夏の始まり その二十
二人の間に『協力』という名の関係が生まれたのがきっかけでようやく重かった空気が消え去り、津太郎の部屋には落ち着いた雰囲気を取り戻していた。
ただ津太郎として運が良かったのは、あの重苦しい空気に包まれている時に美咲が部屋に入ってこなかった事である。 もしも数分前に来ていたら間違いなく部屋で一体何が起こったのか追及されて、話が更にややこしくなっていたに違いない。
だから色々と面倒事になる前に一件落着──とまではいかなくても何とか一段落してくれて津太郎はホッとしていた。
「探すにしても、まずはどうしようか」
早速、一輝の母親について二人は話し合う事にする。 しかし──いや、やはりというべきか話は全く進まず、津太郎が最初の一声を出してから沈黙だけが続いている。
この地球上の何処かにいる一人の人間を見つける……そんな途方もない事をやるにしても、ここら辺を闇雲にあちこち探した所で時間と体力が無駄に減るだけで終わるだろう。 かといって、ここでじっとしていても何かが進展するわけでもない。 現実とは非情なものである。
「うーん……」
一輝も目を瞑って考えているが、やはりそう簡単に良い案は思い浮かばないようだ。 こうしている間にも時間は容赦なく過ぎていく。
「やっぱ難しい──」
その後の言葉を言おうとした瞬間、いきなり津太郎の腹の虫が鳴き始める。 その音は部屋の何処にいても聞こえてしまうぐらい響いていた。
「あはは……もうそろそろ昼だもんな。 そりゃ腹も減るよな、うんっ……!」
誰に言い訳しているか分からないが、津太郎は顔が軽く赤くなる。 授業中の静まり返っている時に鳴ってクラスメート全員に聞かれるよりはマシだが、恥ずかしいものは恥ずかしい。
「それで……その、一輝は腹減ってないのか?」
お腹が鳴ってしまった事を無かった事する為に話をすり替えるというつもりではなく、あくまでも単純に気になったから聞いてみた。
「僕はまだ空いてないかな。 いつもより食べるのが遅かったっていうのもあるけど」
「食べるのが遅かった──ってそういえば飯はどうしてるんだ?」
この質問をしている最中、津太郎の頭の中では何故か森の中でテントを張り、その近くで焚き火を使って料理をしているイメージが浮かんでいた。
「ご飯はメイドのコルトがいつも作ってくれてるんだ」
「メ、メイド!?」
その言葉を聞いた時、自分の中のイメージが崩れ落ちると同時に異世界にはこの世界のような格好だけのメイドではなく本物のメイドが存在するのかと驚いた。
「……! そういえば運動場で一輝の他に青髪のメイドの格好した人がいたけど、もしかして──」
次に津太郎は運動場で見た一輝以外の五人の姿を思い出す。 目に焼き付けた忘れもしないあの光景を脳裏に浮かべるのは容易かった。
「うん、その人だよ……本名はコルトルト・ブルーイズって言うんだけど、僕達はコルトって呼んでる」
「コルトルト・ブルーイズ……」
そのファンタジー世界にいそうな名前を聞いて、津太郎は胸が躍った。 ついに本物の異世界の住人と直接の接触とまではいかなくても、存在や名前を知る事が出来たからだ。
津太郎が他の四人についても聞こうとした時、午後になった事を知らせる音楽が外の防災無線から鳴り始める。
いきなり外から音楽が流れて驚いたのか一輝は軽く肩をピクッと反応させていた。
「あっ、もう昼か……どうする? 休憩ついでにコンビニでも行く?」
この行き詰った状態のままでは仕方ないと思った津太郎はとりあえず気分転換でもしようと考えた。
「コンビニ……まだこっちに戻って来てから一度も入ってないし──行ってみようかな」
「よし、じゃあ決まりだ」
外へ出掛けるのが決まって二人がその場から立ち上がろうとした瞬間、何かに気付いた一輝が口を開く。
「あれ? 誰か向かって来てる?」
「え?」
一輝の言葉を聞いて津太郎が耳を澄ますと確かに誰かが階段を登ってきている音がする。 そして階段を登り切ったその足音が津太郎の部屋の目の前で止まると、次にドアを軽くノックされた。
「津太郎、ちょっと入ってもいい?」
ドアの向こう側から美咲の普段より高く優しげな声が聞こえてきた。
(なんだ母さんか……って他に誰もいないし普通に考えたらまぁそうだよな)
でも普段は部屋に入ってこないのに今日に限って来るとは一体どうしたのだろうかと不思議に思った。
「うん、別にいいけど」
「それじゃ、開けるわよ」
津太郎の返事を聞いた美咲はドアを開ける。 するとその左手には何やら色々な食べ物や飲み物を置いた長方形の茶色いトレーを手のひらに乗せるような形で持っていた。
「あら、ちゃんとテーブル用意してるなんて気が利くじゃない。 はいこれ、お昼ご飯」
そう言った後に美咲はゆっくり二人の元へ近付くと、トレーをテーブルに丁寧に置いた。
トレーの上には恐らく冷凍と思われる大きなピザの乗った皿、緑色の筒状の箱に『サラダ味』と書かれたお菓子、そして津太郎の好物でもある赤色のラベルの貼られた黒色の炭酸飲料のペットボトルがそれぞれ二つずつ乗っている。
「一輝君ごめんなさいね~。 本当なら手作りの昼食を用意したかったんだけどお昼までに時間がどうしても足りなくて~」
美咲は一輝に笑顔を振りまくと、テキパキと慣れた手つきでトレーからテーブルへと物を置いていく。
「あっ、いえ、こちらこそ──その、昼食を用意してくださってありがとうございます」
一輝はその場で立って美咲に頭を下げた。
「いいのいいの~、こっちが勝手に準備したんだから。 ほんとはピザとは別にフライドポテトあったらそっちを出したかったんだけど丁度切らしててね~、代わりにこのお菓子で我慢してくれる?」
「いっ、いえいえ! 我慢だなんてそんなっ! 本当に嬉しいです!」
一輝は手を横に振りながら感謝を示す為にハッキリと言いきった。
「ん? これって俺が買ってたお菓子?」
津太郎は緑色の箱を手に取り、眺めながら言う。 どうやら心当たりがあるらしい。
「そうよ。 一輝君が来た時に出すから置いといてっていうからずっと一階に仕舞ってたお菓子。 一輝君がいるのにいつまで経っても取りに来ないから忘れてると思って持ってきたのよ」
「さっきはそんな余裕──じゃなくて、えっと……昼からでいいやと思ってたんだって! 別に忘れてた訳じゃないから!」
危うく先程の一輝とのやり取りを軽く漏らす所だったが何とか堪える。
「ふーん、本当? 後なんでそんなやたら必死なのかしら? 何か困る事でもあるの?」
だが、つい勢い余って意味不明な言い訳をしてしまったのが失敗だった。 どうやら不信に思った美咲からの質問責めに合ってしまう。
「い、いやそんなことないけど……ほらっ、母さんがいつまでもいたら一輝もピザ食えないしさ、もう部屋から出たらっ?」
「そうやってすぐ追い出そうとしてるなんてなーんか怪しいわねぇ」
「別に怪しくなんかないってっ!」
親子ならではの仲睦まじい本音のやり取りをじっと見つめていた一輝は津太郎を羨ましく思ってしまった──何故なら、この光景こそが自分の中で最も求めている物だからだ。
母親とのなんてことない会話。 内容は何でもよく、ただ目と目を合わせ、ただ思った事を口にするだけの何処の家庭でも出来る会話。 母親がいればすぐに叶う願い……だが母親のいない一輝には簡単に叶わないその願い。
津太郎は間違いなく気付いていないだろう。 自分が今、どれだけ幸福であるということを。 そして、恵まれているということを。
(僕もいつかこうやってお母さんとお話出来るようになれるのかな……いや、『なれる』──じゃなくて『なる』ようにする為に頑張らないと)
この後も一輝は津太郎と美咲が楽しそうに話している姿を眺めていた──自分もいつかは母親とこういう会話をしたい……そう願いながら。




