日常 その8
月下小織と分かれて2人きりになった帰り道。
教見津太郎と清水栄子は小学校の頃から見慣れた道を横に並んで歩いていた。
ただ、栄子は教室で小織が津太郎の耳元で囁いてた光景を思い出してしまう。
(小織ちゃんって何であんな大胆な事が出来るんだろう。 うぅ……私には絶対無理──)
こうモヤモヤしてる間にも津太郎が何か話しているが、あまり内容が入ってこない上に顔も見られない。
「どうした栄子? 何かボーっとしてるように見えるけど」
「えっ!? そ、そうかな!」
他の事を考えていたのが顔に出ていたのか津太郎に指摘されて、思わずいつも以上に過剰な反応をしてしまう。
「まぁ、何となくそう見えたから気になって言ってみたんだが……違ってたら悪い」
栄子はここで小織がやってたように耳元まで近付いた後に何か囁くチャンスと思って、正面を向いたまま津太郎の側まで少しだけ歩み寄るも──栄子にはそれが限界だった。
「わ、私は何ともないから大丈夫だよっ! 何だか、その……気を遣わせてごめんね! 教見君、疲れてるから無理させちゃいけないのに」
結局少し近付いただけで後はいつも通りの会話しか出来ない事に心の中でため息を吐く。
「疲れてるといっても完全に自業自得だからな……栄子は真似しちゃ駄目だ」
「う、うん。 そうだね」
再び津太郎との距離を取り、少し取り乱してしまうが出来るだけいつも通りに接しようと心掛ける。
(うぅ……やっぱり無理だった……意識すると緊張しちゃう……)
この二人の横並びの近付いたり遠ざかったりする距離感が無くなる日が来るかどうかは、誰にも分からない。
◇ ◇ ◇
厳重な雰囲気が漂う門扉の前で栄子がインターホンを鳴らしてから数秒経った後、落ち着いた女性の声が聞こえてくる。
「おかえり〜。 今日は珍しくいつもより少し遅かったのね。 何処か寄り道でもしてたの?」
「う、うん……ただいま。 学校でちょっと用事があって帰るの遅くなっただけだから気にしないで」
栄子はインターホンのマイクに顔を近付けて言う。
「そうなの? まぁ、それならいいんだけど──津ちゃんも毎日付き添ってくれてありがとうねぇ。 本当に助かるわ〜」
言い方自体は軽そうに思えるものの、感謝は本当にしているように感じる。
「気にしないで下さい。 今では逆に行かないと自分が落ち着かないぐらいですので」
義務感ではないが、習慣となっているのは嘘ではない。
「まぁまぁまぁ!! こうなったら将来はお婿さんになってもらわないとっ! ねっ! 栄子!」
津太郎の言葉に何か勘違いしたのか急に興奮し始める。
「もうっ! 教見君が反応に困るような事を言うのやめてって言ってるのにぃ!」
栄子は恥ずかしさと怒りが入り混じった感情をインターホン越しに母親へぶつける。
「もう栄子ったら可愛いわねぇ! 一体誰の娘なのかしら!──って、あらあら大変だこと! シチューが焦げちゃうわ〜!」
そう言うと、いきなりインターホンを切ってしまう。
どうやら料理している最中にも拘わらず話に夢中になってしまって、すっかりシチューの事を忘れていた可能性が高い。
さっきまでの盛り上がりが嘘のように二人の間には沈黙が訪れる。
普段のように落ち着いた状況なら多少の沈黙は何とも思わないが、やはり賑やかな雰囲気から一転して静かになるのは少しだけ気まずい。
「その……教見君もお母さんの言ってる事はき、気にしないでね……」
最初に口を開いたのは栄子の方だった。
母親の発言を無かった事にしておかないと気まずさを解消出来ないのだろう。
「まぁ……凄い勢いには圧倒されたけど、冗談とかその場のノリなのは分かってるから安心してくれ」
昔からよくそういう事を言う人だし、今日も同じ感覚なのだろう──津太郎の中ではそういう考えだった。
「あはは……それなら良かった──のかな……」
全てを無かった事にされ過ぎるのも、それはそれで栄子としては複雑な気持ちになる。
疲れている津太郎をこれ以上引き止めるのも良くないと思った栄子は、別れの言葉とお礼をして立ち去っていく後ろ姿を見守る。
その後に鞄の中から門扉を開けるカードキーを取り出してから解錠して家の敷地内に入っていく。
(本当にこのままでいいのかな……今は良くても高校を卒業して、仮に同じ大学に行けたとしても──その後は……)
その後を栄子は想像したくなかった。
『未来』という誰もが見えない恐怖に胸を締め付けられる。
『変化』という必ず傷付く恐怖に足が震えそうになる。
『後悔』という永遠に引きずる恐怖に心が躊躇する。
「私は一体……どうしたらいいの……」
静まり返った敷地内で一人呟いた後、制服の胸元を右手で掴みながら空を見上げる。
日が沈み、徐々に薄暗くなりつつある空はまるで、津太郎がいなくなった後の栄子の心を写しているかのようだった。
◇ ◇ ◇
一人になった津太郎は黙々と見飽きた程に見慣れた通学路を歩き続ける。
ただ違うのは朝と違って日差しも弱くなり、風も吹いてきて暑さ自体は遥かにマシになった事だ。
今、寝不足でバテ気味の津太郎にはその恩恵だけでも非常に助かっている。
結果的にそこまで体力を削られる事も無く、見慣れた我が家が見えてきた。
(もうちょっとだ……)
──と、最後のもう一踏ん張りとして歩こうとした時だった。
「……!?」
津太郎の家よりも離れた所の上空に、遠くからでも目視可能な程に大きく赤い円の形をした浮遊物体が、何の前触れもなく突然出現した。
反応は出来たが、恐怖や思考の停止により言葉を発する事は無理だった。
(落ち着け落ち着け落ち着け……!)
頭の中で必死に自分に対して言い聞かせた後、効果は不明だが念の為、近くにある電信柱に身を隠す。
──それから数秒後、何も起こらないのを確認して慎重に顔だけ出すと、既に謎の浮遊物体は消えていた。
「ふぅ〜……良かった……。 でも安心したら消えてた分の疲労感がのしかかってくるな……」
肺とお腹が膨らむ程に吸った空気を全力で吐き出す。すると力が抜けて、つい手を膝の上に置き頭を下げる。
(なんだったんだ今のは……あんなの今まで見た事ないぞ)
頭と気持ちの整理は片付かないが、危険な目には遭わないと判断して電信柱から離れる。
周りに人がいないのも幸いだった──もし人が集まっていたら恐怖の連鎖が始まっていたかもしれない。
今はもう目の前にある家という名のゴールに向かって歩くと決めた津太郎は、素早く動き出すとあっという間に着いた。
玄関のドアノブを開ける前にもう一度だけ空を見つめるも、そこに見えるのは徐々に黒くなりつつある空の光景のみだった。
(何が何やらサッパリだが、もう中へ入ろう……)
色々考えても疲れるだけだと思い、あまり気にしない努力をしながらドアを開ける。
「ただいま」
この一言で数分前の出来事をリセットする事は無理でも、普段通りの日常を過ごそうと意識するようにした。
──だがその平和な『日常』自体が終わりを告げるカウントダウンは既に始まっていた。
一話 日常 終




