第一話
1
子どもが出来たときに、親というのは子どもの名前に意味を込めるらしい。
「実りのある人生になりますように」
両親は私の「実乃莉」という名前にこういった意味を込めたそうだ。この話を聞いたのは確か小学生とか中学生くらいの時だっただろうか。
私は、自分の名前が嫌いだ。
「実りがある人生になりますように」
あまりにもプレッシャーすぎる。母親が私に名前の由来を説明したときには「なりますようにっていう意味を込めたのよ」なんて言っていたが、本心ではきっと「実りのある人生を送りなさい、そういう人生を送らないと貴女を生んだ私たちが恥ずかしいわ」と思っていたに違いない。
だから私は、自分の名前が嫌いだ。
疲れた体に鞭を打って、店内の締め作業が全てきちんと終わっているのかどうかを確認する。この前はエアコンを切り忘れて、店長にしこたま叱られた。店長自身はいつもダラダラと漫画を読んで、締め作業を私に放り投げるくせに。
さっきエアコンは切ったが、念のためもう一度確認する。といっても、店内の温度からして切れているのは分かっているのだけれど。
私にとって勝負の年である今年も、もう春が終わってしまった。エアコンを切って五分も経つと、室内に熱気が篭る。
「さ、帰ろ」
誰もいない店内に、私の声が消えていく。
大学を卒業してから三年、私は未だに自分が納得する成果を出せずにいた。フリーターとしてカラオケで働きながら、カメラマンとして成功を収めるために必死に過ごしてきた今までは、自分でいうのも変な話だが血の滲む様な努力をしてきた。
また過去を振り返っている。
「僕は今この瞬間をカメラに収めたいのかもなー」
大学生のとき、同じ写真サークルに所属していた同級生の台詞を思い出す。彼はいつも今と未来しか見ていなかったような気がする。
いつも公募の賞レースで彼は私の上をいっていた。ネットで選考結果を見るとき、いつも最初に目に入るのは彼の名前だった。
また過去を振り返っている。
今までのことというのはどうしてこうも付きまとってくるのだろうか。それはまるでイエスが背負った十字架のように、私の背中に体重を掛けてくる。
「実りがある人生になりますように」
母親が私に告げた言葉が、また頭の中で繰り返される。
駅前にあるバイト先から出ると、これから全力を出して活動を始める太陽が準備運動を始めていた。空は白んできていて、町は淡い青色に染められてきている。
初夏の明け方というのは過ごしやすい。しかし私にとっては、もうタイムリミットが迫ってきていることを示す。昔の私だったらこの過ごしやすい明け方に、すっきりとした気持ちで写真を撮っていただろうか。あるいは成功している私だったら。
一応気分転換に、ポケットからスマホを取り出して何枚か写真を撮ってみる。白んできた空、駅前の往来、シャッターの閉まった雑貨屋。悲しいことに、どれを撮っても私の心はすっきりとしない。夏が迫ってきていることを示す、少し湿気を含んだ空気だけが意識に残る。
昔の私だったら、“今この瞬間をカメラに収めること”を楽しめただろうか。あるいは成功した私だったら。
最近は頭の中でこんな思考がぐるぐると巡っている。そしてぐるぐると巡り、結局出口を見つけないままいると、住んでいるボロアパートに辿り着いていた。
私が住んでいるのは101号室。掛かっている表札は木製で、中途半端なサイズに割られている。残された方には「TAKAHASHI」とお洒落な筆記体で書かれている。私の苗字だ。
玄関を開けて目に入るのは、床に散らばった書類たちだ。その数は、私が持っている靴の数を優に超している。
はあ、と溜息が出る。書類を纏める余裕が無くなってしまったのはいつからだろうか。税金を納める余裕がなくなったのは、年金を支払う余裕がなくなったのは。
履いていた靴を脱ぎ捨て、寝るための準備をてきぱきと進める。歯を磨きながら服を脱いで洗濯籠に放り込んだ。洗濯籠から溢れてきた自分の洋服やら下着やらを見て、そういえば最近洗濯してないなーと気づいた。
ユニットバスの狭いシャワールームでシャワーを浴びながら、色々と思い出す。
カメラマンを目指すといって両親と喧嘩をした日、期待を胸に住んだ今のアパート、自分の名前に漢字が入っているからと縁起を込めて撮ったジャスミンの花、スマホの画面で見る落選の知らせ、叩き割った木製の表札、いつからか嫌いになってしまったジャスミン茶、「実りがある人生になりますように」、「僕は今この瞬間をカメラに収めたいのかもなー」。
全てシャワーから流れ出るお湯と一緒に流れてしまえばいいのに。カメラマンを目指そうなんて言った私の過去も一緒に、流れてしまえばいいのに。
ヤニで汚れた髪の毛を洗いながら、私は泣きそうになっていた。
気持ちを落ち着かせ、なんとか涙を堪えてシャワーを済ませてから、体から垂れる雫を拭き取る。邪魔にならないようにと切ったショートボブをタオルで乾かし、パジャマも着ないままドライヤーで髪を乾かす。
鏡に映る自分の顔は、随分と疲れていた。夜勤のバイトのせいだけではないだろう。目の下は隈のせいで少し暗くなっていて、肌のキメ細やかさも失われている気がする。一応化粧水やら乳液やらは使っているのだけれど、心身ともに来る疲れは誤魔化せないのかもしれない。
明日は久しぶりの一日休みだ。カメラを持ってどこへ行こうかなー、と考えている自分に気付いて、まだカメラマンとしての自分がなんとか生きていることが分かる。それが嬉しいようで、「普通の25歳」になれていないことが悲しい。
まだ少し湿った髪をくしゃくしゃと掻きながら、キッチンの換気扇を回す。その下で、アメリカンスピリットの青い箱から煙草を一本取り出して、火を付ける。一口吸い込んで吐き出した煙は、一瞬宙に漂った後、換気扇に吸い込まれていった。
「ぷか、ぷか、ぷか、ぷか、煙が、目に染みても、暗くても夜は明ける」
恋愛に縁が無い私だが、煙草を吸うと、『チャットモンチー』の『染まるよ』を歌いたくなる。煙草を吸えば、煙草を吸っていた同級生の彼に追いつける気がして。貴方が吸っていた銘柄はもう思い出せないけれど。
何故かは分からないが、いつもこの曲を口ずさむ時は二番の歌詞を歌ってしまう。そして、そこから先は歌わない。
煙と溜息を一緒に吐き出しながら、今日の疲れを癒す。明日はカメラを持ってどこへ行こうか。最近は一人で遠くへ行くことが多かったから、たまには近場で写真を撮ってみよう。
火が付いたままの煙草を、水が入ったコーラの缶へ放り込んで、寝室へ戻る。寝室といっても、1Kだから一室しかないのだけれど。
ベッドに横になり、ふう、と一息つく。気が付いたら今日一日が終わっていて、春が終わっていて、去年が、一昨年が終わっていて、三年間と自分に課した年の初夏になっている。
何か、何かしなければと思うが、何をすればいいか分からない。そんなことを考えながら目を閉じていると、気が付いたら眠りに落ちていた。
2
目が覚めるとカーテンの隙間から暖かい光が漏れていた。枕元に置いてあるデジタル時計を見ると、午後一時を示している。
ベッドの上で伸びをしながら、今日は近場を散歩しながら写真を撮ろうと決めていたことを思い出した。体が重い。なんでだろうか。もし、本当に写真を撮ることを楽しみにしていたら、こんなに体は重くないはずなのだろうけれど。
鉛のように重い自分の身体を何とか起こして立ち上がると、冷蔵庫から紙パックに入ったアイスコーヒーを取り出してコップに注ぐ。コップは茶渋で酷く汚れているが、それを綺麗にしようと思えるほどの余裕はない。
キッチンでコーヒーを飲みながら煙草を吸う。コーヒーを飲むとどうして煙草を吸いたくなるのだろうか。
そうして少しダラダラしてると、気持ちが段々と上向いてくる。今日はどんな写真が撮れるのだろう。コーヒーを飲み終えてシンクにコップを入れて、相変わらず灰皿代わりに使っている缶に煙草を捨てると、スマホが小さな振動と共に画面を光らせた。
大学時代の同級生であるむっちゃんから連絡が来ていた。今日の夜飲みに行かない?、という誘いのお知らせ。最後に彼女と飲んだのは春先の頃だったっけ。とりあえず、いいよ、とだけ返信しておく。
頭の中でスケジュールを立てていく。夜駅前に飲みに行くのであれば、夕方前くらいに公園に向かえばいいだろうか。
体はまだ少し重たかったが、習慣的に私はパソコンを立ち上げていた。毎朝起きてから、私は前日に撮った写真のレタッチをして、SNSに上げるようにしている。不安や恐怖に追いかけられるように、私は作業を始める。
作業を始めるときというのは、そういった負の感情がきっかけだが、作業をしている間は無心になれた。そういう自分がいると分かったときだけ、私は自分で自分を認めることが出来た。
一時間ほどレタッチ作業を進め、完成したものをSNSに上げていく。上げてから数分経つと、何人かがいいねを押してくれたり、拡散してくれたりする。最近は結構な数の人たちが私のアカウントをチェックしていてくれて嬉しい気持ちになった。
パソコンの電源を落とし、一度伸びをする。
「さてと」
自分に言い聞かせるようにそう呟いてから、私は外に出るための準備を始めた。
3
家の外に出ると、生ぬるくて湿気を含んだ、夏特有の空気が出迎えてくる。多分もう少ししたら梅雨が来るのだろうか。
鍵を閉め、なるべく自分の部屋の表札は見ないように家を出る。表札を見る度に、両親の顔と、叩き割った時の風景が頭に蘇るからだ。
カメラを胸元にぶら下げながら街を歩く。少し歩くと、起きたときの体の重さはすっかりと消えていって、目が冴えてきた。
ただの街路樹やガードレール、人々が生活している街並みや、そこで間借りをするように暮らしている雀や鳩などの写真を撮りながら公園へ向かう。目は冴えているし、撮っている写真も決して悪いものではないのだが、何かが決定的に足りていない気がする。
まず私は、何故自分が写真を撮っているのかもはっきりとは分かっていなかった。ただ、写真を撮らなければ、シャッターを切らなければいけないという強迫観念に追われるがまま、写真を撮り続けていた。
そんな気持ちのまま歩いていると、知らぬ間に公園の傍の一本道に辿り着いていた。そこで私は、一匹の猫と目が合う。
その猫の見た目は少し変わっていて、体は真っ白な毛に覆われているにも関わらず、耳だけが黒色なのだ。
少し太ったその猫は、私のことを少しの間見つめると、破れたフェンスの穴をくぐって公園の中へと消えていった。その眼差しと、のそのそとした歩き方は、まるで私のことを公園の中へと誘っているようだった。
面白い猫がいたものだ。そう思った私は、その猫の足取りを追うように、一番近い公園の入り口へと向かった。
平日とはいえ、夕方手前ののんびりしたくなる時間帯だからだろう、公園には比較的多くの人がいた。それぞれ本を読んだりスマホを弄ったりジョギングしたりなど、自由な時間の過ごし方をしている。
駅前から繁華街を抜けた先にある公園は、中心に大きな池があり、その周りをぐるりと遊歩道が囲うような作りになっている。そのためか、初夏の生ぬるい風が吹いても、どこか涼しげに感じられるから、心が自然と落ち着く。
様々な人が、それぞれの生活を過ごす中で、私は写真を撮りながらさっきの猫を探していた。果たしてどこに消えたのだろうか。自然も多く、広めの面積を有しているこの公園で、たった一匹の猫を探すことなど不可能に近いことはなんとなく分かっていたが、足は止まらなかった。
「あっ」
思わず声が出る。公園を三十分ほど歩いていると、ついにその耳だけが黒い猫を見つけたのだ。遊歩道から伸びる狭い脇道を少しだけ進んでいったところに、今まで気が付かなかったような小さな空間があり、そこに小学生らしき男の子と一緒にベンチの上にいた。
少しだけ距離が離れており、また、男の子は猫を撫でるのに必死なため、私のことに気が付いていない。これよしと、私はカメラのファインダーを覗き込んだ。
かしゃり、と、シャッターの切れる音がする。その瞬間、猫と男の子は一緒に顔を上げて私のほうを見てきた。その様子が面白くて、私はもう一度写真を撮る。
「勝手に撮っちゃってごめんね」
私は少し声を張って、一匹と一人にそう謝る。すると、一匹と一人は目を合わせて、同時にあくびをした。その様子もまた面白くて、私はカメラに収めた。
「お姉さんも撫でてみる?」
少年は私に手招きをしてきた。招き猫ならぬ招き人だ。少し迷ったが、興味の沸いた私は、猫を驚かせないようにゆっくりと歩みを進めて招かれた。
「いいの?」
男の子は猫をぐっと引き寄せて、ベンチに私が座れる分のスペースを作ってくれる。私は少し会釈じみた頭の下げ方をしながら、そこに座った。私が座ったにも関わらず、猫は泰然自若、全く動かなかった。
「最初に手の匂いを嗅がせるといいんだ」
猫を撫でようと手を伸ばした瞬間、男の子は私に笑顔でそう教えてくれた。その屈託の無い笑みは、特別子供が好きというわけでもない私にすらも、安らぎに似た感情を与えてくれた。
私は彼の教えに習って、まずは猫の前に手をかざしてみる。だらんとベンチの上で寝転がっていた猫は、少しだけ頭を上げて、私の手の匂いをくんくんと嗅ぐと、ふん、と鼻息を最後に漏らした。そのまま再び、ベンチに頭をもたげて、どうぞ撫でて下さいと言わんばかりに寝転がる。
失礼します、と私は心の中で言ってから、その猫の背中に触れる。ふわふわとした毛が指の間を通っていく。少し撫でると、ぐるぐるごろごろと、猫特有の喉を鳴らす音が聞こえた。
「ミミっていうんだ」
撫でられている猫を見ながら、男の子は私に教えてくれた。恐らく小学三年から四年くらいだろうか。男の子だが、声変わりがまだだから、随分あどけない声をしている。
「この子のこと?」
「うん」
「可愛い名前だね」
ぐるぐるごろごろと喉を鳴らす猫、ミミは、自分の話がされていると気が付いているのだろうか、再び、ふん、と鼻息を漏らした。
「耳だけ黒いから?」
私の質問に、彼はうん、とすぐに答えると、視線をカメラに向けてきた。
「お姉さんはカメラが好きなの?」
私はその質問に、少しだけ間を置いてから、うん、と答えた。右手でミミを撫でながら、左手でカメラも少しだけ撫でてやる。服や靴にお金は掛けていないが、カメラにだけはお金を掛けているし、きちんと手入れもしている。今も、木々の間を縫って差し込んでくる光を、鈍く反射している。
「もし良かったら撮ってみる?」
少年は、私のカメラを随分と物欲しげに見ていた。その純粋な目に応えてあげたくなった私は、カメラを少年に渡す。彼はそれを嬉しそうに受取ると、まじまじと見つめた。
「使い方教えてあげる」
私はそれから、その男の子にカメラの使い方を教えてあげる。隣でミミが退屈そうにあくびしているのを見て、教えるついでに撫でてあげた。
「こんな感じかな。ちょっと撮ってみたら?」
うん、と答えると、男の子はカメラのファインダーを覗き込む。小学生の体に合わせると、カメラは随分と大きく見えた。そのまま、かしゃり、と一枚写真を撮る。
「全然上手く撮れない、難しいね」
そうは言いながらも、男の子は続けて何枚か写真を撮る。その様子は、随分と楽しそうで、見ているこっちまで明るい気持ちになる。
「難しいけど、面白いね」
何枚か風景の写真を撮った後、今度はミミのほうへカメラを向けた。ほら撮れよ、というような顔で、ミミはカメラのほうを見ている。
「こうやって見ると、耳だけ黒いの変だね」
そうだね、と答えながら、男の子が写真を撮るのを楽しんでいる姿を見て、私はなんだかとても大事なことを忘れていたような気がしてきた。
「僕は今この瞬間をカメラに収めたいのかもなー」
頭の中に、大学の同級生の台詞が蘇る。目の前にいる男の子も、必死に、苦戦しながらもミミの今の姿をカメラに収めようとしている。
私は、こんなに必死に“今”という瞬間をカメラに収めようとしていただろうか。それに、私はこんなに楽しんで写真を撮っていただろうか。
私はすっかり、写真を撮るのを楽しむ、ということを忘れてしまっていたような気がする。
目の前で男の子がミミのことを色々な角度から撮っているのを見て、私は自分とカメラとのことを思い出していた。
4
「今回も金賞。すごいね」
高校の写真部の顧問の先生は、賞状を見ながらそう呟いた。顧問といっても、特別カメラに詳しいわけでもなければ、この部活に思い入れがあるわけでもない先生は、賞状をちらりと見た後、私に返した。
写真部は、私が高校に入学したときに、友達数人と頼み込んで作った部活だ。入学したときに、たまたま同じクラスにカメラが好きな帰宅部が何人かいたため、ノリと勢いで作ろうとしたら意外にも出来てしまった。
勢いで作った部活だったが、思いのほか活動は活発だった。言いだしっぺの私が部長になり、特別やることのない部員数人と、毎日ああでもないこうでもないといいながら、色々な写真を撮っていたのを覚えている。
「賞に応募とかしてみる?」
確か一年生の夏休みの頃だったろうか。部員の一人がそう言ったのをきっかけに私たちは、ただ楽しむためだけに写真を撮るのではなく、賞を目指して写真を撮るようになった。と言っても、根本に“カメラって楽しいよね”という気持ちがあったことに変わりはない。
元々カメラ浸けだった私達は、意外にも簡単に賞を取ってしまった。自分達でも実感が沸かなかった。
それ以来、三ヶ月に一回ほど、部員の誰かが入選したり賞を取ったりすることで、学校の集会で表彰されることがあった。
しかし金賞を取ることが出来たのは、どの賞でも部長の私だけだった。それは私の自信にもなったが、続くに連れて過剰になった気がする。
自信過剰になったからといって、部員に対しての態度であったり学校の中での態度が変わったわけではない。ただ、心のどこかに、私は必ずカメラマンとして成功できるのだ、という根拠のない自信が生まれていたのだ。
高校の進路希望調査では、写真を専攻している学科のある大学を選んだ。そして、当然私はそこに入学できるものだと思っていた。現役で入学できなくても、浪人してでもそこに行きたいと思っていた。
「浪人は許さないからな」
そんな私の前に立ちはだかったのは、両親のその言葉だった。両親が私に提示した条件は、現役で入学できれば認めるが、浪人は認めないというもの。世間体を気にする両親は、私に浪人ということを許さなかった。
最初は反論しようかとも思ったが、それをすれば自分の自信を、今まで積み上げてきたものを否定することになるような気がして、私はその条件を飲みこんだ。保険として美術系ではないところも受験できるように勉強するという条件付きの元、私は高校三年生を過ごした。
結果は不合格。その三文字を見たとき、私は自分自身が殺されたような気がした。そうして私は、保険でしていた勉強を活かして、そこそこの大学に入学することになる。
それを見て両親は喜んだ。私が殺されたのを尻目に喜んでいる姿を見て、顎が砕けるほど歯を食いしばった。今でもその感覚を思い出すことが出来る。
「実りがある人生になりますように」
私の実乃莉という名前に込めた“実り”とは、一体誰にとっての実りなのだろうか。少なくとも、私自身の実りではないのだろう。
5
気が付いたら、公園は夕暮れ色に染まっていた。夕方五時を告げるチャイムで、現実に引き戻される。隣にいるミミはすっかりと眠り込んでいて、男の子は相変わらずカメラで風景を撮ったりミミを撮ったりしている。
「もう夕方だけど、ぼくくんは時間大丈夫?」
立ち上がって気づいたが、ベンチに長いこと座っていたせいで尻が少し痛む。リュックを背負って、カメラに吸い込まれるようにファインダーを覗き込んでいる男の子に声を掛けた。
「あ、もうこんな時間」
ようやく夕方五時のチャイムが鳴っていることに気が付いたのだろう。男の子はカメラから目を離して、少し寂しげな顔をした。
「こうして写真撮ってると、なんか全部大事なものな気がしてくるね」
「私の知り合いも似たようなこと言ってた」
頭に、大学時代の同級生が浮かぶ。いつも私の上をいった彼。男の子からカメラを受取りながら、また過去を振り返ってる自分に気が付いた。そして、自分が忘れかけていた何か大切なことも思い出しかけている。
「カメラ楽しいね、ありがと!」
男の子は手を振りながら走っていく。こちらこそありがと、と小さく呟いて、離れていく男の子の背中に手を振った。
すると、突然彼は立ち止まって、
「またね!」
と。
なんとなく、また会えるような気がして、私も
「またね」
と返した。後姿を見送りながら、そういえば、名前を聞くのを忘れていたな、と思った。




