夏の始まり その三十七
「──はい?」
達夫はポカンとした様子で首を傾げながら言う。 要件について聞いたら唐突に『異世界』なんて言葉が出てきたのだから思考が追い付かないのは仕方ないともいえる。
「『異』なる『世界』と書いて異世界と読むのですが──ご存じでありませんか? 最近よく話題になっている単語ではあるんですけど」
男性が異世界について説明をする。 ただ四十代の達夫には話題と言われても創作物に通じていないとピンと来ないだろうが。
「……よく分かりません」
達夫は首を横に振ってよく分からないような態度を取る。 だが異世界という単語を全く知らないというのは嘘であり、言葉の響きから何となくではあるが理解は出来ていた。 ただ今は知らないと言っていた方がこの二人に対して丁度いいと考えたらしい。
それと達夫はこの二人がマスコミといった類の人間でない事は先程の質問で把握した。
何故ならマスコミであれば娘に関する質問だけをしてくるのと、メモを取ろうとする姿が無い事や声を録音するボイスレコーダーを持っていなかったからだ。 二ヵ月前、散々対応に追われた達夫はマスコミの姿が今でも目に焼き付いている為、記録する行動を一切取ろうとしない二人を見てそうだと確信する。
「では詳しく説明致しましょうか? きっと早見さんにとっても身になるお話になると思いますよ?」
「いえ、結構です。 それよりも先程の異世界があるかどうかの質問や、あまりにも親身になって話しかけてくるその態度──もしかしてこれは宗教の勧誘か何かではないのですか? でしたら宗教はお断りなので失礼します」
本当に宗教関係の人間かどうかは不明だが、唐突に絵空事を語り始めたこの人物を危ないと思った達夫は話を終わらせる流れを作る為にとわざと冷たい口調で言う。
そして会話そのものを終わらせようと何も言わずそのまま右手で持っていたドアノブを引っ張って閉めようとしたその時、
「ねぇ、どうしたの?──って、あなた方は……?」
聞き慣れた声がして達夫が後ろに振り向くと、細い廊下の先にあるリビングには優子がいた。 いつまで経っても戻ってこない達夫に何かあったのか気になってここへ来たのかもしれない。
「初めまして。 私達、早見さんと少々お話がしたくて伺ったのですが」
知的そうな男性がそう言うと、後ろにいる肥満体系の男性も「どうもー」と言いながら頭を下げた。
「話……ですか?」
一体何の事か分からない優子はとりあえず今がどういう状況なのか把握する為にも、話を聞こうと玄関先まで歩き始める。
「優子、もうその話は終わったから相手にしなくていいぞ──すみませんが、そういう事なのでもう閉めますね」
優子がこの二人に近付く前に今度こそドアを閉めようとする。 これでもう全てが終わり──達夫はそう思っていた。 だが、
「もし娘さん──亜希さんがその異世界にいる、と言ったらどうします?」
ドアが完全に閉まる寸前、僅かな隙間から聞こえてくる冷静な声に達夫は反射的に手を止めてしまう。
「……っ!」
動揺した達夫はドアノブを強く握り締めているものの動けない。 後ほんの少しだけ手前に引っ張れば完全に閉まるのに、どうしても男性の言葉が気になってしまう。 しかしそれは達夫だけではなかった。
「いっ、今っ! 今なんて言いましたっ!? お願いですからもう一度聞かせて下さい!」
先程まで落ち着いていた優子が別人のように慌てふためき、周りを一切気にせず大声を出してしまう。 ただの一言でここまで変わってしまったのは、やはり娘の事だからなのだろうか。
「勿論、構いませんよ。 亜希さんは、異世界と呼ばれている場所にいる可能性が高い──理解して頂けたでしょうか?」
二度目は丁寧にゆっくりと言う。 だがこの言葉を聞いた途端、優子はドアノブを掴んだまま立っている達夫に声を荒げる。
「あなた! 今すぐドアを開けて! 早く!」
「……だっ、駄目だ! そもそもこんな信憑性のない話を真に受けるんじゃない!」
達夫は優子に目を合わせて必死に訴える。 ただその発言は自分自身にも言い聞かせているみたいだ。
「何言ってるのよ! あなたは亜希が戻って欲しくないの!」
「お前こそ何を言っているんだ! それにあの時見ただろ……! 亜希の……亜希の冷たくなったあの身体を……! 遺骨だってここにある……! だから戻ってくるなんて有り得ないんだよ……」
達夫も危うく男性の言う事を信じてしまいそうになったが、亜希の遺体を見た時の光景を思い出して我に返る。 この現実を話すのはとても心苦しかったが、現実逃避ともいえる発言をする優子の目を覚まさせるにはこれしかなかった。
「そんな事言わないでっ! なんで希望があるかもしれないのに自分から放棄するのよっ! もういいからどいてっ!」
しかし達夫の言葉は一切届かず、優子は裸足のままドアの側にまで駆け寄る。 そしてドアノブを掴んでいる達夫の手ごと両手で鷲掴みにし、そのまま前へ押し始める。
「やっ、止めろ! 押すんじゃないっ!」
急に押されて危うくドアが開きそうになるが何とか抑え込む。 だがドアを引く方が力や体重を掛けやすくて有利な筈なのに、優子の押す力が尋常ではないせいか余裕は一切なかった。
「あなたこそ止めないでよ! どうしてそこまでして亜希が戻ってくる可能性を否定するのっ! これが最後のチャンスかもしれないのにっ! これを逃がしたらもう二度と無いかもしれないじゃないっ!」
少しでも可能性があるのなら諦めたくないのか、優子は達夫に必死に訴えかけてくる。
「私はもう後悔したくないのっ! あの子の時だって早く気付いてあげてたらあんな事にはならなかった! あなただって戻ってきてほしいでしょっ! だったら開けてよっ!」
優子の言葉に達夫の心が再び揺らぐ。 もう後悔したくないという気持ちが痛い程に伝わってくる。 そしてそれは達夫自身もそうだった。 未だに二ヵ月前の事を思い出しては胸が痛くなる。 どうしてもっと早く娘の苦しむ気持ちを分かってやれなかったのかと後悔もしている。
優子の言う通り、この機会を逃がすとそれこそ一生後悔するかもしれない。
ならば一度ぐらい話をしても良いのでは──と思い始めたその直後、考え事に気を取られてドアノブを持つ手の力が抜けていたのか、この間も力強く押していた優子がドアを開けてしまう。
そして優子が顔を見上げると、あれほどの大騒ぎがあったにも関わらずその場から微動だにしていない二人の男性がいた。
普通ならこの時点で警戒したり、薄気味悪いと感じたりしそうなものだが、優子は何にも思わず助けを求めるように声を吐き出す。
「おっ、お願いしますっ! 先程の話について詳しく聞かせて下さいっ! 亜希は! 亜希はどうやったらここに戻って来れるんですかっ!」
優子はそのままの勢いで裸足のまま膝を付き、指を重ねるようにして手を組み懇願する。
だが夫婦の言い合いやこういう頼み込む声がマンション中に響き渡っている筈なのに、同じ階に住んでいる者や周りの誰も反応しないのは二ヵ月前はこれ以上凄かったのか、もう慣れてしまって「またか」程度の認識になっているからかもしれない。
「そ、その前に一度深呼吸でもして落ち着きましょうっ! ねっ?」
ただ、あまりにも必死過ぎる優子に肥満体系の男性が慌てた様子で冷静になるよう声を掛けた。 すると優子は「……分かりました」と言った後に立ち上がって深呼吸を繰り返し三回行う。
「──先程は取り乱してみっともないやり取りを聞かせてしまって本当にすみませんでした。 最近は落ち着いてきたと思っていたんですけど、やっぱり娘の事になるとちょっと周りが見えなくなるというか……」
ようやく落ち着きを取り戻した優子はまず頭を下げる。
「その原因を作ってしまったのは私達のせいなので謝るのはこちらの方です。 大変申し訳ございませんでした」
その後に知的そうな男性もまた迷惑を掛けてしまった事に対して謝罪をすると、もう一人も「すみませんでした!」と言いながら頭を下げた。
「いつまでもここにいると暑いですし、中に入ってお話でもしませんか?」
「えっ!? いいんですかっ!」
やはり暑いのを我慢していたらしく、肥満体系の男性はタオルで顔を拭きながら真っ先に反応する。
「どうぞどうぞ! ささっ、遠慮せず入ってください!──あなたも別にいいわよね」
優子は外の二人を笑顔で対応した後、逆側にいる達夫へ顔を向けると真顔で淡々と呟く。 ここで拒否をしたらまた暴走してしまうと思った達夫は断る事は出来なかった。
「……あぁ、分かった」
達夫が承諾すると、優子が生き生きとした様子で男性二人を中に招き入れる。
得体の知れない二人を家の中に入れるのを達夫は不安で堪らなかった──が、心の片隅で『もしかすると』、という気持ちも微かに芽生えていた。




