日常 その3
「おはよう。 相変わらずあの人は朝から賑やかだな」
教見津太郎は門扉の向こう側にいる清水栄子に優しく呼びかけるように冗談を交えながら挨拶をする。
「お、おはよう……」
しかし栄子から発せられた声はとても数年間一緒にいるとは思えない程に緊張していた。
(家ではしゃいでるの言われたのが恥ずかしいよぅ……)
どうやら栄子は母親にマイク越しで津太郎と会えるのを楽しみにしてたのをバラされたのが恥ずかしくて堪らないらしい。
「うぅ……」
顔を見られるのも恥ずかしい栄子は急に前かがみになって目を閉じ、苦しそうな声を出し始める。
そんな状態の栄子を見た津太郎は頭よりも先に身体が動き出し、思わず門扉にしがみつく勢いで身体を近付ける。
「──!? だ、大丈夫か?」
津太郎からすれば目の前でいきなり辛そうな声を出されたのだ、不安になるのも無理はない。
「そうだ、インターホン押して家に──」
「ま、待って! 違うの……ただちょっと心の声が漏れたというか──余計な心配させて本当にごめんなさい……!」
栄子は慌てて身体を起こし、焦るような仕草をしながら謝罪をする。
「心の声?」
津太郎からすれば意味の分からない栄子の言葉に疑問を抱く。
「ななな何でもないよ! えっと……その……遅刻しちゃうかもしれないし早く……いこ?」
栄子としては早くこの話を無かった事にしたいが為に切り上げたい気持ちが強かった。
「でもさっき明らかに苦しそうな声を出してたし、具合悪いなら今日は休んでも──」
津太郎の無条件で心配してくれる優しさに栄子はつい甘えそうになる。
「うぅん、本当に具合も悪くないから心配しないで」
あまり朝から負担を掛けさせたくない栄子は体調に問題はない事をアピールするように笑顔で振る舞う。
「──まぁ栄子がそう言うんじゃ俺は静かにするさ……でも辛くなったら遠慮なく言うんだぞ」
──そう言い終えて栄子が門扉から出てくるのを確認した津太郎は学校の方へ向いて歩き始める。
ただこの時、栄子は津太郎の後ろ姿を少し寂しそうな目で見つめていた。
(私ってやっぱり教見君からすれば妹みたいなもの……なのかな……)
清水栄子の手入れが届いた見事なまでに美しい直線でいて纏まった長い黒髪は、毛先が腰辺りまで伸びている。
栄子の優しさや大人しさを象徴するような、おっとりとした目に何処か自信無さげな黒く丸い瞳。
清潔でとてもみずみずしい小麦色の肌に目立ちはしないが健康的で赤い唇。
身長は津太郎より低く百六十センチで、スタイルも出る所は出ているがあまり見られたくないらしく、シャツの上には必ずといっていいほど何かを着ている。
落ち着きはあれど飾ろうとは一切しない清楚な雰囲気。
それでいて可愛らしい顔立ちをしている姿は正に大和撫子というのが相応しいだろう。
(そろそろ行かないとまた心配かけちゃう)
すぐ近くにいる筈なのに遠くにいるようにも感じる──長年の付き合いなのに距離感がよく分からなくなる感覚に、不安な想いを抱きつつ津太郎に肩を並べて歩き出す。
──それから五分後、歩けば歩くほどに津太郎の体温が上がってくる上に、地面のコンクリートからも熱が嫌になるぐらい伝わってくる。
「──何か今日やたら暑くないか?」
朝から予想外の暑さと寝不足が原因で既に疲れが見え始めている津太郎とは逆に、栄子は涼しげで何ともないような顔をしている。
「えっ?……私は別に平気かな?」
平然と言ってのける程に余裕を感じるその態度からは痩せ我慢してるようには見えない。
「そ、そうか……こっちからは見てるだけ暑そうに感じるぐらいなんだが、栄子がそう言うなら間違いないんだろうな」
津太郎がじっと見つめている栄子の着ている学校の制服は、白のブラウスの上に黒のブレザー。
下は黒のスカートで首元には紺色と白を組み合わせたスクールリボン。
そして足には黒のソックス──と全体的に黒を基調としたもので確かにこの時期には大変そうではある。
(うぅ……ずっと見られて恥ずかしいよぅ……)
津太郎の視線が気になって全く落ち着かず、つい頭を俯かせて両手の指と指の間を交差するような動作をしてしまう。
「でも何か顔が赤くなってないか?」
「──! き、気のせいじゃないかな! 気のせいだよ、うん!」
栄子は勢い余って慌てた様子を態度には出してしまうが、顔が赤い理由が津太郎にジーッと見つめられていたからというのは言わなかった。
「お、おう……分かった。 でもさっきみたいにキッパリと言う態度を教室でも取ってたらクラスの男子も、あの馬鹿以外からも気軽に声を掛けてきそうなもんだが──栄子モテそうだし」
「えっ!? そ、そそそんな事ないよ……! 私なんかが誰かにモテるだなんてあり得ないよ……!」
不意打ちにして予想外の発言に焦りを隠せない栄子は何を言えばいいか分からず、とりあえず思った事を口にしてしまう。
「え? 気付いていないのか? 同じクラスの男子でも何人か栄子を気にしてるような感じで見てる奴はいるし、他のクラスの奴にも『彼氏はいるのか』みたいなの聞かれた事あるぞ」
「そ、そうなんだ……でもあまり嬉しくはないかな……ジロジロ見られるのって……」
あまり不満を漏らさない栄子がここまで素直に言うのは珍しいかもしれない──それほど嫌だという事だろうか。
そして津太郎自身、少し考えれば分かる事なのに、特に意識せず冗談のつもりで言った事が栄子に不愉快な気持ちにさせてしまったのを後悔した。
「すまん……当たり前だけど、誰だってあんな事を言われて良い気になんてなれないよな」
馬鹿みたいな発言をした自分の顔を、周りに誰もいなければ殴っていたかもしれない。
「ただ、栄子にそんな面倒な奴らが近づいて来ないよう俺がずっと守ってやるから安心してくれ」
津太郎の中ではその栄子を安心させる為に言える事がこれぐらいしか思い付かなかった。
しかし、『ずっと俺が守るから』という言葉を栄子は違う意味──結婚前のプロポーズのような意味で捉えてしまい、すっかり少し前まで抱いていた嫌な気持ちは綺麗に消えていた。
「ずっと守るだなんて、そ、そんな事言われてもわ、私っ! 一体どうすればいいの……かな?」
朝から色々な情報が入り過ぎて栄子は目が回る。
「どうすればって……これまで通りに過ごしてくれればいいんじゃないか?」
津太郎からすればどうしてここまで動揺してるのか分からないが、とりあえず今は栄子が落ち着かなくなったに冷静に対処する。
「う、うん──そうだね、教見君の言う通りにするよ」
栄子は深呼吸をして少しずつ落ち着きを取り戻す。
(でも、本当に嬉しいな……いつまでもこの幸せが続くといいな)
栄子は今日という日を絶対に忘れないと心に誓った。
津太郎は栄子の機嫌が良くなった事に一安心したと同時に、二度とあのような失言をしないと心に誓った。




