日常 その7
放課後──その言葉は、ほとんどの学生にとって待ちに待ったご褒美というべき時間だろう。
堅苦しい授業から解放される瞬間の至福というのは何百回、何千回も経験しても慣れる事は無いかもしれない。
本来であれば教見津太郎も同じような充実感を堪能しながら放課後を迎えていた筈なのに、今は完全に疲労困憊の様子で教室にただ一人、机に全体重を乗せて寝ていた。
清水栄子と月下小織が職員室に何か用がある為、帰ってくるまで少しでも休んでおこうとしたのである。
朝から寝不足だと分かっていた。
しかし五時限目の体育の時、眠気の限界を通り越したその先──つまり一種の覚醒状態に辿り着いてしまったその反動が最後の授業で一気に押し寄せてきてしまい、もうほとんど魂が抜けた状態でまともに授業なんて聞いていない。
(やってしまった──もう後悔しかない……今日は流石に早く寝……って今一瞬だけ意識飛んでた……)
朝とは打って変わって静か過ぎる教室。
外から差し込んでくる落ち着いたオレンジ色の日差し。
部活の準備している生徒の声や、下校中の生徒の細やかに聞こえる声。
今の津太郎にはその様々な要素全てが睡眠へ導いてしまい、結果的に意識を刈り取られてしまう。
津太郎は夢を見ていた──背景が暗闇に包まれている中、黒髪でショートヘアーの髪型をし、黒と白のチェック柄のワンピースを着用した小学生と思われる少女が、ボロボロになった大きな犬のヌイグルミを抱えて目の前で立っている。
──しかし、その目からは生気は感じられず、ただひたすら虚空を見つめている。
着ている衣服に乱れはあるものの、少女自身に目立った損傷はない。
だが、少女が両手で力強く抱え込むように持っている全身が隠れそうな程に大きい犬のヌイグルミは別だった。
元々は可愛らしい柴犬の見た目をしていたと思われるヌイグルミは、全身の至る所が何かで引き裂かれ、中に入っている白い綿は千切れた場所からはみ出して丸見えになっている。
目や鼻の部分も取れてしまい、その痛々しい姿をしたヌイグルミに最早誰かを癒す役割を果たすのは不可能だろう。
思わず顔を背けたくなる光景だった──しかし何故か頭が、顔が、身体が全く動かない津太郎はその場を微動だにしない少女を見続けるしかなかった。
一体どれだけ時間が経ったのか分からない。もしかしたら数時間経過したかもしれない。
このまま永遠に見せられるのか本気でそう考え始めていたその時──津太郎は目を覚ます。
「……なんだ……夢か」
あまり良くない夢を見たせいで身体を勢いよく起こしてしまうと、そこには職員室に行っていた栄子と小織が立っていた。
ただ、津太郎が急に身体を起こすものだから二人驚きを隠せずにいる。
「なんだ夢かって……アタシ達が近付いても気付かないなんて完全に寝入ってたわね。 でもホントに気を付けないと財布とかスマートフォンを盗まれるわよ?」
一息ついた後に小織が真っ当な警告をしてくる。正論過ぎて反論の余地が無い。
「確かに……これから気を付ける」
津太郎はさっき見た夢のせいであまり良い気分では無いが、二人にわざわざ言う必要はないと思って黙っておく。
「じゃあ用も済んだし、さっさと帰りましょ」
小織はそう言うと自分の席にカバンを取りに向かっていった。
「ふぅ……」
寝起きという事もあってか頭が少しボーっとする。それに夢で見た光景が頭から離れない。
「朝から眠たそうだったし……今日は早く寝ないと駄目だよ?」
近くにいた栄子が心配そうにしている。
「あぁ……本当にそうする。 疲れて風邪引かないようにしないと」
津太郎は立ち上がってカバンを肩に掛けると栄子に返事をする。
「絶対そうしなさい。 風邪引いて寂しがるのは栄子なんだから」
カバンを取りに行った小織が二人の近くに寄ると、津太郎へ対し入念に休ませる事を推す。
「わ、私が寂しいとかは関係無い……けど、教見君が辛い思いするのが嫌だから風邪引いてほしくないな……わ、私もカバン取ってくるね……!」
栄子はそう言うと照れて少し慌てた様子のまま机の方へ向かっていった。
「せっかくいいパス出してあげたと思ったのに──決めれる時には決めないとダメよ、栄子」
小織が小さい声で呟いている。しかし津太郎には何を言ってるかまでは聞き取れなかった。
「え? さっきなんて言ったんだ」
津太郎が聞くと、小織はあえて近付いて耳元で囁く。
「な・ん・で・も・な・い・わ」
流石の津太郎もいきなり顔を近付けられて息が当たる距離で話しかけられたら思わずドキッとしてしまう。
「なっ、なんでもないならそんな事するか普通!?」
津太郎の顔が赤くなり、さっきまでの眠気が吹っ飛ぶ。
「小織ちゃん!?」
カバンを取った後に小織の行動を見た栄子も驚きを隠せない。
「栄子もあれぐらいやらないとホントはダメなのよ?」
小織は栄子の横に立つと、口を手で隠してコソコソと小さい声で話しかける。
「む、無理だよぅ……」
栄子も顔を少し赤くしながら即座に否定した。
「はぁ……全く──」
津太郎は額に右手を当てると、ついため息を漏らす。
本当ならあの夢について考えたい所だったが、今は止めておいた方がいいと判断して教室を出るように促し、三人は学校の外へと移動し始める。
◇ ◇ ◇
校門を抜けた後は左、右、真正面の三方向に道がある。
津太郎と栄子は同じ方向だが、小織の家は真逆の方向にある為、ここで別れるのが三人にとって日常茶飯事だった。
「それじゃあね二人とも──教見、今日はゲームしないで早く寝なさいよ」
小織は再び津太郎に釘を刺す。
「わ、分かってるって」
「……ホントに分かってるのかしら。 家に帰った途端、急に元気が出てきたからやっぱゲームしようなんてならないわよね?」
津太郎は小織の下から覗いてくるような疑いの眼差しに目を逸らしたくなる。
「自分の体調は自分が一番理解してるから……あ、安心してくれ」
ジロジロ見てくる小織に考える余裕の無かった津太郎はこれぐらいの事しか言えなかった。
「まぁいいわ。 いつまでも疑ってたら帰ろうにも帰れないし、信じることにする──それに明日になれば分かることだしね」
(それ、結局信じてなくないか?)
危うく口から漏れかけたが、これ以上余計な事を言って火に油を注がないようにする。
言う事を言って満足した小織は津太郎と栄子に軽く手を振った後に、その場を立ち去るように家の方へ歩き出す。
歩み始めてから後ろを振り向かないのは、また似たようなやり取りをしてしまうからだろう──だから津太郎も栄子も何も言わず静かに小織を見送る。
「じゃあ俺らも帰るか」
小織とある程度の距離が離れたのを確認して、津太郎は声を掛ける。
「うん、そうだね」
栄子が頭を頷いて軽く返事をしたら、後ろへ振り返って二人もまた家の方へと歩き始める。