第八話 『家庭科』
思っていたよりも長い階段を駆け上がり、二階に到着した六花とハル。
「……ふむ。やはり、これも見た目より遥かに長いんだろうな」
目の前に伸びる、一階と同じような廊下を見ながらハルは呟いた。
『勿論です! テスト中の生徒にとって、学校の廊下というのは無限にも等しい長さに感じられるものなのですから! さあさあぼーっとしてる暇はありませんよ、さっさと第二問に取り掛かりましょう! それでは後ろを御覧ください!』
嬉しそうな声の言う通り二人が振り向くと、廊下の突き当りにある扉がすっとスライドして開いた。
「今回のテスト会場はここなのね! よーし行くわよハルちゃん、あたし達が力を合わせればどんな試練だって敵じゃないわ!」
ハルの肩からぴょんと飛び降り、開いた扉を袖で指す六花。
『ええ、あなた達の結束力が存分に発揮されることを期待しています。今回の問題は……そうですね、説明するよりも直接見たほうが早いでしょう』
エルマはそこで一旦言葉を切る。続きは部屋に入ってから、という事らしい。
「望むところだ。行こうか、六花」
「きゃーハルちゃんったら頼もしい! うん、行こう行こう!」
二人は手を繋ぎ、仲良く部屋に入っていった。
扉の上に設置された枠の中、部屋――教室の名前が記されたプレートは、朽ちており最早原型を留めては居なかった。
部屋の中に入ったハルの耳に、嬉しそうなエルマの声が響いてくる。
保健室よりも二回りほど広い空間に、大きな低い銀色の机が六つほど並んでいる部屋だ。最奥には黒板も設置されており授業に使う部屋ではあるようだが、部屋の外縁に並ぶ機器からは実験用にしては妙に生活感が感じられる。
『はい、もう気付いていますよね? 宣言するまでもなく既に試験は開始しています。今回の問題はとくに捻りはありませんから、素直にがんばってくださいね。そうそう、私は優しいので先に言ってしまうとその部屋にはヒントは沢山ありますが危険はないですし、制限時間もありません』
今回の問題の説明のようだが、その内容はハルの耳には届いていても、頭には入ってきていなかった。
目は開いているが、周りの光景も見えていない。周りの機器はいわゆる調理器具――といっても古代の機器なのでハルが見てもそうと理解できるわけではないのだが。それらに対する感想も、見ていないので当然沸いてこない。
『それでは、第二問です。あなたの愛しの六花ちゃん、頑張って探してください』
「六花……?」
繋いでいたはずの手、六花の左手を確かに掴んでいたはずの右手が、いつの間にか空を切っている。
「六花、どこ? ……どこ!?」
先程までの落ち着いた態度はどこへやら、六花を探してきょろきょろと辺りを見回すハル。
精悍だった表情も完全に崩れ落ち、飼い主を見失った子犬のように怯えた目をしている。
『それを見つけるのが今回の問題ですよ……って、あらあら』
「う、うう……」
がくりと膝をつき、焦点の合っていない目でハルは呆然と眼前の虚空を見つめる。
両手で顔を覆い、手の隙間からはぼろぼろと涙が溢れ出る。
「うぐ、りっが、わた、わだし……。なんで、どこ、こわい、よ」
『う、うーん。困りましたね……多少は驚くとは思いましたが、そこまでとは流石に想定外です。……私の声、聞こえてますか?』
あまりの豹変ぶりに、少々声のトーンを落とすエルマ。声をかけるも反応は無く、とても聞こえているようには見えない。
「ひっ、えぐ……りっが、だずげで……」
泣き止む気配もなく涙を流し続ける六花。涙を拭う手の隙間から見える顔はぐしゃぐしゃで、言葉を喋れない赤ん坊でもしないほどの酷い顔だった。
目の周りも真っ赤に泣き腫らし、綺麗な顔が台無しになっている。
「どこ……りっか、りっが、あぐ、ひっぐ、なんで」
視界に入っていなくても、どんなに離れていてもどこに居るかわかるはずなのに。今まではわかっていたのに。
六花がどこにいるのか、全くわからない。近いのか遠いのかすら。壁で塞がれようと遠く離れた場所にいようとわかるはずの彼女の居場所が、感じられない。
繋がりが途切れていないから、少なくとも生きてはいる、死んではいない。それだけはわかるけれど、それ以上は何もわからない。
「うええ……りっかぁ……」
子供のようにうずくまり背中を震わせるハル。
『やっぱり聞こえてないみたいですね……ちょっと可哀想ですが、これも試練です。小さな子供が自立して、一人で生きていけるように教育するのが学校というもので』
エルマの少し悲しそうな、しかし後ろめたさは一切感じさせない声を遮り、
「うるさい! 死ね!!」
六花の叫び声がどこからともなく響き渡る。
同時に、周りの風景が文字通り音を立てて崩れた。
『……あら?』
声色こそ普段通りの軽いものだが、何の感情もこもっていない声を漏らすエルマ。
がらがらと崩れた風景は床に当たると同時に消え去り、塗り替えられていく。
最後の一欠片が砕け散り風景の変容が収まると、そこには――
「ごめんね、おまたせハルちゃん」
六花が、泣きじゃくるハルを抱き締めていた。
先程までと同じ部屋ではあるが、辺り一面に銀が撒き散らされている。最早ハルには何があったかを知るすべはないが、相当に暴れてきたのであろう。
「え、あ、り、りっか……。うええええん! りっか! 六花ああああああ!」
「よしよし、怖かったね。一人で我慢できて偉かったね」
「うぐっ、うっ、わだし、六花がいなくて、わたし」
「大丈夫、あたしはここに居るからねー」
安心して更に泣き出すハルの頭を抱え、優しく何度も撫でる六花。
そのまま上を向き、きっと天井を睨みつける。
『困りますね、あなたにはじっとしていて貰わないと。他人の成長を見守るのもあなたの成長のために役立つんですよ? 流石の私もこれは許せません、減点です』
悪びれもせず六花を糾弾するエルマ。いつもの嬉しそうな声ではなく、その声には純粋な怒りが込められていた。
「もーいいや、付き合って上げるつもりだったけどハルちゃんを苛めるなら許さない! このダンジョンごとぐちゃぐちゃにしてやるー!」
天井に向かって怒鳴りつける六花。
『苛めるだなんて心外です。いじめは許されるものではありません。私がしているのは教育です。……こんな言い方をすると私が悪者のようですが、古い諺に“可愛い子には旅をさせよ”というものがあります。生徒たちを愛しているからこそ独り立ちの手段を教えるため厳しい状況に追い込んでいるのであって』
「うるさい、ハルちゃんにはあたしがいるの。一人で生きていく必要なんてないんだから」
エルマの声を遮って言い返す六花。
『そうは言ってもいつかは一人になります。誰だって永遠に生きていられるわけではないんですから、いつかはその日が来るのです。一人で生きていかなければならなくなる日が』
「そんな日は来ない。あたしが来させない。あたしとハルちゃんは永遠に一緒なんだから。……“流れる銀よ、我が手に集え”」
六花はそう言うと、右手でハルの頭を撫でながら左手を地面に向ける。すると飛び散った銀が彼女の元に集まり、一塊となってその左袖へと吸い込まれていった。そのまま左手を挙げ、袖から出した手を天井に向けると、
「“溢れる銀よ、我が意に随え”」
左の手の平から銀色の液体が溢れ出し、円錐を形作って天井に襲いかかる。
『あら、だめですよそんな乱暴な。校舎を壊すなんて、そういうの不良っていうんですよ! それに木製と言ってもこれはダンジョンです。そう簡単に壊せると思っているのですか?』
「……ふーん、自称先生の癖に知らないんだ」
白衣と銀でハルを包み込み、六花は呆れたように吐き捨てる。
「木よりもね、金属のほうが丈夫なんだよ?」
轟音を響かせ、天井が砕ける。銀のドリルに引っ張られる形で、六花とハルも天井を貫く。
『……っ! ええ、たしかに脆いのは木造建築の欠点の一つです。ですがそれも見方を変えれば利点になり得るのですよ』
言うが早いか、先程貫いた天井――現在二人の立っている後ろの床が、みるみるうちに塞がっていく。
『硬い素材はたしかに頑丈ですが、壊れればそれまでです。しかし木造建築なら簡単に修復できるのですよ! もちろんこれは副次的な効果であって、本来この建物が木造建築なのは生徒たちの心身の健全な成長を促すためです。人間は本能的に木に囲まれると安心感を得るように出来てお』
「なるほどー。じゃあ」
突然得意気に語りだしたエルマの言葉を遮り無邪気に笑うと、
「いくら壊してもいいんだよね! まずはあなたを殺して、完膚なきまでにぐちゃぐちゃにして! それからこのダンジョンも修復が追いつかないくらい粉々にしちゃうから!」
『そんな馬鹿な事が……』
出来るわけがない、と一蹴しようとしたが。彼女は現にこのダンジョンの天井を簡単に壊したし、試験のために隔離した空間すらすぐに破ってみせた。このまま放置すればどうなるかわからない。
『く……っ! そうですか、わかりました。人を見る目はあるつもりでしたが、長いブランクで私の目も曇っていたようです。あなた達はやはり我が学舎の生徒には相応しくない。散々甘やかしてきたのに何を、と言われるでしょうが――』
エルマが、このダンジョンの主が。
まるで今までの言い分は筋が通っていたと言わんばかりに。
破綻した、明らかに壊れた理論を振りかざして二人のハッカーへと宣言する。
『――退学処分です』
そもそも二人は生徒になどなっていないというのに。
『ですが、あなた達のような不良生徒を外に出すわけには行きません。それはこの学校が世間に迷惑をかけることになります』
彼女の言う世間など、とうに存在しないというのに。
それを理解できていない筈など無いというのに。
『入学試験は失格ですが、私のところへ来なさい。せめて責任は自分で取りましょう。私が手ずから、あなた達を処分します』
まるで義務のような言い方ではあったが、それは明らかに。
侵入者に対する、ダンジョンの主としての宣戦布告だった。
「うん、いいよ! まずはあなたをぐちゃぐちゃにしてあげる」
その申し出を快諾する六花。
『よろしい、では――こちらへどうぞ』
その言葉と同時に、二人の姿は教室から掻き消えた。
後には、銀の一滴すら残らなかった。
降り注ぐ人工的な光の中。
目の前に二人が現れるのを確認し、正装の女教師は口を開く。
「では、お仕置きの時間です。最早更生は期待していませんが、模範的態度を取るならせめて楽に殺してあげましょう」
初めて聞いた、機械越しではない生の声。込められた感情も読み取りやすいはずの、ノイズが排されたクリアな音声。
ただ、そこには最早嬉しさも怒りも込められているようには感じられず。
その声は。
恐ろしいほどに、気が狂いそうになるほどに――ただ、美しかった。