序 崖
「捕らえろ!」
「急げッ」
数人の黒装束をまとった男たちが刃物を手に追いかけてくる。母は幼い息子の手を引き、空いた手に小刀を握り締め、彼らからなんとか逃げ延びようと必死だった。
着物の裾を捲り上げ、木々の根に足をとられながらも走り続けた。
この数日間食べ物などを探す余裕がなかった親子に走り続けるほどの力は無く、呼吸の乱れが大きくなり、身体をめぐる血は熱く重くなった。
そして素早い足音、追っ手の声が迫るにつれ恐怖がこみ上げ、叫びだしそうになった。
「かあちゃん…ッ」
「静かにしろ…!」
丈のある草が一面に生えた茂みに分け入り、身を縮めた。
風の音ひとつしない。
そのなかにあのものたちの足音だけがはっきりとしている。
幼子が迫り来る恐怖に身体を萎縮させたまま見上げた空はただ、青く美しかった。
「捜せ!はやくしろ」
しばらく聞こえなかった人の声が思っていた以上に近くで、親子はきつく抱きしめあった。
そして母は「茂み」が隠れやすい場所であると同時に隠れていると見破りやすい場所でもあると気付き脅えきってとても考えがまわらなかった自らの浅はかさを呪った。
いっそう小さく身を縮める。
近づく人の気配、足音。
すぐそばに、居る。
母はにぎりしめた小刀を見下ろした。
――ここに居ては、殺される…。
そっとわが子のからだに絡めた腕を解く。
子供は不安そうに、しかし声は出さずに母を見上げた。
――それなら
大きく息を吸う。
小刀を握った腕を大きく振りかぶりつつ黒装束の男の前に飛び出した。
男はさっと身を翻し、母の身体はその勢いのまま草むらに倒れこむ。
母ではなく、子と、男の眼が合う。
子の脅えた眼と。
男の感情のない暗い眼と。
子が瞬きをした。
男は子から眼を離した。
子がもう一度地に倒れた母を見る。
その瞬きの間に母の背には鋭い刀が突き立てられていた。
「あ…っ」
どくどくと流れ出る血。
動かない母の身体。
とっさに転がるようにしてその場から逃げ出した。
背丈よりもずっと高い草を掻き分けて。
頭の中で母が男に飛び掛ってから倒れるまでの映像が繰り返し再生される。鮮明に。血の赤も。着物の色も。男の眼も。
男たちが大またに迫ってくる。
自分も母のように殺されてしまう。
不意に視界が開けた。
「…ッ」
深い崖だった。数歩進めば落ちてしまう。
わかりながらも何故か足はとまらない。
「待て、ガキ……!」
視界が反転する。
空はやはり青かった。