第1章−3 名を呼んで
一途に想う貴女をボクは想う。
「そろそろ起きてください、織姫様」
「んー…もうちょっとー…」
相変わらず寝起きの悪い主人はむにゃむにゃと夢の中にいる。
昨夜あれから、ソファで寝ていた主人を寝室のベッドまで運んだ。
腕に掛かる無防備な重み、手から伝わる人の温もり。
猫の姿では決して感じられなかった感触。
主人を俺は初めて抱きかかえた。
ベッドに下ろした瞬間、ふわりと甘く香ったのは、シーツからだったのか、それとも…。
シーツの上に広がる長い髪の流れをじっと見る。
うねる度艶やかにきらめいて、まるでそれは天の川のようだった。
昨日はとても触れられもしなかったけれど…。
俺はそっと指でそれをすくった。
更々と指の隙間から流れてしまうのが堪らなくて、ギュッと力を籠める。
ああ、これが人の欲望というものなのか。
身体の奥から湧き出る熱い何かが一気に全身を駆け巡っている。
「ふがっ…!んー…?」
主人の髪に口づけをした瞬間、パチッと当の本人と目が合った。
「やっと起きましたか?織姫様。おはようございます」
それはスマートに微笑み、髪の毛に口づけたことは無かったかのように振る舞う。
「嘘……バ、ハル…?」
「え…」
「バハル~~!!!生きてたのね~!!」
「え、えええー!?」
主人は何の躊躇もなく俺に抱きついてきた。
そして必死に離さんと腰にしがみついている。
「もう~…心配したんだから…!あの事件の後、行方知れずでぇ~…」
マズイ、本気で泣き始めた。
全く、どんなゲームだよ!
完全に夢だと思ってるぞ、この人は…。
俺はそっと主人の後ろに手をまわし、その華奢な背中を包んだ。
「…織姫様、よく聞いてください。これは夢ではありません」
「へっ?」
弾かれた様に、顔を上げた主人の瞳にやっと俺が映る。
「そして俺は、バハルじゃありません」
「……」
さっきの勢いはどこへやら。
主人は借りてきた猫のように、俺の中でピシャっと硬くなっている。
「彦星様というお方がいながら、他の男に抱きつくとは織姫様も随分大胆ですね」
「え…と、それは…」
「こんなところを万が一見られたら、彦星様はどう思いますかね?」
「……!いや…離して…」
主人の身体が小刻みに震えているのが嫌でも分かった。
伏せられた瞳でもさっきとは違う涙が溢れてきているのが分かる。
さすがに俺も限界だ。
「叫んだって無駄ですよ、どうせ誰も来やしません」
「っく…嫌…。…お。……碧~~~っ!!!」
主人の切実な叫びが屋敷に響いた。
そして俺が待ち望んでいた言葉。
「ここです!織姫様。ボクです…!」
両手で主人の頬を包む。
涙に濡れ、少し紅潮した肌はまだ俺のせいで震えていたから、壊れないように優しく触れたつもりだった。
「……」
「……」
もう一度目が合った。
今度はもう少し近くで。
俺の瞳が主人に映り込むように…。
「地球の海みたいな…深くてキレイな色…」
「また、言ってくれましたね…」
「本当に…碧?」
「はい」
俺は出来るだけ爽やかに微笑んだ。
微笑んだのだけど、それは反って主人を驚かせたようで、次の瞬間、俺はベッドの下へと突き飛ばされていた。
叫びながら逃げていく主人の声を聞きながら、当然の報いだとその痛みを受け入れた。