過去と現在 その三十八
「ぼ、僕が?」
「だってさぁ、今んとこ二対二の引き分けでこのままじゃ埒が明かないし、君に選んでくれたら多数決という形で勝敗が決まるじゃん。 だから頼むよー、パパっと言うだけでいいからさー」
活発な男の子は両手を目の前で合わせ、一輝に頼み込んでくる。 しかし突然の事に頭が切り替えられず、すぐには言い返せなかった。
「ちょっとー、急に言われてその人困ってんじゃーん。 止めなよそういうのさー」
「な、何にも知らないのに押し付けるのは良くないと思うよ、うん……」
「じゃあそっちが俺達の意見に賛成してくれよー。 そうすれば全て解決じゃんか」
常に互いの意見が平行線のせいで再び言い争いが始まりそうな雰囲気が出てきてしまう。 一輝もまたその感覚を空気で感じ取った。
「まっ、待って! 僕がどっちか選べばいいんだよね? でも何も知らないまま適当に決めるのは雑な気がして良くないと思うし、ちょっとだけ皆の事を教えてもらっていいかな?」
「えっとね──」
厳しそうな女の子の説明によると、四人は同級生で昔からの幼馴染み。 年齢は一輝より一つ下の九歳らしい。 そして全員が家族ぐるみで仲が良いらしく、このキャンプにも二組の親と一緒に来てるようだ。 ちなみに他の親は仕事の都合で行けなかったという。
どうしてこのキャンプ場へ来たかというと、住んでいる所がビルや建物ばかりが建て並ぶ大都会のようで、常にコンクリートに囲まれた景色ばかりを眺めているのは子供にも良くない──そう思った親達が開放感溢れる大自然の空気や雰囲気を満喫し、こういう所でしか得る事の出来ない経験をしてもらう為だそうだ。
「なるほど、教えてくれてありがとう。 話を聞いて、確かにここよりずっと遠い都会では出来ない体験を一度はしてみたいっていう気持ちは凄く分かるよ。 だけど山は凄く危ないっていうし、登るのは止めておいて見るだけで満足しておいた方がいいんじゃないかな」
一輝が選んだのは女の子側の意見だった。 先程は急に言われて咄嗟に答えられなかったが、冷静に考えるとまだ十歳にも満たない子供を山へ行かせるなんて常識的に考えて有り得ない事だ、一輝の判断は当然ともいえる。 とはいえ一輝自身も男の子側の冒険心については分かる所もあり、否定するのは少々辛かった。
「ほらほらー、だから言ったじゃないのー。 はい、多数決で私達の勝ちなんだから山に行くのは止めてよね」
「ほっ、良かった……」
女の子二人も一輝の賛同によりすっかり安心しきっていた。 行かない側からすれば保護者達に黙って山へ登ろうとするなんてたまったものではなく、恐らく胸の内は安堵に包まれているに違いない。
「えぇー! なんでだよー! 別にちょっとぐらいならいいじゃんかー!」
「僕達の気持ちが分かるなら普通こっちに賛成するんじゃないのかよー! 女の子の前だからってカッコつけてるわけじゃないよねー!?」
逆に男の子側からは当然ながら反発を買ってしまっていた。 だが一輝としてはある程度の不満を抱かれ、吐かれるのは覚悟の上で発言したのだ、後悔はしていなかった。
「ちょっとっ! 自分の思い通りにならなかったからって失礼なこと言わないで──」
「あーあ、だったらもう俺らだけで行こうぜ。 多数決なんて知ったこっちゃねぇや」
「そうしよそうしよ。 せっかく頂上まで連れて行ってやろうって思ってたのに二人にはガッカリだよ、ほんと──あ、このことは保護者の人には内緒にしといてね、それじゃ」
男の子二人は捨て台詞を吐き捨てた直後に山へ向かって歩き出す。 女の子が「約束破らないでよ!」と止めようとするが全く聞く耳を持たず、そのまま山の中へと姿を消してしまう。
「どっ、どうしよどうしよ……! 行っちゃったよ……!」
「お、落ち着いて! こういう時こそ落ち着くのよ!」
今まで経験した事の無い状況に女の子二人は完全に混乱状態となっていた。 頑固そうな女の子も必死に落ち着かそうとはしているが、声や表情から不安を隠し切れない。
(僕がいけないんだ……! 年上としてもっとハッキリと駄目だと言わなかったから……!)
一輝は右手を強く握り締める。 どうして中途半端な対応を取ってしまったんだ、どうして山へ向かうのを黙って見送ってしまったんだという後悔の念が心の中で渦巻く。
(いや、今は反省してる暇なんてない……どうにかしないと……)
だが急いで気持ちを切り替える。 こうしてる間にも男の子達は遠くへ行ってしまっているのだ、自分を責める時間すら惜しい。
「だ、誰か……! お、大人に助けを求めた方がいいんじゃ……!」
「でもテントまで戻ってたら間に合わないよ!」
女の子達はその場で立ち止まったまま相談し合っているものの、焦りが募る一方で結論が出る気配は無い。
「──僕が行くよ」
二人に割り込む形で一輝が静かに声を出す。
「えっ、でも……」
頑固そうな女の子が反応する。 だが先程とは打って変わって弱々しい態度になってしまっていた。
「元はといえば僕が勘違いして君達の話の邪魔をしたのがいけなかったんだ。 多数決なんて形を取らなきゃ決着が付かず、そのまま山へ行くという話が流れてたかもしれないのに。 だから僕が責任を持ってあの子達を見つけてここに連れ帰ってくるよ」
一輝はそう言い残し、男の子達を追うように山へ足を踏み入れる。 この時、一輝の中では『人を助ける』という使命感、そして『己の責任』という罪悪感が入り混じっていたせいか、恐怖は特に感じていなかった。
「じゃあ私達も一緒に──」
「いや、一緒には行けない。 もし三人で行って誰かが迷子になったりなんかしたら、それこそ探すどころじゃなくなるし、何が起こるか分からないんだ。 だから僕一人で行く」
多数決の時のような遠慮しがちな言い方ではなく、強気な口調で女の子達を説得する。 少々胸は痛いが、女の子達を危険な目に遭わせない為にはこうするしかなかった。
「──さっきはキツく言ってごめん。 だけど大丈夫、二人と一緒に戻ってくるから。 それじゃ……」
この時点で男の子達との距離は相当離れてしまったに違いない。 そう感じた一輝は申し訳程度の別れの挨拶を済ませると整備された平面の道ではなく、足元が見えない程に雑草が生えた斜面の獣道を歩き始めた。
◇ ◇ ◇
「おーい! 戻って来てー! それ以上行くと危ないよー!」
山を登り始めてから二分後、一輝は大声を出しながら目の前の草や木の枝を掻き分けて前に進んでいた。 しかし男の子達の足音や話し声は全くせず、自分の呼吸や草を踏みつける音しか耳に入ってこない。 まるでここにいるのは一人だけのようだ。
「どうしよう、急げばすぐに追いつくと思ってたのに……」
歩けど歩けど見当たらない、それどころか体力だけが無駄に消耗してしまうのは仕方なかった。
歩いてるのは平面ではなく斜面、視界は緑が生い茂る木やへし折れた枯れ木に邪魔され、それに加えて大きさがバラバラの石が地面の至る所に転がっているのだ。 踏みつけては足の裏を痛め、時には足を引っ掛けそうになってしまう事もあり、肉体的にも精神的にも徐々に徐々に削られていくのは当然だった。
「あの二人、何処に行ったのかな……早く見つけないと戻れなくなっちゃいそう……」
一輝は足を止め、後ろへ振り返る。 今ならそこまで離れていない為、見つけても来た道をすぐに戻れば帰るのは容易い。 だがこれより更に奥へ進めば下手すると戻れなくなるかもしれない──そう思うと一瞬だけ身体が震えた。
カエッタ ホウガ イインジャナイ?
頭の中でこの言葉が頭をよぎる。 命の危険から逃れる甘い言葉が。 重荷が軽くなる誘惑の言葉が。
「──いやっ、駄目だ……! 何を考えてるんだ僕は、あの子達とも約束したのに帰るわけにはいかないじゃないか……!」
一輝は首を横に振り、雑念を断ち切る。 そして息を整える間もなく捜索を再開しようとした──が、
「うわぁっ!!」
その直後、子供の叫び声が上の方から聞こえてきた。
「転びそうになったからって大声出すなよ! 見つかったらどうすんだ!」
別の子供の怒鳴り声も同じ方向からしてくる。 草木のせいで見えないが、どうやら探していた男の子二人で間違いなさそうだ。 ただ、男の子達の声がこちらに届いたという事は、一輝の呼び掛けの声も向こうに届いていた可能性が高い。 恐らく分かっていたのに無視していたのだと思われる。
「そこにいたんだね! 今ならまだ間に合うから一緒に戻ろう!」
一輝は上に向かって大声を出すと同時に勢い良く斜面を駆け上がる。 すぐ近くに探していた人達がいるというのが分かってか、不思議と力が湧いてきた。
「ヤバい! 逃げろ!」
「急げ急げ!」
だが男の子達は一輝の所へ来てくれるどころか左側に向かって全力で逃げ出してしまう。
「待って!」
一輝は足音のする方へ急ぐ。 木の枝を掻き分ける時間すら勿体無く、顔に葉が当たり切り傷が出来ようとも気にも留めなかった。
「早く戻らないと大変なことに──うわっ!」
しかし焦りのあまり、斜面が滑らかになっているにも関わらず無理して走ったせいで一輝は足を滑らせてしまう。
(まず──)
一輝が転倒する瞬間に見えたのは斜面に半分だけ埋まった状態の出っ張った大きな石だった。 何とかして避けたかった。
「ぐぅっ!」
──が、咄嗟に避ける事が出来ず、一輝の額に石の角が直撃するようにして倒れてしまう。
「……」
そして──そのまま動く事は無かった。




