過去の記憶③
「遅いですぞ、坊ちゃん。せっかくの料理が冷めてしまいます」
「はいはい、すみませんでした」
「お返事は一回で結構です」
「はいはい。以後気を付けます。クハァ」
なかなか部屋から出てこなかった渉を食堂で待ち構えていた柴崎が、顔を見た瞬間お説教を始める。しかし、そんなことは慣れっこで渉は右耳から左耳に流してしまうのだ。
大きな欠伸をしている態度が面白くないのだろう。料理を運びながら柴崎が軽く睨みつけてくる。こんな雰囲気で食事をして、一体何が楽しいのだろうか? 渉は小さく溜息をついた。
「今日のメインは、子牛フィレのグリエ。オリーブオイル風味でございます。よく味わってお召し上がりください」
「はい。いただきます」
長い料理名を理解できたことなんて一度もないけど、渉は静かに両手を合わせて頭を下げる。普段言葉遣いが悪く、礼儀作法も何もあったものではないが、小さい頃からきちんとした教育を受けている渉はテーブルマナーだけは完璧にマスターしている。
テーブルマナーだけではない。女性のエスコートの仕方やお茶の作法、ヴァイオリンにピアノに英会話……ありとあらゆる英才教育を一通り受けたきた。綺麗に並べられたナイフやフォークを順序良く手に取り、マナーに従い料理を味わっていく。
――全然美味しくない。
一流ホテルから引きぬいたと言われる料理長の腕は勿論格別だが、渉は美味しいと感じたことがない。それよりも、仁がこっそりと分けてくれた饅頭の方がよっぽど美味しかった記憶がある。
仁は来客から頂いたと、いつも高級そうなお菓子を宗一郎に分けてくれたのだ。半分を自分で食べてから、もう半分を宗一郎の口の中に放り込んでくれる。「ほら、あーん?」などど無邪気に微笑まれてしまうと、宗一郎のほうが恥ずかしくなってしまう。それでも仁が口に放り込んでくれるお菓子はいつも美味しくて……宗一郎は幸せを感じた。
タワーマンションから眺望できる夜景だってとても綺麗だけど、仁と一緒に見た川べりに咲いた蓮の花のほうが綺麗だった。
誰と話していても楽しくなんかないけど、仁がよく話してくれる外国の話を聞くのは大好きだった。
記憶を取り戻してからというもの、現実の自分を取り巻く何もかもを、いつも仁と比較してしまう。「ここに仁さんがいてくれたら……」そう思うだけで、心が締め付けられるように寂しくなった。
「今週末、香夏子様が遊びにいらっしゃります」
「はぁ? 香夏子が?」
「はい。お坊ちゃん、今回はくれぐれも粗相のないようにお願い致します」
「あははは……」
柴崎の細い目が丸眼鏡の奥で光ったのを感じた渉は、思わず頬を引き攣らせた。
香夏子は親が勝手に決めた渉の婚約者だ。二十歳になるのと同時に結婚することが決まっているにも拘らず、渉は香夏子が苦手だった。器量はいいのだが何しろ性格がキツくて我儘だ。いかにもα、という性格をしている。
父親が大病院の経営者をしているため、絵に描いたような政略結婚なのだが、見た目がいい渉を香夏子は気に入っているらしい。時々会いに来るのだ。
前回来た時には香夏子に会いたくなかったから、急遽仮病を使ってしまった。その前はマンションから脱走したし、その前はどうしたのだろうか……? いつも理由をつけては香夏子を避けているのだ。
そもそも渉の心の中には、今世ではまだ再会していない仁がいるのだ。そんな相手がいるのに婚約者どころではない。
仁もαだったが香夏子のようなタイプではない。物腰は柔らかいし、いつも穏やかに笑っていた。一緒にいて落ち着くし、「いつかは仁と番いたい」そう思える人物だったのだ。逆に香夏子は、いつもキンキンとした声で喚いているイメージだ。妙に色気を振り巻いて渉を誘惑してくることもある。それが煩わしくて仕方がなかった。
それでも、優秀な子孫を残すためには、優秀なα同士が番うのが最善策だ……なんてわかりきってはいるのだけれど。
「それから、高校に行く許可が旦那様から出ました」
「え? 高校に?」
「はい。良家に生まれたご子息とご令嬢だけが通うことの許されている、有名な私立高校でございます。そこに高校三年生の一年間だけ通学してよいとのことです」
「マジか? ありがとう、柴崎」
「渉坊っちゃん、『マジ』なんていう日本語はございません。それに、香夏子様の時とは違い、大分嬉しそうですね?」
「べ、別にそんなことは……」
痛い所を突かれ内心焦ってしまったが、渉の心は踊った。
厳しい両親の元で育った渉は、義務教育中でありながらも学校に通うことが許されなかった。優秀な家庭教師に囲まれて家庭内教育を受けてきたのだ。だから友達だっていないし、友達と遊びに出掛けたこともない。
「でも、友達ができるのは嬉しいかな……」
友達と過ごす高校生活を想像するだけで、自然と口角が上がってしまう。そんなだらしのない顔をした渉を見た柴崎が、すかさず口を挟んだ。
「お友達と言えば、最近、櫻井様からも連絡がありましたぞ? 久し振りにお茶でもどうかというお誘いを……」
「櫻井? あぁ、慧さんか……。小さい頃はよく遊んだけど、最近は全然会ってないし。もう顔さえ思い出せないよ」
櫻井慧は、幼い頃から家族ぐるみの付き合いをしている幼馴染だ。αであり、渉が唯一『友達』と言える存在。
成長してくうちに少しずつ距離ができて、今はではすっかり疎遠になってしまっている。渉が仁に夢中になってしまい、仁以外の人間に興味がなくなってしまった……というのが正しいのかもれないが。
それでも慧という男は変わった奴で、渉の誕生日には毎年薔薇の花束を送ってきてくれる。気障な奴……そう感じた渉は、できたら慧と関わりたくない、そう思っているくらいだ。
仁以外に、まともなαはいないのだろうか? 渉は大きな溜息をつきながら、ミニトマトを口に放り込む。
「あぁ、ごめん。無理。忙しいからって返事しておいて」
「坊ちゃん……櫻井様は優秀なαでいらっしゃります。ご友人は大切になされた方が……」
「あー、はいはい。ご馳走様でした」
「坊ちゃん! まだ食事が残っておりますぞ。それに柴崎の話だって……」
「わかったって。もう食事も柴崎の話もお腹がいっぱい! じゃあね」
「坊ちゃん!」
金切り声をあげる柴崎に背を向け、さっさと食堂を後にする。
「やった、ついに高校に行ける!」
渉は誰にも気づかれないように、そっとガッツポーズをする。
きっと明治と令和では、世界が全く違うだろう。高層ビルの中から眺める景色だけが、渉の世界だった。
そしてようやく念願叶って高校に通学することが許されたのだ。高校に行くことができることも勿論嬉しいが、もしかしたら生まれ変わった仁に会えるかもしれない。いや、探すんだ……そう思えば、渉の心は踊った。