記憶喪失の有機化合物です。
メイスンさんが言うには、それはもうひどく扱いにくい相手らしい。
「靴のままでベッドに乗らないように、とにかくそこから言ってちょうだい」
部屋に向かう道すがら、彼への不満は尽きることなく。
雨降りの日に、ドロドロになった靴のまま宿舎内を歩き回り、濡れた制服を着替えもせずに靴も履いたまま安らかにベッドで寝てしまうとか。
――身体が重い
翌日、朝食の席にくしゃくしゃのシャツで現れて、スープ皿に顔をめり込ませる勢いで突っ伏して、周りが慌てて溺死しないように(溺死!?)引き揚げたら、とんでもない高熱を出していて三日三晩生死をさまよったとか。
それでも生活態度は全然変わらず、本を読みながら廊下を歩いて階段踏み外して転がり落ちて救急車を呼ぶ事態になったとか。
「私の管理不行き届きみたいだけど、何を言っても聞きやしない!! あれでスクール始まって以来の天才だっていうけど、勉強の前に常識を身に着けてくれないと。社会に出る前に、今日明日にも死ぬわよ!!」
別に宿舎の外で死なれる分には私だって諦めもつくし、葬式に出たら弔いの白い花を供えることもしますけどね、宿舎内で死なれたときには私の責任問題ってものになりますからね……!! 云々。
(死ぬほどなのか)
止まらないメイスンさんの怒りと愚痴に耳を傾けながら、サーラは同室となるアリヒト何某に思いを馳せる。
スクール始まって以来の天才にして、目を離すと死ぬレベルの欠陥人間。
宿舎で同室になった相手が三日持たないどころか、当日中か遅くとも翌日には「部屋替えしてくれないなら学校を辞める」と寮監督のメイスンさんの元へ駆け込んでくるという。
その事前情報は果たして聞いても良かったのか。
親切で教えてくれるのか、それとも「君もきっとね」という諦めなのか。
軋む木の床を踏みしめて、アーチ形の腰高窓のある廊下の突き当り、端の部屋の前にたどり着く。
窓の外は、昼だというのに灰色で、重い雨が降っていた。
メイスンさんは握りしめた拳でドアをガツンガツンと容赦なく叩く。
「アリヒトさん、アリヒトさん。同室の方をお連れしましたよ!!」
ノックの音よりもさらに声は大きい。
(このドア、そこまで防音効いているのか?)
サーラの疑問に答えるように、メイスンさんが言い訳がましく言う。
「聞きやしないんですよ。耳に問題があるのかと、入院したときに調べてもらいましたけど、異常は何もないんです。本人が言うには、脳が選んでいるそうです。必要な情報と不必要な騒音を。私はいつもあの人には『騒音』に分類されているとかなんとか」
彼への憎しみは深いらしく、言っているうちにメイスンさんの顔が歪み始め、あちこちにぎゅっと皺が寄った。
真剣に聞いている表情を保ったまま、サーラはメイスンさんを見下ろして頷こうとする。
その瞬間、どかんと雷鳴が直撃したかのような音を立ててドアが内側から開いた。
「待ちわびたよ!! いらっしゃい!! 早く入って!!」
癖の強い茶髪を、赤い紐でゆるく括った華奢な少年が勢いよく飛び出してきて、見上げる角度からサーラの顔を覗き込んでいた。
とにかく、無造作な髪型だった。片側で結んで肩に垂らそうとしたのか、それとも結んだまま寝て起きたところなのか判別がつかない。
顔は、小動物。リスやコウモリ。真っ白な歯がえらく頑丈そうだったり、つぶらな瞳が星屑をちりばめたみたいに輝いていたせいだろう。つんと上向きの鼻に、小さな唇。男子寮でなければ、少女と勘違いしたに違いない。
「アリヒトだ」
差し出された手は、ほっそりとして指が長く、身体の割には大きく見えた。
「サーラ」
名乗って、サーラも手を伸ばして軽く握る。想像よりもすべすべとして冷たい指にドキリとする間もなく、力強く、部屋の中へと引きずり込まれた。
「荷物が届いていた。よくわからないので開けた。あれは君のものか」
床の上に、無残に広がっていたのは先に送っていたはずのトランク。途中で開かないように縛っていた紐は引き千切られ(切った切り口ではない)、おそらく鍵は壊されていた。
「どうして」
泥棒にでも入られたのかと。
疑問を口にしたところで「爆弾が入っている気がして」と、サーラの手を握りしめたままアリヒトは悪びれなく言った。
「爆弾が部屋に届くような、身に覚えでも?」
軽い混乱をきたしながらサーラが尋ねると、にぎにぎとサーラの手を弄びながらアリヒトは力強く頷いた。
「ありえるんだ」
ありえるのか……そうか……と、サーラは唾を飲み込む。
戸口で、メイスンさんが「ルームメイトがこれだけ頻繁に入れ替わっていれば、相手の荷物だと予測くらい……」と呟きをもらしていた。
サーラは、アリヒトに捕まっていない方の手で自分の黒髪をくしゃっとなでつけながら、爆弾を詰めたはずもないのに爆発してしまった荷物を見下ろし、口を開いた。
「君が無事で何よりだ」
「そう言ってもらえると嬉しいよ。君とは仲良くやっていける気がする。サーラ?」
ぐいっと手を引っ張られて、サーラは華奢で小柄なルームメイトに目を向けた。
霧が多く陰鬱な天気の多いこの国には似合わぬ、晴れやかな笑み。
唇から八重歯がのぞいていた。
* * *
靴を脱いで寝ろと言っても聞かないのはよくわかった。
この国は雨が多く、舗装された道を上手に歩いていてさえ、靴が重く湿ってしまうことはしばしばある。
そのまま布団に潜り込んだらひどいことになるというのに。
何を言っても無駄と早々に気付いたサーラは、宿舎の物置から、防水のテーブルクロスを拝借してきてアリヒトのベッドスプレッドとした。
「ひとまず、寝たいときはこの上で寝ろ」
「画期的だ」
アリヒトは逆らうことなく、むしろサーラの対処をひどく喜んで、テーブルクロスの上で寝るようになった。
サーラは、そんなアリヒトを見つけ次第、テーブルクロスに包んで持ち上げ、部屋に併設されたバスルームに投げ込んだ。
問答無用で熱いお湯をかけると、渋々とシャワーを使う。
さすがに、服は自分で脱いだしサーラに背中を流させることはなかった。
「サーラは僕の母にも出来ないようなことを成し遂げた」
シャワーを習慣にさせたら、アリヒトに感嘆したように言われた。
「アリヒトの母親……」
あまり想像がつかないな、と笑ったら、床に直座りし、広げた布の上で旧式のラジオをバラバラに解体していたアリヒトはにやりと笑った。
「いないけどな」
反応に、困る。
アリヒトは手にしたネジにふっと息を吹きかけて続けた。
「僕の身体は、いくつかの遺伝情報を掛け合わせて作られている。最初はただの細胞、そして胎児になった。成長促進剤を何度かに分けて投与し、今の姿まで成長した。研究者の想定では『十五歳相当』。実際には生まれてから十五年も経っていないし、そもそも誕生日をいつに定めて良いかもわからない」
挑むような視線が、ベッドに腰かけていたサーラに向けられる。
アリヒトによれば、彼は「完璧」を目指してデザインされ、人の手によって作られた人間なのだという。
確かに、容姿ひとつとってもいつまで見ても見飽きないうつくしさがある。
それでいて、それを完璧というのは何か違う気もした。
(八重歯を「欠陥」と考える人も中にはいると思うんだけどな)
身長も体重も、十五歳の男性と考えると平均を大きく下回るだろう。
一緒に授業を受けるようになってみて、アリヒトの優秀ぶりはよくわかった。
飛び級しても問題ないくらい突き抜けている。スクールのカリキュラムは彼には退屈でしかないように見えた。大学でも大学院でも行った方がいいし、なんだったらもうどこかの研究所に所属して研究や発明に身を賭していても不思議ではない。
そう言っても、アリヒトは「それでは意味がない」の一点張りだった。
「僕が優秀なのは当たり前だし、僕を作った研究者たちは皆知っている。だけど、『十全な人間性』を兼ね備えた人間はそこに一人もいなかった。頭の中をデザインするときに世の中の大抵の事象、『難問』に対処する能力はこれでもかとねじ込めたけど、『対人能力の正解』に関しては研究者の間で意見が割れて、僕の『性格』は損なわれた。不完全で穴だらけでごく簡単な日常の問題にも答えを出せない、壊れた思索演算しか搭載していない。このままのアリヒトを世の中に解き放ってはいけない。失敗作だと糾弾される。『教育』を施さなければ『遺伝子操作』のすべてが否定され、アリヒトは廃棄処分」
そこまで言って、アリヒトは「ばーん!!」と大きな声を上げて細かな部品を投げ飛ばし、後ろに両手をつくと、低い天上を見上げた。
癖のある髪、滑らかな頬、優美な顎のライン、強い瞳。この世の誰よりもうつくしい横顔。
「問題はわかった。しかし『人間性』を『教育』できる研究者がそこにいない問題は依然として解決の見通しがたたなかった。そこで考えだされたのが『学校』だよ。同年代の人間が勉強するという名目で集められている場所だ。十五歳相当になった僕をそこに放り込み、努力根性友情? 何かさ、『人間』を構成するものを身につけさせればいいんじゃないかと。肉体と脳は作れても心は作れなかった研究者の苦肉の策さ」
息を詰めて見守っていたサーラに、アリヒトが目を向ける。口元には微笑みが浮かんでいる。
「サーラ、僕を人間にして。今の僕は人間としての歴史を、記憶を持たないただの有機化合物だ。今よりもずっと人間にならないと、培養槽に戻されて皮膚や細胞をはぎ取られるだけの実験体に逆戻り。もしくは僕を輝かしい研究の成果とは認めない『民衆』の強い拒否感によって『廃棄』される。君より前のすべてのルームメイトと上手くいかなかった僕は、すでにそうなっていてもおかしくない。君の荷物が届いたとき、研究者の誰かが思い切って僕を始末しようとして爆弾を投げ込んできたと思った。そんなに簡単に殺されてやるもんか。有機化合物の叛乱だよざまあみろ。だけど君が来た。おそらく君は僕の最後のルームメイトだ。君が僕を人間にしないと、僕は」
笑みが消える。
――君が僕を人間にしないと、僕は
――僕を人間にして
「サーラ」
名を呼んだアリヒトの唇が、音を発せずに動く。
僕を助けて
おねがい
* * *
完璧にデザインされた人間らしき生体を自称するアリヒトは、座学の成績だけでなく、身体能力も抜群だった。
小さな身体をものともせず、走れば早く、乗馬をすれば巧みで、射撃も正確。
アリヒトの「最後のルームメイト」に選ばれたサーラは、常に二番手だった。
全ての学科、実技において。
「十分すごい。この学年に『天才』がいたのがお前の不幸で、間違いなく十年に一度の逸材、そういう能力のはず」
アリヒトが学生たちの心の機微、柔らかい部分も弱い部分も刺激しまくる分、サーラに入れ込む者も多かった。落ち込んでいる前提で、同情されたり慰められる。
サーラの優秀さでも敵わないのだから、あれは特別なのだと。
アリヒトに向くはずの嫉妬や憎しみは「あのサーラでも負ける」という事実がうまく緩和し、数字で争う場面において奇妙な平和を作り出していた。
常にアリヒトのそばにいるサーラが、珍奇な言動も受け止めて補佐し、学生生活をよく支えていることで、アリヒトの奇抜さが際立つ反面、サーラの評判は高まり、結果的に二人が二人であることを皆がなんとなく認めている状態でもあった。
「同室っていうのがエロいよな」
三番手に甘んじているスチュアートは、女好きのする甘い顔立ちの美青年で、素行もそれなりらしいが、学内ではアリヒト・サーラコンビの「一番の理解者」であろうと努めている節があった。
何かと飛び抜けたアリヒト、それをフォローするのに忙しいサーラが「浮かないように」その他大勢との橋渡しを自認しているようでもある。
その見返りとして「二人の特別」に収まる強かさがあって、繋がりが深すぎる二人を遠慮なく揶揄することもしばしばだった。
(影でこそこそ噂されるよりは全然まとも。扱いやすい)
衆目のあるところでいじって来るのは、まず間違いなく計算の内。
「やめてくれ。俺はそういう意味では女にしか興味がない」
表立って、思いっきり、サーラは否定する。
明るい茶色の髪に、透き通るような茶色の瞳をしたスチュアートは悪戯っぽく笑い、「ほんとうに?」と追撃を仕掛けてきた。
「間違いない。なんだったら、お前のお付き合いしている中から俺でもいいという相手がいたら紹介してくれ……」
しれっと下衆な持ちかけをしたあたりで、潔癖の気のあるアリヒトが二人の間に小さな身体を割り込ませるのだ。
「不純異性交遊反対っ。いまのはサーラが悪いっ。愛が最初にないのに人と付き合おうとするなんて」
「愛が生まれるかもしれない。現状相手のことを知らないからなんとも言えない。まずは知り合わないと」
サーラが言い聞かせるように言うと、何がそんなに悔しいのかアリヒトは地団太を踏んで「だめなものはだめ!!」と喚く。
「面白いね。アリヒトくらい能力値が高くても、他人の心はどうにもならないんだ」
スチュアートがさらに揶揄い、しまいに「うるさい!!」と言ってアリヒトは床にひっくり返って騒ぎ続ける。本当に、そこが汚い床だろうとなんだろうと構わずに、ひっくり返るのだ。
(子ども……。そう、幼児が要求を通すための行動に近い。人間の行動としてはさほど浮いていない。十七歳の男性の多くはそれをしない、というだけで)
成長促進剤を使わないでいたときの、本来の年齢ベースで考えれば、人間性の獲得としては悪くないんじゃないかとサーラは考えている。
ただし、「研究者が満足する性格」に、このペースで卒業まで間に合うかは微妙なところだった。
(人間が大きく成長するのは……、「他者」をより強く意識することだろうか)
たとえば、外国人に恋をし、振り向いてもらいたくて語学を勉強したときに飛躍的に伸びるように。
恋をすれば、アリヒトはもっと人間に近づくんじゃないだろうか。
* * *
「性別はない。そういう風にデザインされている」
夜。
部屋でベッドに腰かけ、ヘッドボードに背を預けながら確認したサーラに対し、アリヒトはそっけなく答えた。
なぜか、制服のシャツにズボンのまま、腰を落として片足をのばし、柔軟をしていた。
その胸元に目を向けかけて、サーラはカーテンのかかった窓へ視線を逃がした。
アリヒトはそのだらしない生活とは裏腹に、これまでルームメイトのサーラに肌を見せたことはなかった。顔も身体も洗わないで寝ることはあっても、目の前で着替えることはしない。
その厳密さから、サーラはひそかに彼が「女性」である可能性を考えるようになっていた。
本当のことを言えば、初めて目にしたその時からずっとそう思っていたし、そうであって欲しいという願望があった。
「どうしていまさら」
どこか責めるような口調で言いながら、アリヒトはサーラを睨みつける。
「卒業が近づいてきたから。ここらで、ぐっと人間化計画を押し進められないかと」
「どうやって」
「パートナーと呼べる相手を見つけるとか」
「いらない。パートナーなら目の前にいる」
立ち上がると、腰に手をあててベッドに座るサーラを威圧的に見下ろす。見下ろされるほどの身長ではなかったが。十五歳相当の時点から二年以上経過した今も、ほとんど伸びていない。
平均を大きく下回るであろう体格は八重歯同様デザインで解消できたのではと感じないでもなかったが、「性別がない」のなら、男性基準で考えるところではないのかもしれない。
パートナーに関しても?
(目の前に……)
サーラは、思わず目を瞑った。
「俺じゃなくて」
「何を言っているんだ? サーラ以上の相手なんかいない」
「それが『殺し文句』になり得るということを学んできてくれ。どこかで。俺は教えられないから」
「いやだ」
あっという間に、アリヒトはサーラの膝に乗り上げていた。サーラのベッドにも、アリヒト対策でテーブルクロスが広げてあるので、靴で踏まれる分には問題ない。アリヒトは、二台並んだベッドを「どっちでもいい」という雑な判断でその都度好きな方を使うのだ。比較的早い段階で手を打った。
ベッドは平気だが、軽い重みを足に感じるサーラはそれほど平気ではなかった。
「俺は、恋愛は異性とすると決めている」
「恋愛?」
「頼むからあまり言わせないでくれ。言うつもりはなかったんだ」
アリヒトのほっそりした指がサーラの顎を摑まえた。
「サーラは誰に恋愛しているんだ」
「……目の前」
観念して目を開ける。
恐ろしく真剣な顔をしたアリヒトが顔を覗き込んでいた。
「僕が好きなら好きでいればいい。僕もサーラが好きだ」
「それだけじゃ済まない日がくる。今だって、アリヒトに触りたくて堪らないんだ」
「触ればいい」
アリヒトはそっけなく言うと、サーラの手を掴んで自分の頬に触れさせた。陶器のように滑らかな肌に見えていたが、触れると柔らかく、ほのかに温かい。
「今すぐ手を縛り上げるか、切り落とすかしないと……もっと望んでしまう」
くすっとアリヒトが笑みをこぼす。
「ルームメイトを縛ったり切断するのは人間の所業ではない」
たしかに。
「ルームメイトを襲わないなら。だけど」
「もっと好きになっていい。サーラになら何をされてもいいと言っているんだ」
呼気を感じる近さでアリヒトはサーラの黒髪に細い指を絡めて、唇に唇を寄せて来る――
「絶対だめだ。歯止めがきかなくなる」
アリヒトの身体を押しのけ、サーラは寝台にうつぶせになった。体格差があるので、アリヒトの力ではもうどうにもできない。
「れ……恋愛しようよ!」
アリヒトはサーラの背中に馬乗りになったり、身体をぴったりと張り付けて耳元で喚き続けたが、サーラは頑として振り返らずに過ごし、その夜の会話を記憶から葬り去ろうとした。
* * *
「恋愛しないと完全な人間になれない」
「嘘を言うな。思い付きだろう」
アリヒトがおかしくなった。きっかけを作った自覚はあったが。
とにかく一途で、頑固だ。
「……俺以外で頼む」
「そこで納得したら、サーラが僕以外と恋愛することを認めることにもなるよね!?」
「認めろよ。恋愛の意味でのパートナーは異性と決めていたんだ」
他人の耳目を集めたいとは思わなかったので、部屋の外で言い争わないのは暗黙の了解。
その頃のアリヒトは、学内で四六時中付き添わなくても、人間として遜色ない生活が出来ていた。
だけど、部屋で顔を合わせると一日一回は必ず押し問答になった。
「サーラのそれは言い訳だよ。好きなひとを好きでいいだろ。それとも僕が人じゃないから!? 人工のデザインベイビーで、記憶も歴史もない人間もどきで、不完全だから!?」
もしそれが理由なら、苦しまないで済んだかもしれない。
どうせ人権などない「綺麗な模造品」として割り切って玩具にしたかもしれない。
或いは、初めから惹かれたりしなかったかもしれない。
アリヒトがアリヒトとして目の前にいて、厄介で、手に負えなくて、わがままで、横暴で、危なっかしくて、滅茶苦茶で、目を離せなくなってしまったから。
他の誰も入る余地がないほど鮮やかに、心を奪っていってしまったから。
「好きになってよ。好きだって言ってよ。サーラに好きになってほしい。サーラに必要とされたい」
拒めば拒むほど、アリヒトはひっくり返って暴れた。そのうち唇を噛みしめ涙を堪えるようになり、やがてベッドに入って背を向け、声を殺して泣くようになった。
――どうして拒んでいるんだろう。受け入れて自分のものにしてしまえばいい。それとも、無残な別れを予感しているからだろうか
愛しても引き裂かれるとどこかで怯えているせいだろうか。
(好きすぎて愛し過ぎて頭が痛い。アリヒトはもう「人間」だろうか。それともまだ足りなくて、人間と結ばれることが「人間」としての完成になるなら、その役目を他の誰かに譲りたいとは思わない。だけど)
肉体への欲情を伴う愛は、アリヒトの聖性を損なう気がして。
――これはもう愛ではなくて、崇拝
相変わらずこの国は雨が多い。すっきりしない天気が続いている。
アリヒトとの会話は少なくなっていった。部屋では辛うじて同じ時間を過ごしているが、学内では完全に別行動になった。奇行の噂は聞かないから、上手くやっているらしい。
これで良いんだと何度も自分に言い聞かせた。
いつか引き裂かれるのなら、その痛みに耐える自信がないのなら、離れるための準備を。
関係性に終止符を打つ、最後の日は唐突に訪れた。
その夜更け、バタバタと足音を立て、部屋に数人からなる一団が押し入ってきた。
咄嗟に、サーラはアリヒトを背にかばった。
軍服に身を包んだ男が正面に立つ。
「回収にきました」
唇を吊り上げて笑う。嫌な目つきだと思った。
こんな奴には渡せない、とサーラは口を開く。
「その必要はない」
声が重なった。アリヒトだった。
「だいぶ様子がおかしいと報告が上がっています。隠し通せるものではないですよ」
軍服の男は、噛んで含めるように言った。親切ごかした響きがあり、無性に癇に障った。
「必要ないと言っているんだ。極めて正常だ。むしろ私の想定より遥かに高い耐久値を示している。彼は絶対に『人間』を傷つけない。難易度の高い選択も、複合的な判断も、すべて問題なくこなせる」
スラスラと言葉を紡いで、アリヒトがサーラの前に進み出た。
「アリカ博士。それはあなたの願望に過ぎない。ご自分の研究成果に固執するのはいい加減おやめください」
「失敗していない。彼は穏やかで辛抱強く、シニカルな言動があっても情に厚く、人間に優しい。同年代の生徒たちに敵視されず信頼もされている。私には無い良さが彼にはある。これ以上ないくらい、彼は人間だ」
普段の、感情を暴発させる話し方じゃない。冷静だ。それでも、声には抑えきれない怒気が滲んでいる。
――彼は人間だ
(彼は誰だ?)
この状況で馬鹿なことを考えた。
記憶の無い人間もどきのことだろう。
「アリカ博士。かねてよりの約束です。それを渡してください」
「だめだ!! 失敗じゃない。彼は人間だ。私は彼を生かす!! 不具合などない。試した。何度も試した。どんな状況でも彼は人を傷つけない。性愛の誘惑にも負けない。……愛の行為と暴力は紙一重だから。どれだけ強要されても彼は応えない。汎用化して普及させても問題ない性質だ」
人間を作っていたのはアリヒトで、そのアリヒトが目指したのは「どんなダメ人間にも愛想を尽かさず相手の世話をする性質」なのだろうか。それでいて、通常の暴力にみなされる行為はもちろんのこと、性愛に関する行為も関係性によっては「暴力」になり得るから、たとえ持ち主に強要されても一律決して応えない……。一線を越えない。
(アリヒトはそれ確認するために、俺に「愛している」と?)
だけど結局、迎えが来てしまった。
「よくわかりました。『俺』は確かに、狂おしいほど求めているのに、どうしてもアリヒトに手を出すことができなくて」
アリヒトの背後で、サーラは立ち上がる。
細い肩に腕を回して、抱きしめた。
「思い出しました。今の今まで忘れていた。アリカ博士。俺を作って育てたのは、あなただった」
研究所の恐るべき天才。だけど、「人間性」のデザインに不安があると、寄宿学校での生活を発案。自ら、一緒に過ごすことに決めて、先に学生生活を開始していた……。
「俺に人間らしい振舞いをさせる為に、とんでもなく振り回してくれて。ものすごく迷惑かけられた。反面教師だとしても、あれはない」
「そう、悪く言わないでくれ。私は『天才』だから常識も良識もなくても、大目に見てもらえたんだ……」
サーラの淡々とした恨み言に対し、弱り切った声でアリヒトが呟く。
「俺は大目になんか見ない。俺に人間であれと導こうとするあなたが、感情的で、破綻して、生々しくて、ちょっと嫌になるくらい人間だってわかってしまったから」
「嫌になってたか……」
落ち込まれても事実なので誤魔化せない。
その上で、サーラは抱きしめる腕に力を込める。華奢な身体を胸に引き寄せる。
「アリヒト」
呼び慣れた名で呼ぶと、思わずのように振り返ろうとする。横から首をまわして唇を奪った。
「もし、人間と性愛行為に及ばないという機能を大事に考えているなら、性衝動や繁殖機能がないデザインにしてください。博士が女性であることも実際は見た目通りの年齢でもないことも思い出しました。手を出しますよこうなったら」
ううううう、とアリヒトは呻き声を上げた。
顔が赤い。
なんだそれ、可愛いなと思ったところで、アリヒトに力いっぱい抱擁を返された。
「私のこと好き? 本当に好き? 大好き? 愛してる?」
「好きです本当に好きで大好きです、愛していますよ勿論」
忌憚のない意見を寄せたら、ぎゅうううっとさらに強く抱きしめられたので、さらに抱きしめ返してみた。
アリヒトが目を輝かせて、闖入者たちを振り返る。
「ほら!! 大成功!! 別に強要したわけじゃなくても、自由に自然恋愛の感情が発生するんです!! 彼は人間です……!! この後家族や子どもが増えたときにどう愛情が変わっていくのか経過もみたいですけど、真の意味で彼は人間ですし今後もパートナーとして私が面倒を見て行きますから、引き離したりしたら世界を滅亡させますから!!」
軍服姿の若い男が、明らかに「博士また馬鹿なことを言って」みたいな生温い目で見ていることに、サーラは気付いてしまった。
そうだ博士はいつもこんな調子で周りを巻き込んで研究を進めていた。
この人たち多分何か巻き込まれただけだな、と察してサーラはぺこりと頭を下げる。
「お疲れ様です」
「いえ……そちらこそ」
そう言って、闖入者たちは連れ立って撤収していった。
見送ってから、サーラは喜色満面のアリヒトを見下ろす。
育ての(開発も)親が恋人でルームメイトで子どもも作るつもりとかいろんな意味で始末に負えないなと思いつつも、アリヒトより遥かに常識と良識がある設定のサーラは、何かを待ち望んだ顔を見下ろして淡々と言った。
「まず、卒業しましょう。話はそれからです」