疑心暗鬼のシンデレラ
──シンデレラは王子様と共に、末永く幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでた……
「くない!」
手に持っていたカラフルな絵本を放り投げ、大声で喚いたのは、五歳のわたしだった。
どうしたの、と訝しげにわたしを見る母に、投げ捨てたばかりの絵本を指差し、記憶の中のわたしは騒ぐ。
「末永く幸せ!? そんなことあるわけないじゃない! ハッピーエンドには続きがあるのよ」
そう叫んだときに見た、母の心底呆れ果てていただろう顔は忘れられない。少し目を見開き、口元は苦笑を浮かべていた。それから、優しい声でこう告げたのだ。
「それは、この間のドラマの台詞ね。記憶力がいいのね。さあ、ご飯にしますよ」
母には、それはそれはあっさりと流されてしまったが、果たしてドラマの影響を深く受けてなのか否か、その思想はわたしの心に深く根付くこととなったのだった。
「聞いてよ、恭子! わたしついに晴樹君と付き合うことになったの! ようやくハッピーエンドだわ!」
「美智、落ち着いて聞いて。ハッピーエンドなんてこの世に存在しないわ。両想いで付き合ったって、あとは嫌いになって別れるしかないでしょ? そんなのハッピーじゃないわ」
紅潮させた頬に、きらきらと輝く瞳。それらをまっすぐに受け止めながら、真顔で冷たく切り返したのが今のわたし。
美智は一瞬、ひどく傷ついたような瞳でわたしを見たが、すぐにその丸い目を吊り上げた。
「また始まった! そのネガティブ思考を何とかしなさいよ、恭子! 友達が一番幸せな時にテンション下がるようなことを言うなっ」
朝のホームルーム前の騒がしさの中でも、高めの美智の声はよく響く。周りの生徒がちらちらとこちらに視線を向けるのが分かった。誰かこのコの目を覚ましてあげてよ。ハッピーエンドなんて幻想なんだから。
「恭子! あんたってやつはまた人の話を聞いてないでしょ! 今日こそそのネガティブを何とかしてやるわ」
セーラー服の袖をまくり上げながら、美智は相変わらず目を吊り上げてこちらを見ている。色白の丸っこい顔に柔らかそうな栗色の毛。せっかく可愛らしい容姿をしているのに、眉を吊り上げて怒ってなんかいたら台無しだわ。
「ちょっと、恭子!」
「分かった、分かった。オシアワセニネ」
「何よ、その棒読みは! 恭子、私はあんたの為を思って──」
投げやりな言葉に子犬みたいに噛みついてくる。かわいいなぁ、と思いながら机に伏せていた文庫本を手にとった。ゆっくりと表紙を開き、ぱらぱらとページをめくる。どこまで読んだんだったかな……。
「……恭子さん? 人が大事な話をしている時に何で本を読みだすかな? しかも……何それ。『血塗れの迷宮』? またサスペンスなの」
真っ黒の背景に点々と散る赤い花。そこに深紅で、いわゆる血が流れた跡のような文字で書かれたタイトルを、美智は顔をしかめてたどったようだった。わたしは適当に頷きながらページをめくる。ちょうど今殺人事件が起きたところなのだ。
「あのねぇ、なんで花の女子高生がそんなものを、こんな真夏の天気よい気持ちいいー朝から読んでるわけ? 具合悪くならないの?」
「ならないわよ、心外ね。だいたい気持ち悪いのはベタベタとしたハッピーエンドの恋愛小説よ。物語は完結かもしれないけど、続きはあるのよ? 永遠の愛〜とかさむいだけじゃない。いつかは気持ちなんて冷めるんだから」
しゃべりながらもページを次々にめくる。美智とのこんなやり取りはここのところずっとだ。高校二年生の夏休み過ぎ、何となく気持ちが盛り上がってるのかな、とは思う。その上、わたしが一切恋愛とかいうものから遠ざかっているのが気に入らないらしい。恋バナってやつがしたいのかな、とも思うけれども……あいにくわたしはそんなものに興味はない。
美智には悪いけど……って……あら、主人公が殺された。予想外だわ、こんな展開。
「恭子ぉ〜、何でそんなひねくれた子になっちゃったのよぉ。黙ってればフツーに可愛いし、性格が悪いってわけでもないのにさ、何でハッピーエンドだけをそんなに敵視してるの?」
「敵視っていうか……」
物語が面白い展開を迎えてきたし、またいつものようなやり取りを繰り返すのが面倒になってきてしまった。どうやって話を終わらせようかな──そう考えていたときだった。
「着席ー」
左手に生徒名簿を抱えた担任が教室に入ってきた。今日の担任の服装は真っ黒なジャージの上下で、首から黄色いホイッスルを下げた姿はいかにも体育教師という風貌だ。短い黒の短髪の下で、少年のような目をきらきらとさせて教壇に立つ。一昨年教師になったばかりという我等が担任は、まるで美智のように純粋な瞳を持った人だった。
「ちぇ。むらやん来ちゃったじゃん。恭子、今の話あとでまたするからね!」
村田先生をむらやん、と呼ぶ美智は私にびしっと人差し指を突きつけたあと、自分の席へと戻って行った。人のことを指差しちゃだめって言い損ねちゃったじゃない。そう頭の片隅で思いながらも、わたしの脳の大部分は先の読めない小説の展開に追いつくのに尽力していた。
だから──そう、だから、突然沸き立った教室の雰囲気にひどく驚いたのだ。
周りの女子たちが黄色い声を上げ、突如ざわめきたった教室。手元の本から視線を上げて辺りを見渡せば、ぎらりと光る金色が目に飛び込んできた。
「静かに、静かに! もう……こうなるとは思ってたけどな、俺も。転校生だぞ、お前ら。仲好くしろよー」
はつらつとした声で話す担任の横に、黒板を背にしてまっすぐに立つ人影。学生服の黒いズボンに、目に痛いほど真っ白のワイシャツ。本から上げた視線をそのまま上にたどっていけば、金色の下で輝く、透き通った碧に出会った。
「クリストファー王子!!!」
その瞬間に叫んでしまったのは、ほとんど無意識だったのだ。
見切り発車いたします。先の分からない作品ですが、お付き合い頂けたら嬉しいです。