情が、腹立たしいくらい余裕に満ちていた。
「やっぱり、ノアは何も変わってないんじゃない! お姉様が変な事言うから、私騙されるとこだった――わっ! なにするのよ!」
次の瞬間、ぐいっと強い力で腕を掴まれる。
驚くよりも先に身体が引き寄せられ、私は反射的に足を踏み外した。石畳がかすかに軋み、心臓が跳ね上がる。
勢いよく引き寄せられた先――目の前に、ノアの顔が迫っていた。
鼻先が触れるほどの距離。ローズピンクの瞳が、彼のアイスブルーの瞳と真っ直ぐにぶつかる。
こんな近さで睨み合ったのは、幼い頃に喧嘩をした時以来かもしれない。
「変わったよ」
低く、静かな声が耳に落ちる。
セシリアお姉様の言葉を嘘だと信じて、昔のような口喧嘩ばかりの関係に戻りたいと願っていた私の期待は、その蒼い瞳に宿る熱にあっさりと砕かれた。
「俺と君は、もう“お前”が知ってる関係じゃない」
「……そんなの、私は知らな……」
「信じられないのは分かる。仮に俺が学園での記憶を失えば、今の君のように顔を歪ませてあり得ないと言っただろう」
ノアの声は低く、穏やかに響く。
そして彼は私の手を優しく握りしめると、自身の口元に引き寄せた。
「大丈夫だ。記憶を無くしたって、必ずまた俺のことを好きにさせてやるから」
「なっ……!」
言葉の意味を理解するよりも早く、頬に熱が駆け上がった。
耳の先まで真っ赤になるのが自分でも分かる。
ノアの口から発せられる、聞いたこともないほど甘く熱い言葉。
胸の奥が一気にかき乱され、全身に熱が駆け巡っていく。
「あ、ありえない! 私があなたに惚れるだなんて、天地がひっくり返ってもありえないから!」
「俺はお前が求める言葉をすべて知っている。どれだけ傍に居ると思ってるんだ? 俺はお前のことなら何だって知っている」
そう言いながら、彼はゆっくりと身をかがめた。
掴まれたままの手に熱がこもり、逃げ場を失った私の視界が彼でいっぱいに満たされる。
そして、そのままノアは私の手の甲にそっと唇を寄せた。熱を持った吐息がかすかに触れーー。
「いやああああっ!」
「バカ、フリル危なっ……!」
羞恥に耐えきれず、私は咄嗟に両手でノアの顔を押し返した。
しかし焦りすぎて力加減を誤り、身体が後ろにぐらりと傾く。
ノアの腕が素早く伸びてきて、私を庇うように抱き寄せたが、胸に押し付けられる感覚と同時に冷たい水面が目前に迫る。
――ドボンッ!
盛大な水音が響き渡り、私とノアは派手に噴水の中へ沈み込んだ。
弾ける水飛沫が陽光を浴びて虹色に輝き、びしょ濡れになった私たちを隠すように降り注いだのだった……。