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東京都在住ミミちゃん六歳  作者: 虹鱒 竜ノ介
二十五歳カメラマン 実乃莉
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3/3

第三話

 8


 あの飲み会から数日が経った。バイトをしながら写真を撮り、時折SNSに上げるという生活は変わらないままだったけれど、写真を撮るときの気持ちには少しずつだが変化が生まれていた。

 公園でミミちゃんの写真を楽しげに撮っていた男の子のことや、わざわざ後を追ってきて言葉をくれた一樹さんのことを思い浮かべて、挫けそうな心を何とか保っている。

 とある日の昼過ぎ、むっちゃんからまた連絡が入ってきていた。

「もしかしたら写真の仕事お願いするかも」

 その文面が目に入ってきたとき、私は小さくガッツポーズをした。私の撮る写真に価値が生まれるのかもしれない。今までも当然、写真の仕事をしたことがあるが、いつだってその瞬間は嬉しいものだ。それを思い浮かべると、いても経ってもいられなくなって、すぐにむっちゃんに返信をした。

「じゃあ明日の十四時ごろ、駅前のカフェで軽く打ち合わせで」

 何回かやり取りをして、夜勤のバイトに向かう前には話が纏まった。


 いつもであればだらだらとバイトをするところだが、今日だけは違った。窓の外に見える空が、早く明るくなって明日にならないものかと、どこか浮き足立っていたと思う。バイト先で店長が漫画を読んでいる姿だって、そこまで気にならなかった。

 気が付けばバイトの時間が終わっていて、カラオケから出ると、初夏の早朝が出迎えてくれる。いつもであればバイト先にカメラを持ってくることはないだけれど、明日に打ち合わせがあるということもあり、気合を入れるために今日は持ってきていた。

 家に向かいながら私は、いつもであれば気にも留めない風景にカメラを向ける。

 早朝の太陽の輝きを鈍く反射する雑貨屋のシャッター、これから仕事に向かうのであろう人々の往来、電気のついていない静かなショーケース。

 色々なものをカメラに収めながら、数日前に出会った男の子のことが頭をよぎる。使い方がちゃんと分かっていないながらも、色々なものを楽しんで撮っている姿。

 ああ、私はなんて大事な感覚を忘れていたのだろう。

 うまく言葉に出来ないけれど、何かが腑に落ちた私は、再びファインダーを覗きこむ。今腑に落ちたこと。これは多分本当に大事なもので、絶対に忘れてはいけないことだと、言葉に出来ないものだけれど、理解はしていた。


 9

 

 朝起きてから、いつもに比べて少していねいに身支度をした。ノートパソコンに、自分のカメラマンとしてのポートフォリオファイルが保存されていることを確認してから、家を出る。

 外に出て鍵を閉めたときに、「TAKAHASHI」とお洒落な筆記体で書かれた表札が目に入った。いつもであれば目を逸らすそれを、今日は何故かまじまじと見つめた。その表札に意識を引っ張られたまま駅前に向かう。


「実りのある人生になりますように」

 大学を卒業して少し経った頃、自分の名前に込められた意味を思い返したとき、その重圧に耐えられなかった私は、親から送られてきた「MINORI TAKAHASHI」と書かれた表札を叩き割った。

 その時の木の割れる乾いた音が、今でも私の頭の中に残っている。叩き割ってから、表札が無いのは困るなと思って、残った苗字の方だけを使うことにした。そのときふと、なんとも中途半端な人間だなと、自分にげんなりしたことを覚えている。名前のほうは、一応押し入れの中に仕舞ってある。なんとも中途半端な人間だ。

 今日打ち合わせが上手く進んで、私が写真を担当することになったら、もしかしたら「実乃莉」という名前に正面から向き合えるのかもしれない。

 それに少しだけ期待しながら、浮き足立つ気持ちと緊張する気持ち両方をなんとか押さえた。


 打ち合わせをするためのカフェに着いたのは、時間の十五分ほど前だった。

 席に座ってコーヒーを飲みながら、事前に写真の整理をしておく。自分の中でもお気に入りだったり、上出来だと感じたものは、ノートパソコンに移しておいてあり、なんで気に入ったのかなどのメモも取ってある。

 少し遡ると、以前公園で会った子が撮ったミミの写真が出てきた。ぶれぶれだが、必死に“今”という瞬間を収めようとした写真。

 それを見てから、それ以前と以降の自分で撮ったものをなんとなく見比べてみる。そこに明らかな違いがあるわけではないが、どこかにやはり違いがある。多分、私自身の心境の変化が影響しているのだろう。それが良いのかは分からないが。

 今回の打ち合わせは、小説の挿絵と表紙を担当するかどうかという話だった。

「ごめん、待たせてた?」

 座りながらパソコンで写真を見ていると、むっちゃんの声がした。見上げると、スーツを身にまとったむっちゃんと、何故か一樹さんもいる。そして、今回の作家さんも。

「ああ、いや、全然大丈夫だよ」

 私は、ビジネスの場に馴染めているのかが不安になり、ぱっと立ち上がりぎこちなく作家さんに挨拶をした。

「高橋実乃莉と申します。今日はよろしくお願いします」

 名刺を渡すと、彼女はそれを笑顔で受けとり、代わりに名刺を差し出してくる。

『松前 千絵』

 と名前が記された名刺には、文筆家という肩書きが記されていた。

「松前と申します。こういった打ち合わせ、実は初めてなので緊張していますが、色々とお願いします」

 優しい笑顔が印象的な女性だった。年齢は恐らく40代くらいだろうか。天真爛漫な雰囲気がする。

「実は今回の話、千絵さんから指名があったんだよね」

 皆それぞれ椅子に座りながら、むっちゃんが少し微笑んだ。

「ええ、とても素晴らしい写真を沢山撮ってらっしゃるなと思いまして」

「すみませんそんな、ありがとうございます」

 その言葉は本当に嬉しかったが、一方で根から信じることも出来なかった。その証拠に、まず謙遜の言葉が出てしまっている。

「今回は、千絵さんの書いた本の表紙や挿絵を担当して貰おうという話になりまして……」

 一樹さんがとんとんと話を進めていく。正直、完全に頭に入りきっているか分からなくて、パソコンで色々なことをメモしながら話を聞いた。

「小説の内容が、両親が不仲な家庭にいる少年が、両親の仲を戻すために奮闘するっていうもので。内容にあった写真を幾つか使いたいなと」

 一樹さんがパソコンに映った資料を見せてくれる。そこには、小説の大まかなプロットが簡潔に纏められている。

「なるほど……」


 それから、話は思いのほか早く、そして良い方向に進んでいった。むっちゃんと一樹さんの話の進め方が上手いからなのだろう、気が付けば契約は決まっていた。写真が上手いこと撮れて問題がなければ、文庫本として近々発売されるらしい。

「写真を撮るときのイメージとして欲しいので、幾つか個人的な質問をさせていただいてもいいですか?」

「はい、なんでもお答えしますよ」

 千絵さんは可愛らしい、少女のような笑顔で答えてくれた。

「どういった状況で今回の作品を作っていったのかを尋ねたくて」

 もしよろしければ、と私は少し低頭して聞く。彼女は、少し困ったような顔をする。

「以前ですけど、家庭内でトラブルがあって、それが今回書こうかな~と思ったきっかけの一つとしてありますかね」

 そのまま彼女は話を続ける。これは立ち入ったことを聞いてしまっているのではないかと不安になって、むっちゃんのほうに目をやる。彼女は、大丈夫だよ、と口の動きと微笑みで伝えてくれた。

「子供が幼いときの両親の関係性ってとても大事なものだと思っていて。その子供の視点でトラブルを抱えた両親を見たらどうなるのかなーとか思ったのがきっかけですかね」

「なるほど……そういったところも表紙や挿絵に反映させちゃって大丈夫ですかね?」

「ええ、全然。むしろそうお願いしたいです」

 借りてきた猫な私に対して、彼女は全く気にすることなく微笑んでくれた。こういう人を純粋な人とか、素直な人とかいうのだろうか。

「私実は、実乃莉さんの写真が以前から好きだったんですよ」

 彼女からそんな言葉が出てきて、とっさに、嘘でもついているのか、あるいはこれ自体が夢なんじゃないかなどと、するべきではない疑いを掛けてしまう。

「SNSのほうもフォローしてるの」

 ほら、と彼女はスマホの画面を見せてくれた。確かにそこには私のことをフォローしている彼女のアカウントが写っている。

 見覚えがあるなと思ったら、いつも私の写真にいいねをしてくれているアカウントだった。

「以前上げていたときのぎらぎらしている写真も好きだったけど、最近あげた優しい雰囲気のも好きなのよね」

 彼女に言われてから、私ははっと気づいた。やはり私の心情の変化は、写真にも現れているのだと。

それに気づいてから、その感覚を言葉にしてくれた千絵さんに私は感謝した。

「ありがとうございます」

 今度は、謙遜の言葉無しに、素直に言えた、そんな気がする。

 そして私は、あの日公園で出会った少年と猫にも感謝していた。貴方たちにも、何かの幸運が訪れますように、と小さな祈りも冗談で添えて。


 10


「乾杯!」

 打ち合わせから数日後、私とむっちゃんと一樹さんの三人は、駅前の居酒屋でお酒を飲んでいた。

「最近、実乃莉元気だよね」

 それぞれの近況報告のような、いわゆる世間話をしてから、むっちゃんは突然そんなことを言ってきた。少し酔っているのか、彼女の色白の肌は少しだけ赤くなっている。

「そうかな?」

 首を傾げた私に、むっちゃんは首をぐいぐいと縦に振った。

「二人は大学時代からの知り合いなんでしたっけ?」

 尋ねながら一樹さんはハイボールを喉に流し込む。彼はお酒が強いのだろう、私の倍近くの量を飲んでいるにも関わらず、全く変化がないように見える。

「うん、同じサークルだったんだよね」

「懐かしいね」

「二人はどんな学生だったんですか?」

 興味深げに一樹さんは尋ねてくる。その質問に、私もむっちゃんも一緒に頭を悩ませる。

「実乃莉はね、どんなだろう。いつも一人で居た気がするなー」

「ちょっとそんな言い方しないで」

 むっちゃんはけらけらと笑い、ビールをぐっと飲んだ。

「本当ですか?」

 真に受けた一樹さんが、私の顔を覗き込んでくる。真面目そうな黒い瞳孔。吸い込まれそうになる。

「いやまあ、いつも写真ばかり撮ってたので、あながち間違いじゃないですね」

「だからあんな良い写真が撮れるんですね」

 私はそう言われて、最初は謙遜の言葉が出そうになるが、それを飲み込んで、

「ありがとうございます。そう言われると嬉しいです」

 と答えた。

「そういえば、今回の仕事の話。どうして私に話が回ってきたんですか?」

「一樹君がめっちゃ推したんだよね~」

 むっちゃんが一樹さんに面白がるような目を向ける。それを受けて一樹さんは、まあ、と小さく声を出した。

「そうなんですか?」

「ええ。まあ表紙とか挿絵で、絵か写真かで千絵さんは迷ってたんですけど、写真が良いかなという話になって。元々彼女が実乃莉さんの写真をご存知だったので」

 ありがとうございます、と私は頭を下げた。それに対して一樹さんは、どこか恥ずかしそうに頭を掻いた。

「まあ、実乃莉なら良い写真撮ってくれるよねーてなって」

 むっちゃんは店員を呼んで、ビールとハイボールを頼んだ。二人とも私よりも多くのお酒を飲む。

「なんか、最近撮る写真の雰囲気変わったよね」

「やっぱりそうなのかな?」

「うん。なんか、優しくなったていうか、楽しんでるなーって思う」

 店員が持ってきた新しいビールとハイボールを受取ると、二人ともそれを流し込む。むーちゃんの顔はさっきよりも赤くなっているような気がした。

「祐介君が見たらどう思うかな?」

 私はふとそんなことを呟いていた。

「祐介君の呪縛からは解かれそう?」

「呪縛?」

冗談交じりに言ったむっちゃんに、興味深げに一樹さんは繰り返した。

「祐介君っていう、めっちゃ賞とか取ってたサークルの同級生がいてね。実乃莉いつも気にしてたから」

「呪縛だよね、本当に」

 私は笑って、残っていた緑茶ハイを一気に飲み干した。

「でももう大丈夫。なんか、最近吹っ切れたような気がする」

「だから写真の雰囲気も変わったのかな」

「多分ね」

 少しだけ思い出に耽り、沈黙が流れた。がやがやとした居酒屋の騒ぎ声に包まれる。

「俺、今の実乃莉さんの写真、前よりも好きですよ」

 一樹さんの声が聞こえた。

「ありがと」

 もう一度、私は頭を下げた。


 11


「私と一樹君はもう一軒飲みにいくけど、実乃莉も来る?」

 初夏とは言え、夜になれば外の空気は冷たくなる。酔いが回って火照ってきた顔に、外の空気は気持ちが良かった。

「明日バイトだし、今日は早めに帰ろっかな」

「そっか」

「それじゃ、今日ありがとね。一樹さんも、ありがとうございます」

「いえいえ、また飲みにいきましょ」

 少しだけ言葉を交わし、私たちは別れた。街の雑踏に二人の姿は消えていく。一樹さんに、私の後を追わせなくて良くなったことに気づいて、私は嬉しかった。

 いつも通りの家路に着く。街灯が暗闇を照らして、スポットライトのようになっていた。ふとふざけて、街灯の下で立ち止まってみる。

 そして近くのガードレールに腰掛けて、ポケットから煙草の箱を取り出した。あのとき祐介君がくれたものとは違って、今度は青い箱。

 ぼっ、というライターの音が、あの時と同じように響く。

「ぷか、ぷか、ぷか、ぷか、煙が、目に染みても、暗くても夜は明ける」

 煙草を吸うと、『染まるよ』を歌いたくなる。しかも毎回何故か二番の歌詞。きっと、夜が明けるって言葉が、希望に満ちて聴こえるからだろう。

 その後の歌詞を、私はいつも歌わなかったが、今日だけは酔いに任せて口ずさんでみた。

「あなたのくれた言葉、正しくて色褪せない、でも、もう、いらない」

 僕は今この瞬間を収めたいのかもな、と言った彼の言葉。多分それは正しくて、私はいつもそれを心のどこかで追いかけていた。その言葉に、自分の中での“写真を撮る理由”を探すための意味みたいなものを込めていたのだと思う。

 でももう大丈夫な気がした。私はもう、写真を撮る理由なんて探す必要がなくなった。多分、理由なんてなくても、楽しくてずっと写真を撮り続けるだろうから。

 街灯のスポットライトを浴びながら、そんな感傷に浸っていると、ふと我に返って恥ずかしくなる。これじゃまるで物語の主人公みたいだ。

 でもまあ、そんな一日があっても良いかなと自分を納得させる。ここ数日間はきっと、私が主人公の一日だ。

 そして私は、明日の、あるいは明日からの主人公になるであろう誰かのことを思い浮かべてみた。明日は誰が主人公の一日なのだろう。その次の日は誰が主人公なのだろう。あるいは、昨日までの主人公は誰なのだろう。

 もしかしたら、それらが繋がって、一つの物語になったりするのだろうか。なんてことを考えていたら、煙草はすっかり短くなっていた。

 私は煙草の火を、あの夜の祐介君みたいに踏んで消して、街灯のスポットライトから抜け出した。

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