現在と過去 その十一
「ゴホッゴホッ! ゴホッ!」
やはり流されている最中に水を飲んでしまったのだろう、無意識の内に身体の中へ入ってしまった異物を追い出そうとクリムに抱きついたまま必死に吐き出そうとしている。
だが余程苦しいのか、女の子がクリムを掴む両手の力は尋常ではなく服越しに皮膚そのものを強く握り締めていた。 無論、クリムは痛いだろう──しかし一切そういう素振りは見せず、目を瞑ったまま涼しげな表情を保っていた。
「大丈夫だ、大丈夫だからな」
クリムは安心させるように囁くと持っている薙刀を手放し、左手を女の子の背中にゆっくり触れると何度も優しく叩く。 するとその直後、背中を叩いた振動のおかげで体内から口と鼻を通して飲み込んだ水を吐き出す事に成功した。
「ハァ、ハァ、ハァ……! ハァハァ……ハァハァ……」
吐き出した後、女の子は全身に酸素を送ろうと全力で空気を吸う。 そして──、
「こわかった……こわかったよぉぉぉぉっ!」
大声で、全力で、力の限り泣き叫ぶ。 間近にいるクリムと一輝に魂の叫びをぶつける。 クリムの身体に抱きついて力強く締め付ける。
「怖かったな、だがもう大丈夫だ」
その後、抱擁するように両手で抱え込んだクリムは何度も何度も女の子に安心させるような声を掛けてあげた。
──三分後、泣き止んだのを確認したクリムは「落ち着いたか?」と聞き、女の子が小さく縦に頷くと右膝を地面へ着け、ゆっくり降ろす。
「あっ、ありっ、ありがっ……」
黒髪ショートカットで白のワンピース、白のサンダルの格好をした九歳前後と思われる小さな女の子はクリムにお礼を言おうとしたが、言葉が詰まってしまう。 助けられてから僅か数分で心の整理なんて出来る訳が無い。 言葉が出てこないのは仕方ない事だろう。
「ゆっくりで構わんぞ──そうだ、一度深呼吸するがよい」
膝に手を付けたクリムに優しく助言してもらった女の子は目を閉じて大きく息を吸い、溜め込んだ空気を静かに吐き出す。
「──えっとえっと、その、ありがとう……ございました……!」
そして数秒経った後、濡れたワンピースの裾を掴みながら深々と頭を下げる。
「なに、騎士として命の危機に晒されている者を救うのは当然の事。 気にせずともよい」
「……?」
クリムはいつも通りに話すが女の子にとっては馴染みの無い単語だらけのようで、どういう意味なんだろうと言わんばかりに首を軽く傾げていた。
「あー、この人はね、誰かを助けるのは当たり前だからお礼なんか必要ないよって言ってるんだ」
その事を察した一輝は女の子に通訳するように分かりやすく説明する。
「で、でも、おねえちゃんがいなかったら……わっ、わたしっ……! 死んで……うぐっ……うぅっ……」
再び女の子の目に涙が浮かび、両肩が、声が震える。 やはりそう簡単に死への恐怖というのは消え去らないというのが嫌という程に伝わってくる。
「──よし、我が一つ手品を見せよう」
クリムが女の子の震える肩に右手で軽く叩いた後、砂利に落とした薙刀を左手で拾う。 この後、何をするか分からない女の子は、反応も出来ず只々見つめるしかなかった。
(……? 手品って何をするんだろ……まさか闘気を使って木を焼き払うとか川の水を無くすとかしない……よね……?)
一輝はクリムの言う手品が全く分からず、若干の不安を感じていた。
「では、いくぞ!」
この場を盛り上げようと大声を出したクリムは右手を大きく掲げたその瞬間、何も無い空間から穴が開き、薙刀を取り出す際に出した紫と黒の渦巻き状の異空間が再び現れる。
「えっ、えっ、えっ、えぇ~~っ!」
この異空間を見た女の子は目に溜めていた涙が弾け飛び、死の恐怖は驚愕によってかき消されていた。
(あっ、そっか。 僕らは見慣れてるから何とも思わないけど、何も知らない人がいきなりこんなの見せられたらびっくりしちゃうよね)
女の子とは違い、地面に落ちている小石を見る時と同じような感覚で異空間を見つめていた一輝はこの世界の住人にとってこの光景は異常だったという事に気付く。
「驚くのはまだ早いぞ! 次はこの武器を──こうだっ!」
良い反応をしてくれて気分が昂り、本当に手品をする時のような言い回しを始めたクリムは左手に掴んでいた薙刀を刃の方から持ち上げるようにして異空間の中へゆっくりと入れる。
「すっごーいっ! ねぇねぇっ! どうやってやるの! どうやってやるのそれっ!」
クリムの行動にすっかり虜になった女の子は恐怖心を忘れ、手品に夢中になっていた。
「フフフッ、凄いだろう。 しかし残念だがこの手品のやり方を教える事は出来ないな」
クリムが自慢げに言っている最中に薙刀は完全に異空間の中へ消え、黒の円が瞬時に収縮すると先程まで上空にあった空間は一切見えなくなる。
「えっ、なんで?」
「何故なら我もよく分からないからだ」
「アハハハハッ! なにそれー!」
クリムの本気か冗談か分からない発言に女の子は楽しそうに笑う。
(本当はさっきの見られたらまずいんだけど……笑顔になってくれたからまぁいっか)
異空間を見られた事により、女の子が誰かに話をして自分達の存在が気付かれてしまう危険性や変な噂が広がってしまう可能性は確かにあった。 しかし、今は自分達の都合よりも女の子の笑顔の方が大事だと思い、気にしないようにした。
(それより僕が今やるべき事は……)
気持ちを切り替えた一輝は二人に近付く。
「ねぇ、君ってキャンプ場から来たの?」
そして割り込む形で女の子に優しい口調で話しかける。
「うん。 おとうさんとおかあさんといっしょに来たんだ」
「それじゃあ、もうそろそろ戻った方がいいんじゃないかな? きっと君がいなくなってお父さんとお母さんが心配してるよ」
無論、キャンプ場から来たことも親と来た事も分かっていた。 だがあえて聞いたのは一輝のやるべき事である女の子をキャンプ場へ一秒でも早く帰す流れを作る為だった。 間違いなく心配している親に一秒でも早く出会わせる為に。
「……しんぱいなんかしてないよ。 むしろおこってるよ。 だってわたし、かってにひとりでここに来ちゃったもん」
「何を言っている。 急に自分の子供がいなくなったのだ、親が心配をしない訳が無いだろう。 今頃は大声を出して喉が枯れようが手や足がどれだけ汚れようが気にもせず其方を探しているに違いない」
クリムが右膝を立てるようにしゃがみ込み、和やかな表情で女の子と目を合わせる。
「そ、そうなの? じゃあはやくもどった方がいいのかな……?」
「あぁ、そうした方が良い。 親が一番求めているのは子供の無事だからな」
「うん、分かった! おねえちゃんが言うならそうする!」
「よしよし、偉いぞ」
クリムはしゃがみ込んだまま少年のような笑顔で女の子の頭を撫でる。 すると女の子も「えへへ」と頬を赤らめて嬉しそうにしていた。
「だが一人で帰らせるのは危険だな……」
それから立ち上がってキャンプ場のある方を見つめながらどうしようか考える。
「じゃあおねえちゃんもいっしょに行こうよ! ねっ! そうしよそうしよ!」
女の子は満面の笑みを浮かべながらクリムにお願いをしてくる。
「……すまないが色々と事情があってな、我は無理なんだ」
「えーっ! そうなのーっ!」
「その代わり、この者が一緒に付いて行くから安心してくれ」
クリムはそう言いつつ一輝の肩を叩く。 するとその流れで一輝が「宜しくね」と声を掛けた。
「う~ん、おにいちゃんだけだと何かしんぱいだなー」
「そんな事は無いぞ。 むしろ我より頼りになる男だ」
「へぇ~……」
女の子は顔を上下に揺らし、確認するように一輝の全身を見渡す。
「──ちょっとふあんだけど、おねえちゃんが言うなら信じるよ!」
「あはは……」
一輝は子供の純粋かつ正直な発言に少々胸が痛むが、何もしていない自分に信用なんてある訳が無いのも自覚している為、この場では苦笑いしか出来なかった。
「それでは気を付けてな」
一輝の横へ女の子が移動すると、キャンプ場方面とは真逆の方向にいるクリムが別れの挨拶をする。
「うん! それとおねえちゃん、ほんとうにありがとう! このおんは、一生わすれません!」
女の子は顔が地面に突く勢いで頭を下げながらお礼を言う。
「その感謝の気持ち、有難く受け取っておこう──では、宜しく頼むぞ」
クリムは女の子へ返事をした後、一輝に『後は任せた』という視線を一瞬だけ送る。
「分かった。 じゃあ行こうか」
「はーい!」
それからクリムは二人が完全に見えなくなるまで立ち止まったまま見送った。 その間に女の子が何度も振り返っては元気よく手を振りながら「ありがとー!」「バイバイ!」といった言葉を掛けてくるのに対し、クリムも「達者でなー!」「元気でいろよー!」と返事をしていた。
そして一人だけになった後、
「まさか服も靴もびしょ濡れになってしまうとはな。 こんな姿を見られたら今度は我がコルトに子供扱いされてしまうが、まぁ一人の命を救えた代償と思えば安いものか」
クリムはそう呟きながら山の中へと入っていく。 ただ、その表情は誇らしげであった。




