過去と現在 その四十
ここの平地は他の所同様に地面は雑草だらけだが、そこまで長く伸びておらず一輝の膝ぐらいで統一されていて、周りは一部を除いて大きな木々や土による斜面が壁や屋根のように囲っている。 広さは一般的な一軒家をそのまま置いてもまだまだ余裕がある程の大きさだ。 ただ、登れそうな斜面はあるので行き止まりということではない。
「あ、あれ……かっ、身体が急に重く……」
平地に着いた事で朦朧としていた意識が目覚めるがそれと同時に緊張の糸が切れたらしく、一輝の身体は鉛のように重くなり、今にも膝から崩れ落ちそうになる。 ここで座れば楽になれると分かってはいたが、一度してしまうと二度と立ち上がれないような気がして震えた足で何とか耐えた。
「止まってたら危なそう……そ、そうだ、あっちに行ってみよう……何か分かるかもしれないし……」
虚ろな一輝の目の先にはこの囲まれた木々の中で唯一遮る物が何も無い空間のある崖で、その奥には草木に視界を邪魔される事の無い青空が広がっている。 どうやら自分が何処にいるのかを確認する為に向かっているようだ。
「足が……思うように動かないや……」
だがこれまで無理をさせ過ぎてしまったようで、足を引きずるような歩き方しか出来ない。 改めて足を確かめてみるとむき出しの膝から足首辺りも土汚れや擦り傷まみれ。 新品のスニーカーも古靴のようになってしまっている。
しかしどれだけ時間が掛かろうが、息が切れようが、足が重くなろうが、目的地まで足を止めなかった。 そして普通に歩けば一分掛からない距離を三分以上掛けて崖へと辿り着く。
「こんな高い所まで来てたんだ……」
崖の前で立ち止まり、間違えて落ちないよう近くにある木を右手で掴みながら外を覗くと、そこからは遥か遠くまで一望する事が出来る絶景だった。 下を向くと野山を登る前までは自分もいたキャンプ場が見える──が、距離が離れすぎてテントは形ぐらいしか分からず、人は米粒程度の大きさなので誰が誰なのか全く分からない。
「……」
見た直後こそ僅かに驚きはしたものの、極限にまで達した疲労や空腹と喉の渇きによって何も感情が生まれず、これからどうすべきかという思考も働かず、ただ茫然とキャンプ場を見つめていた。
「──あそこって確か僕らのテント……」
霞む目を左手で擦り、キャンプ場で一番大きな建物の管理棟から辿るようにしてフリーサイトの入り口近くにある黒の布を目にした瞬間、一輝はそのテントが自分達の借りてある物だと分かった。
「お母さん、どうしてるかな……」
一輝はテントを見ながら呟く。 その言葉には何処か寂しさや不安が入り混じっているように感じる。
「帰るの……すっかり遅くなっちゃったな……心配してたらどうしよう……」
テントから出る前に翔子と交わした約束を思い出す。 そしてその約束を破ってしまった事に罪悪感を抱く。
「どうして……どうしてこうなったんだろ……本当なら今頃お母さんと一緒にキャンプを楽しんでたのに……」
木を握る力が自然と強くなる。 その衝撃で額の傷が響くが、肉体の痛みよりも心の痛みの方が強かった。
「僕が……僕があの時に格好つけて一人で行くなんて言ったから……」
立ち止まり、呼吸が整ったことによって薄っすらと蘇ってくる山の麓での記憶。 一人で突っ走らず大人に助けを求めれば良かった、あの時に引き返せば良かった──と何度も心の中で過去の自分に訴えかける。
「うぅ……やだよぉ……帰りたいよぉ……お母さんに会いたいよぉ……」
身体が震え、一輝の目から涙が零れる。 一粒が流れるとそこから涙が止まらなくなり、今まで一度も吐かなかった弱音も漏れ出す。 そしてついに堪えていた膝が崩れ落ち、地面に手と足が付いてしまう。
「誰か助けて……誰か……」
キャンプ場に向かって風で搔き消されそうな程の小さい声で助けを求める。 誰にも聞こえないと分かっていても、言わずにはいられなかった。
「──そ、そうだ……! ここから大声出して気付いてもらえば誰かが気付いてくれるかも……!」
疲れ果てて思考が働かない中、ふと一つの案が思い浮かぶ。 自分が生き残るにはこれしかないと思い、気力を振り絞って既に悲鳴を上げている身体を何とか立たせる。
「はぁ……はぁ……」
──が、立ち上がるだけで息が切れて呼吸がままならない。 本当に声が出せるのか不安を感じたが、やるしかなかった。
「よ、よし……誰かぁぁぁぁっ! 助けてぇぇぇぇっ!」
一輝は残った体力を出し惜しみせず、全力で声を出しながら両手を大きく振る。 二回、三回と助けを求める声を出し続ける。
しかしキャンプ場の人達は立ち止まったり、周りを見渡すような反応をしなかった。 それもその筈、一輝の中では大声と思っていたその声は実際には張りもない上に掠れ気味で力弱く、残念ながらキャンプ場に一切届いていないからだ。
ここにいる事を意識させる為の身体の動きも着ている服装が山の一部となって溶け込んでいるせいで全く見えておらず、一輝の死にたくないという欲求から生まれた願いは踏みにじられて終わる事になる。
「気付いてぇぇぇぇえっ!──!?」
一輝がその事に気付かないまま四回目の大声を出した直後、急に視界が真っ暗になり頭が揺らぎ、前のめりに倒れてしまう。 その原因は多量の出血や叫び過ぎによる酸欠だった。
「──何が……起こったの……ち、力が入らない……」
うつ伏せのまま意識が戻った後、酸欠そのものを知らなかった一輝は生まれて初めての感覚に困惑する。 それからまた呼びかけをするのに立ち上がろうとしたが、身体が言う事を聞いてくれない。
(早く……立たなきゃ……)
何度も何度も両手に力を入れて上半身を、両足に力を入れて下半身を起こそうとするも途中で姿勢が保てずその場に倒れ込む。 この時になってようやく自分の体力や筋力が限界に達している事に気付いた。
(何かもう……この状態の方が楽だし……このままでいた方が良いような気がしてきた……)
そしてとうとう残っていた気力さえも尽きかけ、全てを放置する勢いで投げやりになっていた。
(もしかしたらさっきの呼びかけで……誰かが気付いてくれてるかも……しれないし……きっと……ここで大人しくしてた方がいい……よね……)
まるで深い眠りにつく直前のように意識が朦朧とする。 今、目を瞑ればきっと気持ち良く眠れるだろう、楽になれるだろう、この苦しみから解放されるだろう──そう思いながら目を閉じようとした。
(あ……れ……? でもこのまま……じゃ死ぬ……んじゃ……)
──が、ふと頭の中に『死』という言葉がよぎる。 その『死』が目の前に近付いている事に本能が感じた瞬間、一輝は全身が震え、恐怖で目が覚める。
「嫌だ……! 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! 死にたくない! 死にたくない!」
本心を曝け出し、己を奮い立たせるように大声を出しながら、微かに残った最後の力を使って身体を起こし始める。
苦悶の表情を浮かべながらも何とか立ち上がった後、一輝は息切れをしながら近くの木に背をもたれる。
「はぁはぁ……はぁはぁ……よかった……立てた……」
辛く、苦しいのには変わりないが、身体を起こせた事には安堵する──だが、
「くっ! まっ……また血が……」
それと同時に額から殆ど止まりかけていた血が再び勢いよく流れ始めてしまう。 血が出るきっかけとなったのは酸欠で、倒れた際に地面へ頭を打った衝撃で傷が開いてしまったのだ。
「で……でも……行かなきゃ……お母……さんと……早く……帰る……って……約束した……から……」
だが一輝はそれでも山を下りようと呼吸を少しだけ整える。 そして重い身体を半ば無理矢理にでも木から引き離し、足を動かす。
絶望的だとは一輝も分かっていた。 だがそれでも諦めきれなかった。




