第三話 『氷と雪の竜』
ちょっとかわいそうなシーンがあります
それは、辿れる記憶の果て。
生まれてすぐ両親を亡くし、孤児院で暮らしていた私は。
おそらく、その時初めて自我というものを獲得したのだろう。
五歳の誕生日を迎え呼び出された私は、教会のシスターからそれを受け取った。
お母さんの形見だと言われて渡された金属製の大きな腕はずっしりと重く、幼い私は両手で抱えるのがやっとだった。それは『ギア』というもので、自分の腕をはめて使うのだが私にはまだ大きすぎるらしい。
そのシスターから、お母さんの話を沢山聞いた。
三枚羽の頃、探索し尽くされたと思われていたダンジョンでこのギアを見つけたということ。
そのギアと共にハッカーとしての経験を積み、最終的には五枚羽にまでなったということ。
本来ハッカーは同じダンジョンに何度も潜り少しづつ奥に進んでいくものなのだが、お母さんは一箇所に二度以上潜ることはほとんど無く色々なダンジョンに潜っていたということ。
私がダンジョンについて聞こうとすると、シスターは笑いながら一冊の分厚い本を差し出した。
これはなんですか、と私は聞いた。
シスター曰く、これはお母さんの書いた日記なのだと。
孤児院の宿舎へ帰り、私は渡された本を開いてみた。
お母さんはどんな人だったのだろう?
優しい人だったのだろうか。きれいな人だったのだろうか。
強い人だったのだろうか。いい人だったのだろうか。
まだ見ぬ母親の事を想い、小さな手には少々大きすぎる本を開く。
そこに広がっていたのは、想像だにしない不思議な世界だった。
古代の機械がひしめく謎の建造物。
美しい花々が咲き誇る可憐な花園。
身の毛もよだつ悍ましい蟲達の巣窟。
この世のものとは思えない風景の数々が、確かな実感を持って記されていた。
街の外に出たことのない私は、飽きること無くそれを読み続けた。何年にも渡って積み重なってきた記述は膨大だったが、十や二十ではきかないほどの回数読み直した。
その内容自体も興味を引くものではあったのだけれど、本当に私が心を奪われたのはその文章そのものだった。様々な風景への感想は本当に生き生きとしていて、目を輝かせてはしゃいでいるお母さんの姿が目に浮かぶようで――。
何度も、それこそ殆どの内容を諳んじられるほど何度も読んで。読むだけでは満足できず、いつか自分でも見てみたいと思うようになった。お母さんのようになりたいと、お母さんと同じ世界を見たいという思いはどんどん強くなっていった。
十二歳の誕生日を迎えた私は、喜び勇んでハッカー登録を済ませるとその足でダンジョンに向かった。この日のために訓練はしてきたし、お母さんのギアもある。準備は万端だ。
初めて見るダンジョン、スノーホワイト山の大遺跡――通称、雪山ダンジョン。一面の銀世界は私の心を掴んで離さなかったし、身を刺すような寒さすら新鮮だった。ここから私の冒険が始まるのだと期待に目を輝かせ、目の前のダンジョンへと一歩を踏み出した。
結論から言うと、甘かった。十分に警戒も準備もしたつもりだったのだけど、それでも尚足りていなかった。思い出したくもないしよく覚えてもいないのだが、教会の医務室のベッドで目を覚ました時に感じた全身の痛みだけは覚えている。
不思議と、あまり悔しくはなかった。それよりもただ嬉しかった。ようやくお母さんと同じハッカーになれたのだと、これからの冒険の事を考えると胸が躍った。
それから、私はさらにハッカーとして経験を積んだ。その過程で様々なダンジョンに潜り、その光景も目を引くものではあったのだけど。二枚羽の身では潜れる所は限られていて、既に誰かが踏破したダンジョンばかりなのもあってその殆どは似たような屋内の風景だった。
数日で二枚羽にはなったものの、それから二年間も羽の枚数は変わらず。羽なんてそう簡単に増えるものでもないこともわかっていたのだけど、お母さんと同じ風景を見たいという想いはどんどん募っていった。
難しいダンジョンで経験を積めば早く羽を増やせるかもしれない。そう思いついた私は、孤児院時代からの知り合いであるエリックに声をかけた。二枚羽の私では入れるダンジョンが限られているけど、より多くの羽を持つ人間――それこそ五枚羽と一緒なら、たいていのダンジョンには入れるだろう。
もちろん若くして五枚羽になった彼は暇ではないし、かなり難色を示された。自分がついていても危険なものは危険なのだから無理をしないほうがいい、自分のペースでゆっくり進めばいいなどと言ってきた。正論だと思うし、事実彼ですら私と同年齢、一四歳の頃にはようやく三枚羽になったという所だったのだ。
だが、だからといって断られても困る。彼の優しさに付け込む形ではあるが、他の適当なハッカーに頼むか最悪一人で無理やり潜る(禁止はされているが罰則があるわけではなく、教会の助けを得られないというだけなのだ)と言うと案の定受け入れてくれた。
私がハッカーになってから最初に潜った雪山ダンジョン。お母さんが最後に潜ったダンジョンもここだったという。自分で調べたところその奥にある廃墟部分なら鍛えるにもちょうどいいし、エリックが付いていればまあ死ぬことはないだろうと当たりをつけていた。エリックも運悪く竜が出てきたりしない限り大丈夫だと言っていて、その時は縁起でもないと笑い飛ばして――
「う、ぐ……」
――どれくらいの間、気を失っていたのだろうか。
レーヴェは、全身の痛みに目を覚ました。木の下で仰向けになっており、どうやらこの木に叩きつけられて止まったらしい。意識を取り戻すと同時に、スリープ状態だったギアが再び起動する。少し引っかかるような音がしたが、さすがは古代技術の結晶。壊れてはいないようだ。だが――
「ここ、は……? ぎ、ああああっ!?」
立ち上がろうと左腕を地面に付けた瞬間、予想だにしない激痛に再度転がるレーヴェ。ギアの魔術のせいで動く――無理やり『動いてしまう』のだが。身体強化の魔術があったとは言え、人間の身体はギアのように頑丈ではない。溢れ出る涙でぼやける目を向けてみれば、その左腕は惨憺たる有様だった。程よく鍛えられながらもほっそりと綺麗だった腕はどこが肘だったかよくわからないほどいびつに折れ曲がり、所々肉が裂けて白い骨まで顔を覗かせていた。白魚のようだった指もそれぞれがあらぬ方向に捻じ曲がり、真っ赤に腫れ上がっている。小指に至っては第二関節から先が千切れて不自然なほど短くなっていた。
「ぐ……っ、げほっ、うう……」
左腕を庇いながら立ち上がるレーヴェ。咳と共に吐いた血の量はびちゃっと音がするほどで、どうやら内臓も無事ではないらしい。少し衝撃が伝わるだけでも尋常でないほど痛み、涙と共に先ほどよりはすいぶん控えめな悲鳴が漏れる。
幸いというべきか奇跡というべきか、左腕以外の四肢は左足が一箇所折れている以外は無事だった。片足を引きずりながらとは言え歩けるし、右腕が動く以上ギアは振るえる。肋骨は多分折れているしお腹もずきずきと痛むが、それは生きて帰れさえすれば多分なんとかなるだろう。
とはいえ帰ろうにも方角がわからないし、何より。
「エリックと……合流、しなきゃ……」
まずは同行者を見つけるのが先決だった。レーヴェが生き残っている以上彼が生きている可能性はあるし、とはいえ向こうも無事ではないだろう。見捨てられないというのもあるが、それ以上に一度合流して二人で帰ったほうが生存率は高いという判断だ。
木々に覆われ太陽の方向すらわからなかったが、雪上を滑った跡から自分がどちらから飛ばされてきたのかは推測できた。所々木も折れているし、間違いないだろう。
左腕をだらんとたらし、左足を引きずりながら進んでいく。
雪は少しづつ強まっていたが、吹雪に視界を塞がれる前に木々の切れ目を確認することができた。
聞こえて来るようになった物音は戦闘音のようで、恐らくエリックが竜と戦っているのだろう。
早く戻らなければ。相手は竜だ、いつ手遅れになってもおかしくない。
「待って、なさいよ……!」
片足を引きずる不自然なフォームだが、レーヴェは光の指す方に向かって走り出した。
「エリック! 助けに来た……わ、よ……」
森を抜けたレーヴェの前、開けた視界に広がる光景は、壮絶な死闘の跡だった。
地面は積もった雪ごと何箇所もそれぞれ半径十メートル以上の規模で抉れ、溶けた雪と土が混じって泥だらけになった剥き出しの地表には長く鋭い斬撃の跡まで走っていた。
右側の木々は軒並み焼け焦げ炭化し、未だ残る熱が雪を拒み降り積もった端から蒸発させていく。
この氷と雪の竜は炎も吐かないし、そこまで鋭利な爪も持っていない――つまり、この光景の大半はエリックが作り出したものということだった。
よく見れば力任せに数本纏めてへし折られたり、炭化した後で凍りついたりしたような木々も見られる。こちらは恐らく竜の仕業だろう。
そして、当人たち――エリックと竜も未だそこに残っていた。大剣型のギアを構えて竜を見据えるハッカーと、微動だにせず疲労困憊の人間を見つめる青い竜。満身創痍といえる状態のエリックに対し、竜の方に消耗は見られない。鱗の表面は所々傷付いているようだが、本体にダメージがあるようには見えない。辺りの惨状を考慮すると、信じられないほどの頑丈さだった。
レーヴェの声を聞き、エリックが驚きと焦りが入り混じった表情でこちらに目を向ける。
「レーヴェ!? てめえなんでこっちに来やがった! さっさと逃げろ!」
思わず一瞬視線を向けた程度だったが、この場においてその隙は命取りとなる。
彼の意識がレーヴェに向いた瞬間、隙有りとばかりに竜が前足を上げる。
「しまっ――」
その場を離れようとするも一瞬間に合わず、圧倒的な質量に押し潰されるエリック。一匹の人間は巨大な龍に対して余りにも無力で、竜の足裏はその勢いを減ずることすら無く地面に到達する。周囲一帯が大きく揺れると同時に、辺りには雪煙が立ち込めた。
「エ、エリック……そんな……」
呆然と立ち尽くすレーヴェ。
おもむろに青い竜が振り向き、レーヴェは今度こそ恐怖に身体を竦ませた。こちらを見つめる目にはやはり何の感情も宿っていない。
竜の背後に目を向ければ、足跡の形に凹んだ地面にエリックが半ば埋まるように倒れている。彼の全身は真っ赤に染まり、手足は何本か不自然な方向に曲がっている。さらに悪いことにギアも真っ二つに折れている。意識を取り戻しても継戦は無理だろうし、そもそも歩けるかどうかすら怪しいだろう。
完全に狙いをこちらに移し、竜がゆっくりとこちらへ歩いてくる。地響きが身体を震わせ、呆けかけていたレーヴェは正気を取り戻した。
こんなところで死ぬわけにはいかない。世界中のダンジョン――お母さんが見てきた絶景を、私はまだぜんぜん見ていない! エリックだってあの程度で死ぬはずはないが、放っておけば確実に助からないだろう。ならば。
――私が、あの竜をどうにかしないといけない。
レーヴェはきっと正面の竜を睨みつけ、拳を腰まで引き下げる。青い竜は特に反応せず、しかし歩みを止めることもなくただ淡々と距離を詰め続ける。今まで通り前足で殴りかかってくるなら、もうすぐ射程範囲内というところか。
「G.A.S、起動――」
ギアの魔力がレーヴェの身体を満たし、強制的に構えを取らせた。折れた左脚に体重がかかり、歪な左腕が無理やり曲がる。耐え難い痛みに彼女の目から涙が溢れるが、見えてさえいれば、否、意識さえあれば問題はない。あと十数秒、持てばいいのだ。
「“壊拳・フィニッシュブロウ”! はああああああああああああああああッ!!」
レーヴェが叫ぶと、右腕のギアが一際大きく光り出す。そのまま青い竜の方へ跳躍する。
あいつの攻撃を避ける余力はない。体力や傷の具合を考えると長期戦も望めない。ならば。
一撃で決めるしかない。
今の私の最強の攻撃手段に、魔力も限界まで込める。
これで倒せるとは思えないけど、それ以上の手が無いのも確かだ。
せめて暫く動きを止めることだけでも出来れば、その隙にエリックを連れて逃げられるかもしれない――!
「ああああああああああああああああ!」
黄色い光を纏い、青い竜へ突っ込んでいくレーヴェ。
だが。
「あ――っ!?」
竜の頭部を狙った渾身の一撃は狙い通りに命中し――あっけなく鱗に弾かれた。青い竜は、防御行動すら取らなかった。
レーヴェは、竜という生物を完全に舐めすぎていた。
「う、そ……」
空中でギアのアシストが切れ、動きを停止するレーヴェ。
竜は無造作に頭を降り、彼女はまるで羽虫のように叩き落とされた。
「――がっ! げほっ、げえっ!」
木に引っかかって勢いはかなり相殺されていたが、そもそもが無事ではないのだ。背中から叩きつけられたレーヴェは血混じりの吐瀉物を撒き散らす。血混じりとは言ったものの見た目は真っ赤で、腹の中がどうなっているかは想像したくもない有様だ。
息をするだけでも全身が痛む。急速に体温が下がり、意識すら朦朧として
やっぱり、駄目なの……?
先ほどまでの気概すら何処かへ消え、光の消えた目で空を見上げる。
吹雪の中、足音が少しづつ近づいてくる。
やっぱり甘かったのだ。
二枚羽の分際で不相応な場所に来るべきではなかったのだ。
しかも、私だけならまだしもエリックまで道連れにしてしまった。
こんなことなら――
……。 …………、……!
これ、は――?
血と涙で顔を濡らし、絶望と後悔に苛まれるレーヴェの頭の中に、何かが響いた気がした。
吹きすさぶ風の音と断続的な足音しか聞こえない筈なのに、確かに何かの言葉が頭に浮かんでくる。
それは、このギアを初めて付けた時のような感覚で。
私はどこか、懐かしさのようなものを感じながら。
その言葉を口に出した。
「G.A.S解放――“竜殺拳・レグルス”」
その瞬間、レーヴェの身体を先ほどとは比べ物にならない程の光が包む。
感覚すら失った身体がひとりでに動き出し、再び青い竜へと突貫する。
竜は先ほどと同じく防御行動すら――いや、今度は動いた。右の前脚を上げ、レーヴェをはたき落とそうとする。飛びかかってくる人間を、脅威だと認識したのだ!
質量からは考えられない速さで襲いかかって来る前脚にレーヴェが裏拳を合わせると、前脚が吹き飛んだ。人間でいう手首から先が、丸ごと爆散した。
少女は虚ろな目でその光景を一瞥するとそのまま空中を蹴り、竜の眼前で拳を構える。
青い竜は自分の前脚が吹き飛んだにも関わらず冷静にレーヴェを見据え口を開くと、絶対零度とも言われるその息を浴びせようとする。
そこに横から何かが飛来し、竜の目に刺さった。レーヴェから目を離す事はなかったが、その動きをほんの僅か、一瞬だけ遅らせる。
それは、大剣型ギアの折れた刀身だった。
「レーヴェ……助けに来てやった、ぜ……」
持ち手部分だけになったギアを握りしめたまま呟くと、そのまま崩れ落ちるエリック。
命懸けの行動で生まれた隙はごく僅かなものだったが。
この場面において、一瞬の隙は命取りとなるのだ。
青い竜が息を吐く前に、レーヴェの虹色に輝く拳がその頭部に届く。
私が最後に見たのは、光に包まれる自分の拳と。
真っ直ぐに私を見つめる、驚くほど澄んだ大きな瞳だった。