夏の始まり その十
その日の放課後、月下小織は教見津太郎の席の横まで行くと持っていたスマートフォンを見せつけるように腕を伸ばした。
「はい、これ愁ちゃんのチャンネルね」
液晶画面に写っているのは小織の言葉通り、加賀愁のチャンネルだった。
何故分かるかというと、表示されているアイコンは思わず見ているこちらも釣られてしまう程の満面の笑みをした愁の顔だったからだ。 その横には可愛らしい名前のチャンネルが書かれてある。
本来であれば昼休みに聞く予定だった筈なのだが、お互いのグループで話が盛り上がってしまった事からそのままチャイムが鳴ってしまう。 そのせいでチャンネルについて聞きそびれてしまい、今に至っていた。
津太郎は「ちょっと待ってくれ」と言うと学生カバンの中から適当にプリントを取り出して机の上に置き、メモを取る。
「ありがとな、本当に助かった」
素直にお礼を言いながら津太郎はプリントを再び片付けた。
「どういたしまして。 一応聞くけど登録するのに動画サイトにログインしなきゃいけないのは知ってるわよね?」
「それぐらい知ってるって──さてと、じゃあ帰るか」
津太郎はメモを片付けると席を立ち、小織とその隣にいた清水栄子と三人で教室を出る。
──そして校門を抜けた後、小織といつものように挨拶を済ませて別れた帰り道。
昼休みの時間帯と変わらない太陽の明るさに、おまけ程度に浮いてある薄い雲は所々に散らばっているせいで日除けには全くなっていない。
そんな天気に加えてセミの大合唱が鳴り響く中、二人は信号が無い二車線分の横断歩道の手前を歩いていた。
(もう異世界に関わるのは止めた方がいいかもしれないな……でも一輝との約束を破る訳にはいかないから一応約束は守るけど、次で最後にしよう。 向こうには申し訳ないけど俺なんか対して力になれないしさ……別に今はもう学校で何か起こってるわけじゃない。 意識しなかったら今まで通りの生活を送れる筈だ)
教室では二人の前で平気そうなフリをしていたが本当は昼休みの事をまだ引きずっていた。 そしてこれ以上手遅れになる前に津太郎はもう完全に異世界について忘れようとも考えていた。
心残りが無いと言えば嘘になるが、深入りし過ぎて日常と非日常の境目が分からなくなる前に手を引いた方が絶対いい。 そう自分を納得させようとしていた──その時、
「教見君っ!!」
急に大きな声が後ろから聞こえてきた津太郎は、ハッと意識を取り戻すと同時に物凄い勢いで何かに引っ張られてしまう。
そして次の瞬間、津太郎の目の前を白の軽自動車がクラクションを鳴らしながら右から左へと瞬きをする間もなく走り抜けた。
「バカヤローっ! ちゃんと前見ろやっ! 死にてぇのかっ!」
横断歩道を過ぎた所で急ブレーキをした車が補助席側の窓を開くと、茶髪の二十代と思われる男性が容赦ない罵声を浴びせてきた。
本来であれば車側が一時停止をして歩行者を渡らせるのが道路交通法で定められた決まりであって、どちらが悪いかと言われれば運転手の方であって文句を言う資格はない。
しかしそんな知識も無く未だ呆然としていた津太郎は何も言えず、運転手の方は舌打ちをして軽く睨むとその場から去っていく。
それまで何が起こったか分からなかった津太郎が真っ先に気付いたのは、すぐ後ろにいる栄子が左腕を両手で掴んで身体に密着させている事だった。
──あの時、車が通過する前に呼び止めて一瞬の間に後ろへ引っ張ったのは栄子だ。
津太郎は異世界について考える事に集中し過ぎて周りが全く見えておらず、横断歩道の前で立ち止まらないまま前へ進んでしまったせいで危うい目に遭ってしまったのだ。
栄子は無我夢中なのか、その両手は絶対に離さないと言わんばかりに力強く握りしめている。
そして栄子の身体に密着したままの津太郎の左腕には、尋常じゃない早さで心臓が拍動しているのを夏服のベスト越しに感じる。
思いっきり目を瞑り、口は閉じているが歯は噛み締めているように見えるその表情には必死さが出ており、津太郎にもその感情が伝わってきた。
「──あっ! ご、ごめんなさい!」
冷静になった栄子は津太郎にいつまでも密着している事に気付き、慌てて手を離すと少しだけ距離を取る。
「でも無事でよかった……本当に」
栄子は津太郎が無事にいてくれて安堵したのか胸骨の部分に右手を当て、軽く息を吐いたまま頷く。
ただ、その声は少し震えている。 下手すると自分の大切な人が最悪な事態に陥る可能性もあったのだ、怖くなるのも無理もない。
少し時間が経って津太郎がようやく何が起こったのか把握出来た所で、叫び声やクラクションといった耳に響く音が原因で周りにいる人から注目されてしまったのだろうか、子連れの母親や年寄りの人達から声を掛けられてしまう。
「大丈夫!? 怪我はない!?」
「おねぇちゃんすごーい! かっこいい!」
「危なかったのぉ~、見てるこっちがヒヤヒヤしたわい……」
「何やっとるんだ! その子がおらんかったら轢かれとったぞ!」
ただ、今よりも大騒ぎになってしまうと誰かが警察を呼びかねないと思った津太郎は急いでこの場を収拾する為にひたすら謝罪をする。
結果的に事が大きくなる前に騒ぎは収まって周りの人達が立ち去っていく。 何とか無事に済んで安心した二人も帰る為に横断歩道を渡り始めた。
◇ ◇ ◇
横断歩道を渡り切って見慣れた住宅街の道を歩いている最中、津太郎は自分が情けないと思っていた。 いつまでも昼休みの事をズルズル引っ張ったせいで我を見失い、挙句の果てには交通事故を起こしかけて軽い騒ぎを起こしてしまった事に。
そしてすぐ側にいた栄子に不安や恐怖といった辛い気持ちにさせてしまった事を後悔していた。
自分がもっとしっかりしていれば、車に轢かれそうになる瞬間なんて最悪な光景を見せずに済んだ筈なのに──悔やんでも悔やんでも悔やみきれない気持ちで一杯だった。
騒ぎが収まった後に津太郎は栄子にも謝罪をしたが怒る事はなく、逆に「無事でいてくれただけで、私は嬉しいから」と言われてしまい、自責の念に駆られてしまう。
隣に栄子がいるにも関わらず全力で溜め息を吐く、もしくは叫びたい気持ちが強かったが今は何とか堪えている。 流石にもうみっともない姿を見せたくはないし気を遣わせたくなかった。
いつもなら津太郎が何か色々と話題を出して雑談をしているが、今日はとてもそういう気分になれず二人は黙々と歩き続ける──しかし横断歩道を渡ってから五分後、住宅街の歩道で栄子が急に立ち止まると口を開いた。
「あの──教見君……一つ聞いても……いい?」
ただ、本当に聞いていいのか躊躇っているようで言葉自体はぎこちなく感じる。
「……!? もっ、勿論だ! さっき迷惑掛けまくった分、どんな事でも答えるから言ってみてくれっ!」
津太郎としては恩を返すという意味でも栄子の力になりたくて無理矢理にでも笑顔を作り、明るく振る舞って話しやすい雰囲気を作る。
「じゃ、じゃあ言うね……えっと、今日──何か辛い事でもあった……?」
栄子の言葉に津太郎の心臓がドクンッと跳ね上がるように動いて、つい笑顔が消えそうになる。
「──えっ……な、なんで急にそんな?」
質問に答えると言ったのに、津太郎は逆に質問をしてしまう。
「さっき……明らかに様子がおかしかったから。 一体どうしたんだろう、考え事でもしてたのかな、どうしたのかなって気になって──それで……」
横断歩道で危機一髪の光景を見た栄子が津太郎に対してそういう疑問を持つのは当然だろう。 長年近くで見てきたなら尚更だ。
「図々しくてごめんなさい。 でも悩みがあるなら、私で少しでも力になれるのなら相談して欲しいと思って……」
栄子の必死の訴えに津太郎の顔からは完全に笑みが消えていた。 ここまで言われて誤魔化すなんて最低だと思った津太郎は覚悟を決める。




