プロローグ 『死』の先にあるもの
二〇××年 五月上旬。
この日はゴールデンウイーク最終日。
明日から仕事、または学校が始まってしまうと誰もが憂鬱な気持ちになってしまうそんな日の昼間。
都会にある下手すれば迷ってしまいそうな程に大きな電車駅の構内には、様々な理由や思惑を持った人達で溢れかえっていた──それはもう上から見ればまるで死体に群がるアリの大群かと錯覚する程に。
駅のホームにもまた昼間という事もあって何処かへ移動しようとする人で密集しており、その中に一人の若い成人男性が中央辺りの最前線に立っていた。
人前を歩くというのに髪型も気にせずボサボサのままで髭も剃っていない。
服装も白のTシャツに青のジーパンと非常に適当で、夜中に近くのコンビニにでも行くような恰好である。
彼の目には何が映っているのか分からないが、ただひたすら一直線に前を見つめ続けている──しかしその目に力のようなものは感じられない。
周りがどれだけ騒ごうとも微塵も気にしておらず、何も聞こえていないのかと勘違いしてしまいそうにもなる。
それから間もなく駅のホーム内に軽快な音楽が流れ出す。
これはもうすぐ電車が来るという合図で、この音を聞いた人達は我先にと床に引かれている黄色のラインより手前ギリギリまで移動を開始する。
ホームにいる人達が移動してる間、男性駅員による構内アナウンスが耳を塞いでも聞こえるぐらいの音量で流れてくる。
「まもなく〇番線に当駅止まりの電車が参ります。 危ないですから黄色い点字ブロックにまでお下がりください。 この電車は折り返し〇時〇〇分発、快速、〇〇行きとなります」
次に外国人男性による流暢な英語のアナウンスがホーム全体に響き渡った後、一定のリズムで心電図のような機械音が鳴り始める。
その間に誰かが指示していたわけでもないというのに綺麗に横一列、縦数列に並んだ人の行列があっという間に出来上がっていた。
すると既に最前線に立っていた成人男性の呼吸が荒れはじめ、その鼻呼吸は周りにいる人にもはっきりと聞こえてしまうぐらい大きくなっている。
「なにあの人……めっちゃ息がうるさいんだけど」
「耳障りだな~。 もうちょっと静かにしてくれよ……」
聞こえるか聞こえないか程度の小声で成人男性の近くにいる人達が愚痴を言う。中には苛立って舌打ちをする人もいた。
しかし、そんな愚痴を言われようが成人男性は一切気にしないどころか今度は口呼吸に切り替わり、その呼吸は明らかに震えている。
「絶対ヤバイ奴だよ、こっわ」
「ちょっと離れようよ。 不気味すぎるし……」
近くにいた数人が何をするか分からない恐怖や不気味さにより距離を遠ざかる。
それによって成人男性の周囲にはちょっとした空間が出来上がってしまい、傍から見れば孤立した状態になっていた。
アナウンスが終わってから数秒後──まだ目で来てるかどうか確認は出来ないものの、遠くから電車の音が聞こえてくるのが分かる。
ここにいる誰もがようやく電車に乗れるとしか考えていなかった──ただ一人の除いては。
「行ける行ける行くんだ行くんだ行くんだ行く行く行く行く行く行く踏み出せ踏み出せ」
突然、成人男性が小声で自分を鼓舞するかのような言葉を延々と呟き始めた。
「なんなんだよ急に……!」
「警察呼んだ方がいいんじゃない……?」
もうすぐ電車が来るというタイミングでホームがざわつくも、完全に自分の世界に入ってしまっている成人男性は全く気にもしていない。
「異世界に行くんだああああああああああああ!!!! 俺が助けるんだああああああっ!!」
少し前まで気味悪さはあれど落ち着いた態度を保っていた成人男性が、急に雄叫びのような大声を空に向かって吐き出す。
そして右足を地面に何度も何度も力強く踏みつけ始め、
「あああああああっ!! あぁぁぁぁぁあっっ!!」
──と、下に顔を向けて再び叫ぶ。
その異常かつ非常識過ぎる行動には流石に遠くで並んでいた人達も気付き、ホームにいる人達が軽くパニック状態になる。
「なになに? なんなの?」
「頭おかしい奴おるやん……!」
「駅員呼べって!」
こうしてる間に電車がホームに来た──その時だった。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁあああああっっ!!!!」
成人男性が前へと走り出し、線路へ向かって──跳んだ。
(俺は行くんだ……! 異世界に……!)
男性にとって走り始めてから跳ぶまでの瞬間はスローモーションに感じたかもしれない。
それは果てしなく永遠に続くかのように。
──だが現実は虚しく、その命は一瞬で散る。
いくらブレーキを掛けている最中とはいえ速度はは時速五十から六十キロメートルは出ており、電車の先頭車両と衝突した彼はそのまま地面に落下。
巨大な鉄の塊は容赦無くプレス機のように押し潰し、線路の上を走っている車輪の回転に巻き込む。
それから間もなく電車が少し進んで停止した後──線路には引き千切れ、欠損した身体の手足が転がっている。
胴体や頭は電車が上になり、覆い被さるようにして隠されているが、その中は見るに耐えない凄惨な状態なのは間違いだろう。
人としての原型は留めておらず、最早そこに残っているのは──人だった物の肉片だけだった。
「キャアアアアアアァァァアアッッ!!」
「うっ!! うぅっ、ヴォエエエエエッ!!」
「おいおい嘘だろ……!」
「最悪だろマジで」
駅のホームにはそこにいた人達の叫び声や泣きわめく声、嘔吐をする人達で溢れかえる。
ゴールデンウイークの最終日、楽しい思い出作りに来た人は忘れたくても忘れられない最悪な記憶を植え付けられて今日という日を終えた。
──そしてこの日、一人の人生の幕が閉じた。
どうしてまだ未来ある彼が命を投げ出す行動をしてしまったのか、少なくともあの場にいた人達には分からないだろう。
仕事、交友、恋愛、家族、金、将来、どれか、または複数、それとも全く別の悩みで苦しみ、『異世界』という全く新しい世界へ逃避したかったのだろうか。真相は不明である。
あらゆる生命が必ず訪れる『死』の先に彼が辿り着いた場所は『天国』か『地獄』か、または何も残らない『無』か──それとも彼の命と引き換えにしてでも求めていた『異世界』だったのか、それは彼にしか分からない。
『死』の先はあるのか、それは死んでみないと分からない。
『死』の先は無いのか、それは死んでみないと分からない。
答えは『死』んで見ないと分からない。