それぞれの一歩 その五十七
心臓が締め付けられるような感覚に襲われた。 呼吸が止まったような気がした。 頭が真っ白になりそうだった。 胃から先程食べた物が逆流し、喉元にまでこみ上げてくる。
冷房が付いていて、部屋は汗一つ掻かない程に冷え切っているにも関わらず津太郎の背中からは汗が噴き出る。
たかがインターホンが鳴っただけなのに、普段なら全く気にしない事の筈なのに、今はこの音を耳にしただけで極度の緊張、恐怖で全身が金縛りにあったかのように硬直している。
「はぁ……はぁ……!」
インターホンが鳴ってから数秒──今度は心臓の鼓動が異常と呼べる程に早くなり、身体は動かしていないというのに息が荒くなる。
(落ち着け……落ち着けって俺……! インターホンなんて今までも鳴ってただろ……!)
今日までインターホンが鳴っても平気だったのは他にも誰かが家にいたからだった。 しかし今は誰もいない。
(でも……母さんが出ていった途端に鳴ったって事は……)
考えたくない、そう思いたくない──だがどうしても一つの答えが頭からこびりついて離れない。
(とうとう……来た……のか……?)
男性二人組が家に来たという最も恐れていた答えが。
(だとしたらどうするどうする……これからどうする……!)
焦りと緊張で回らない頭を働かせたフリだけでもさせる。 意味が無いと分かっていてもやらないよりはマシだった。
(──ってこれの付けっぱなしはまずい……!)
こうしてる間にもゲームの音楽が流れている事に気付いた津太郎は慌ててリモコンを使い、テレビの電源を切る。
(か、カーテンからちょっとだけ覗いてみるか……?)
もしかしたら自分の勘違いで近所の人、または知り合いが来た可能性だってあるかもしれないと信じたい津太郎は早く知って楽になりたいという思いからか、僅かな希望に掛けて試してみたいという気持ちになる。
そしてゆっくりと立ち上がり、足音が聞こえる訳無いというのにゆっくりと歩いて窓辺に近寄ってカーテンを掴み、数センチメートルだけ開いた。
(あれ? いない?)
左目を閉じ、右目だけで家の外を覗くも門扉の前に人の姿は無かった。 念の為に門扉以外の周辺も見渡すが、見えるのは少し遠い所にいる学生らしき一人の若者の後ろ姿だけだった。
「ぷはぁ~! はぁ~、良かった……! 本気で良かった……!」
男性二人組がいないという事実が分かり、津太郎は極度の緊張から解放されて一気に全身の力が抜け、全力で息を吐き出す。 誰がインターホンを鳴らしたとかそういうのは津太郎にはどうでもよく、気にもしなかった。 今はただこの心地良い安心感に包まれていたかった。
「──ふぅ……本気で吐きそうだった……」
──数秒後、ベッドに座り込んだ津太郎は腰を曲げて床を見つめながら呟く。 何もしていないのに疲れ果てているようにも見える。
「というかまだ何か喉元が変な感じがする……ちょっと水でも飲むか……」
水で異物と先程までの嫌な記憶を流し込み、喉も気持ちも落ち着かせたいと思った津太郎は誰もいない一階へ下りる。
「はぁ……スッキリした」
無音の中、台所で透明のコップに入れた水を一気飲みした後にスポンジで洗ってから食器乾燥機に置くと、また部屋に戻ろうとした──が、
「なっ……!?」
その瞬間、一度目から五分足らずで二度目のインターホンが鳴る。 この音に肩が跳ね上がる程に驚いた津太郎は、リビングから出ようとした足が完全に止まってしまう。
(なっ、何でまた……さっきからどうなってんだ……?)
立ち去ったという事実に安堵し、すっかり油断しきっていた津太郎はまさかの二度目のインターホンに頭が混乱しそうだった。
(怖ぇ……でも家には俺しかいないんだ……だから一人で何とかするしかない……)
また心臓が痛くなる程に鼓動を打つ中、何とか不安を抑え込みながらどうにかしようと思考を働かせる。
(こっ、こうなったら居留守でやり過ごすか……? 流石に不法侵入みたいな事はしてこないだろ……多分……)
とにかく息を殺し、存在感を消して後は時の流れに身を委ねる。 これが一番安全で確実だと思い、最初はそうしようとした──が、
(──いや、でも仮に今回はやり過ごせたとしてもすぐにまたインターホンを押される可能性だってあるんだよな……だったら悩みを解消するという意味でも思い切って出てみた方がいい気がしてきた……)
このまま何もしないでいるのは確かに安全だが、何の解決策にもならず埒も明かない。 そう思った津太郎は腹を括り、インターホンのボタンを押す決意をする。
(──よし……おっ、押すぞ……)
二度目のインターホンが鳴ってから既に三十秒が経過した頃。 津太郎はリビングの出入り口付近の壁にあるインターホンへ忍び足で向かった。 そして小刻みに震えた右手の人差し指を近付け、息を吐き出してからボタンを──押した。
「……どっ、どちら様でしょうか……?」
ボタンを押した後に出した声は囁きと勘違いしてしまいそうな程に小さく、自信なさげなのも合わさって緊張しているのが相手にも筒抜けだろう。 だが津太郎にはそれぐらい余裕が無いのだから仕方ないともいえる。
(さぁ誰だ……! 誰なんだ……!)
散々悩まされた者の正体がついに判明するという事もあって、津太郎は緊張と少しの興奮が入り混じった変な感覚になっていた。 間が空き過ぎて既に玄関先から立ち去った、もしくは近所の人である可能性も十分有り得たが、それでも別に良かった。
今の津太郎に必要なのは、ただとにかくハッキリさせたかった、それだけなのだから。
「あの~、すみません……東仙なんですけど……」
「一輝!?」
インターホンを鳴らした声の正体が分かった途端、津太郎は勢いよく大声を上げる。
「あっ、津太郎君! 約束通り、連休前にまた来たよ!」
話の内容や声からして別人のなりすましではなく、本当に一輝のようだ。 八月中旬の大型連休前に来て欲しいというのは二人しか知らない約束だ。 だから津太郎は一輝だという事に確信を持てたらしい。
「はぁ~……怖かった……本気で……」
あの二人組ではない事が確定し、今日一番の溜め息と安堵の言葉を吐く。 緊張は解けたが気も抜けて、油断したら今にも膝から崩れ落ちそうだった。
「えっ? 何て?」
「なっ、何でもない何でもない! 今そっち行くからちょっと待っててくれ!」
インターホン越しだと一輝には何を言っていたのか聞き取れなかったのだろう。 ただ、あまりみっともない所を知られたくなかった津太郎は慌てて無かった事にし、返事を聞かずボタンを押して玄関へ急いで向かう。
そして端に置いてある自分の黒いスリッパを履き、玄関のドアを開けると門扉の外側には一輝がいた。
「久しぶり! 元気そうで良かったよ!」
一輝は津太郎を見ると真っ先に右手を軽く挙げながら挨拶をしてくる。 ちなみに服装は上は白のシャツに下が黒のスラックスと前よりは身軽な格好だ。
「──あっ、あぁ! 一輝こそ元気みたいで何よりだ!」
津太郎は外に出ながら無理して明るく返事をする。 実はもう精神的疲労が尋常でなかったのだが、そんな事が言える訳が無く今は一輝に合わせるしかなかった。
「とりあえずその──暑いしさっ! 遠慮せず中に入ってくれよ!」
何とか明るさを保ちながら一見すると重そうな門扉を開け、一輝を家に誘導する。 疲れてはいるものの、こういう行動は気を紛らわせるには丁度良いのかもしれない。
「う、うん! それじゃあお邪魔します!」
そう言われた一輝は門扉を抜け、津太郎を追うようにして家の中に入る。




