それぞれの一歩 その六十七
「それじゃ、今日はありがとな」
その後、津太郎は帰る為にマンションの入り口を抜け、日差しを浴びながら小織に別れの挨拶をする。
「どういたしまして。 でもこんな暑いんだから寄り道せず真っすぐ帰ってよ。 熱中症になってからじゃ手遅れなんだから」
「バスで帰るんだからそんな心配しなくて大丈夫だって。 じゃ、また二学期に」
津太郎が軽く手を振ってその場から立ち去ろうとしたのだが、
「は? 何言ってるの? 今度ある夏祭りに一緒に行くって約束したじゃない?」
小織の思わぬ発言に振り返ろうとした身体を止めてしまう。
「えっ? そんな約束いつしたっけ……?」
「いつって──あのねぇ……終業式よ終業式。 ホームルームが終わった後、教室の後ろで栄子と三人でそういう話をしたの忘れたの?」
軽く落胆した様子で小織が約束した経緯について説明をする。 ただ、ここまで明確に覚えているという事は、もしかするとずっと楽しみにしていたのかもしれない。
「えーっと──あっ!」
暑さに耐えつつ必死に思い出そうとしていると、急に小織の言っていた当時の事が脳裏に浮かび上がる。
「そういえば言ってたな……すっかり忘れてた……」
あれから二十日前後の間に色々な事があったのだ。 数分間だけの会話、口約束だけの夏祭りについては記憶が薄れていても仕方ないといえる。
「まぁそういうことだから、今度はもう忘れないでよね」
「悪い、気を付けるよ……」
「でも思い出してくれて安心したし──それじゃ、また祭りの日に会いましょ」
「あぁ、じゃあ今度こそまたな」
挨拶を済ませて二人が別れると、小織は入り口から津太郎が立ち去るのを何も言わず見送る。 そして津太郎がマンションの敷地内から出て行き、完全に姿を消した後、
「~~~~♪」
小織は機嫌良さそうに鼻歌を歌いながら階段を上がり始めた。 家の中に戻る最中、握ってくれた右手を何度も見たとか見てないとか。 その答えは本人のみぞ知る。
◇ ◇ ◇
敷地内を抜けて歩き続けること数分、津太郎はバス停まで戻る。 そして次に来るのは何分後なのか時刻表を見て確認しようとしたのだが、その瞬間に丁度通りかかったバスが津太郎のすぐ隣で停車し、出入り口のドアが開く。
一切待たずに済んで運が良いと思った津太郎は一秒でも早く暑さから逃れたい一心ですぐにバスの中へ入ると、全身が冷房の空気に包まれて熱を帯びた身体が冷却されていくのを感じる。
そして相変わらず乗車している人が少ない中、左後方の周りに誰もいない席へ座った津太郎は脱力する為に前かがみとなり、静かに息を吐き出した。
(まさかこんな早く問題が解決するとは思わなかったな。 カラコンも配信の事も月下のおかげで済んだようなもんだし、祭りに行ったらお詫びとして何か奢らないと)
前かがみの状態から背もたれに体重を掛けて一息つくと、まず最初に改めて心の中で小織へ感謝の気持ちを述べる。
小織がカラーコンタクトを持っていなければ、悩み事について相談しなければ、今も家の中でどうしようと考えていた可能性も十分に有り得たのだ。 まとめて問題点を解消してくれた小織には頭が全く上がらないだろう。
(──よし、月下にどうするか決めたし、今の内に配信について考えるとするか)
確かに今ならバスの中で特にやる事が無く時間も余っている為、思考するには持ってこいといえる。
(まず、配信を始める前にしないといけないのは機材集めなんだが……何が必要なんだろ……?)
早速ジーパンのポケットからスマートフォンを取り出して、「配信 始める 必要な機材」と検索し、一番上にあるサイトを開く。
(WEBカメラ……ま、まぁカメラは必須だよな。 他にマイクも必要なのは分かる──って、三脚もいるのかよ……ん? これ俺のパソコンで大丈夫なのかこれ? 性能足りてるか?)
金銭面、性能面的な不安はあったが、ここまでは津太郎でも理解出来た──が、次からが問題だった。
(キャプチャーボード……? オーディオミキサー……? エ、エンコーダ……? や、やべぇ……なんだこれ……初めて聞く単語だらけなんだけど……)
その後に続く配信に必要な機材の名前も、その内容も無知な津太郎には全く理解不能な物であり頭の中が「?」まみれとなってしまい、冷房の効いた場所の筈なのに熱暴走を起こしそうになる。
(全く意味が分からないが、とりあえず値段を見てみるか……)
知識なんて後で身に付ければいいかという思いでサイトのリンク先を見てみる事にした。
(げっ!? おいおいどれも数万円するとか嘘だろ……!?)
しかしどの機材も値段が学生の手には負えない額だった。 ただ、津太郎が見たのはあくまでも一つの例であり、恐らく安い物であればそこまではしないのだろう。 とはいえ安物でも津太郎の貯金で買い揃えるのは不可能だったが。
(まさか配信する手前で挫折させられるとは……いや、よくよく考えてみれば仮に準備出来て配信したとしても名前も全く知られてない奴なんか誰が見るんだよ──あくまでも目的は翔子さんに一輝の事を教える為なのに視聴者がいない状態でやったって何の意味も無いぞ)
スマートフォンをポケットに戻し、冷静になって考えてみると機材を揃えて配信した所で殆ど無意味な事に気付く。 気長に配信を続けていれば多少は視聴者数が増えるかもしれないが、そこまで辿り着くのに何年掛かるか分からない。 それならもうやらない方が良いぐらいだ。
(良い発想だと思ったんだが甘かったか……これだったら無かった事にして別の案にした方が良いな。 まさか三万とか五万とかそんな額、高校生に払える訳が無い──ん? ちょっと待て……前に誰か数万もする物を買ってたような……)
『高校生』『高額』『購入』の三つの単語が出てきた時、そう遠くない過去の記憶の中で全て当てはまる光景が薄っすらと見えた。
(確か買う所を見た時に『本気かよ』みたいな感じで凄い驚いてた気がする……)
津太郎は必死にその時の事を思い出そうとする。 そして徐々に徐々にだが、当時の記憶が蘇ってくる。
(そうだ、ヘッドフォン……! 五万のヘッドフォンを躊躇なく買ってたんだ! あのデパートで加賀がっ!)
そしてついに思い出す。 当時、家電量販店で一緒にいた愁の姿を。 ただ、気付いたのはこれだけではなかった。
(……加賀に頼んでみるか?──配信させてくれないかって)
それは愁に配信部屋を使わせてもらおうという事だった。 これはこれで色々とやる事があって大変かもしれないが、配信という手段に拘るのであれば愁に頼るしか可能性は無いかもしれない。
(加賀のチャンネル登録者数は二万人以上だから特定の人が見てくれるだろうし、あれだけ良い物を買えるんだったら配信の設備も整っていそうなんだよな)
もし配信させてもらえるなら先程までの問題点は全て解消されるだろう。 ただ、新たな問題点が生まれるのも間違いないが。
(とりあえず……加賀に頼む前提で考える事にしよう。 どっちにしろ俺だけじゃ決められないんだ。 後は一輝に一度聞いてみて、それで承諾してくれたら次に加賀へって感じで行こう)
津太郎は頭の中で今後の予定を決める。 不安定過ぎて予定というのも怪しいが、無計画よりはマシだと思う事にした。
(自分で勝手に決めておいて何だが色々と不安だが……何とかなると思うしかないよな。 全く……他にもあの二人組とか一輝がキャンプ場で何があったとか考える事が多すぎるだろ……でも一つずつ終わらせて……一歩ずつ進んでいくしかない──か)
そう決めた津太郎は閉まった窓から外を眺めているとバスは高校を過ぎ、家の方に向かっていく。 だがその間、とある者達とすれ違った事に気付いていなかった。




