カルガモの親子①
渉が高校に通い始めてから数日が経過した。そのたった数日間だけで、渉は自分の世間知らずぶりを実感することとなる。
授業が変わるごとに教室を移動する『移動教室』や、決められた係や委員会がありその役割をこなさなければならない。そういった学校で決められたルールがわからないのだ。きっとこういうことは小学校からの積み重ねた経験から教えてもらわなくてもわかるのだろうけど、渉はその都度教えてもらわなければわからない。
箒を使って掃除をしたことなんて一度もなかった渉は、箒と塵取りの扱い方さえ下手くそだ。そもそも掃除なんて家政婦さんがしてくれるのだから、渉がやる必要なんてないのだけれど。
「どうしたの? 大丈夫?」
困って呆然としていると、正悟がいつも声をかけてくれる。今の渉は、正悟がいなければ何もできないし、何もわからない。いつからか正悟の姿が見えないと不安を感じるようになってしまった。
今だって次はどの教室に移動するのかがわからず、教科書を持ったまま正悟の姿を探す。正悟以外のクラスメイトとはまだ馴染むことができていない。と言うより、今まで慧以外の友達がいなかった渉には、友達とどう接していいのかがわからないのだ。
キョロキョロと辺りを見回してみても正悟の姿はない。時々、正悟は突然いなくなってしまうことがある。
しかし、いつも頼ってばかりはいられないのだから。
――仕方がない、一人で行ってみよう。
そう思い立ち意を決して椅子から立ち上がった時。
「ごめんね、渉。遅くなっちゃったよ。早く音楽室に行こう」
「正悟……」
正悟が渉を心配してか、息を切らして教室に入ってくる。その顔を見ただけで嬉しくなってしまうのだ。正悟は渉がどんなに世間知らずでも、嫌な顔ひとつせず世話を焼いてくれる。それがとても嬉しかった。
「遅いよ、正悟。もう授業始まっちゃうじゃん」
「だからごめんって。早く行こう」
「うん」
そう言いながらそっと腕を引いてくれる。正悟はなぜか渉の体に触れることが多い。正悟自身は特に何も考えていないかもしれないけど、他人から触れられることに慣れていない渉からしてみたらドキドキしてしまう。
正悟の触れた部分がジワジワと熱を持っていった。それはまるで仁に触れられているみたいで、心が甘く震えてしまう。
そしていつも、正悟が渉の体に触れた瞬間ピリピリッと弱い電流が二人の間を走るのだ。その電流の正体なんて渉にはわからなかったけど、正悟に触れた時にだけ起こるこの現象が、愛おしくも感じられた。
「正悟と桐谷君ってカルガモの親子みたいだね」
「え? カルガモ?」
「そう。正悟がママで桐谷君が子供」
そんな姿を見かけたクラスメイトがクスクスと笑っているから、思わず俯いてしまった。
◇◆◇◆
「渉って本当に箱入りなんだね?」
「はぁ? 今更なんだよ?」
「だってさ、本当に知らないことだらけなんだもん。僕が『何とかしてあげなきゃ』って変な使命感に駆られる」
渉の顔を覗き込みながら、正悟が照れくさそうに笑う。
季節は変わりもうすぐ夏やってくる。梅雨の時期はジメジメしていて、汗で肌に制服が纏わりついて気持ちが悪い。正悟が教科書でパタパタと渉を仰いでくれた。
「お坊ちゃんはこんな不快な環境で生活をしたことがないだろうから、夏バテ気味じゃない? お昼も全然食べてなかったし」
「お腹は空かないけどコーラは飲みたい」
「駄目だよ、ジュースばっかり飲んでいたら、本当に夏バテしちゃうよ」
「正悟のケチ!」
渉が「あかんべぇ」をして見せれば、正悟は怒るどころかクスクスと笑っている。
「でも、正悟が俺の分まで弁当食べてくれるから本当に助かる」
「僕も弁当をもらえるのは助かってるよ。でも心配だな」
「うるせぇよ。俺はそんなにヤワじゃない」
「でも、渉はαの割には華奢なんだもん」
「正悟がゴツ過ぎるんだよ」
そう言いながら正悟が渉の手首を掴んだ。「ほら、こんなに細い」と眉を顰めながら。
渉が初めて高校に登校したあの日から、正悟はずっと渉の世話を焼いてくれている。はじめのうちは、世間知らずなボンボンが面白いだけですぐに飽きるだろうと思っていた。しかし、正悟は相も変わらず渉の傍にいてくれる。
それが嬉しいのに、素直になれなくてつい憎まれ口を叩いてしまうのだ。
ある日正悟が「お弁当のお礼に、ちょっとだけど」と照れくさそうに飴がたくさん入った袋をくれた。それは決して高価なものではないだろうけど、初めて友達から物を貰えたことが渉は嬉しかった。
包んである紙を丁寧に剥がして口の中に放り込めば、苺の甘い味がふんわりと口の中に広がっていく。
「うまい」
渉は嬉しくて、両頬を押さえて思わず微笑んだ。
「渉はさ、何かやりたいことないの?」
「突然なんだよ?」
「いや、お坊ちゃんって想像して以上に窮屈そうな生活なんだろうな……って渉を見ていて感じることが多いから」
「まぁ、金に困ることなんてないけど、確かに自由なんてないよ。やりたいことだって、『危ないから』ってさせてもらえないことの方が多いのも確か。やりたいこと、かぁ……」
「そう。ずっとこれやってみたかったけど、許しが出なくてできなかったこととか……あるんじゃないの?」
「ずっとやってみたかったことねぇ」
正悟から視線を外して考えてみる。あ、あった……ずっとやってみたかったこと。
「おれさ、電車に乗ってみたいんだ」
「電車?」
「そう。本当ならさ柴崎の送迎じゃなくて、電車とバスを使って通学してみたかったんだけど、親が許してくれなくて。だから俺、電車に乗ってみたい」
期待に胸を膨らませて正悟を見上げる。
「なぁ、電車ってどんな感じ? あのピッて音が鳴るやつやってみたい」
「もしかしてICカードのこと?」
「そうそれ! なぁ正悟。電車に乗って俺をどこかに連れてってよ」
「うーん、どこかって言われてもなぁ」
正悟が唇を尖らせて悩み始める。眉間に皺を寄せて首を傾げる仕草なんて、本当に仁にそっくりだ。
「あ、あった。渉を連れて行ってあげたい所」
「マジで? どこどこ?」
「今は内緒だよ。僕のお気に入りの場所なんだ。期末テスト期間の最終日だったら、ちょうど学校が半日で終わるから一緒に行ってみないか?」
「行く行く!」
「じゃあ、お互い期末テスト頑張ろうね」
「うん!」
正悟が電車に乗せてどこかに連れて行ってくれるというだけで、渉は嬉しくて口角が上がってしまう。ニコニコが止まらなくなってしまうのだ。
「渉は本当に単純で扱いやすいね」
そう笑う正悟の言葉なんて、今の渉には聞こえるはずなどなかった。