2 魔王エルフリーデ・ゼッツァ
日差しがあたたかい。
さっきまで夕暮れだったのになぁ……。
ボケーっと座り込んだまま、どれくらい経っただろう。
おれは訳も分からずゴミみたいに吸い込まれたあと、特に気絶したりもせずに見知らぬ大地へ投げ出されていた。
気持ちよい風が吹き渡る湖畔だった。
湖は端が見えないほど広い。最初は海かと思ったほどだ。でも淡水と判断したのは、風に潮の香りがないことと、水際まで下草が生えていること。塩分が含まれていないことを示している。
そんな大きな湖、うちの県にはない。日本一でかいため池ならあるけど、それにしたってこんなに大きくないし、第一コンクリで固められている。
ここは自然そのままって感じだ。
時空のはざまに飲み込まれて、外国へ飛ばされたんだろうか。
ま、とにかく……。
このままいつまでも座り込んでいるわけにもいかない。
水際まで歩いて行ってみることにした。
最初は、きらきらとした水面に目を奪われた。
水がきれいだ。こんな青々とした渓流のような湖は見たことがない。いかに日本が汚れているか、思い知らされる気分だ。
でもすぐにどうでもよくなった。
光の反射の下に――いる。
このシルエット、魚だ。
しかも何匹も……。
うじゃうじゃいる!
「なんて魚影の濃さだ!」
アドレナリンがほとばしった。
急いで、しかし足音は立てないように落ちてきた場所へ戻る。
釣り道具たちは全部そろっていた。
釣り竿、ルアーケース、小物道具の入ったウエストポーチ、伸縮式のタモ。
身に着けるものは身に着けて、2ピースのルアーロッドを組み立てる。糸は通したままだ。あとはルアーをつけるだけ。
そのルアー。
なにを選択するか……。
再び水辺へ行き、観察する。
光の反射が激しくて、シルエットしか見えない。だが大きさはわかった。アユ、アマゴくらいのサイズだ。口が小さいかもしれない。
淡水の経験はほとんどないけど、スプーンと言うルアーでよく釣れるのは知っている。残念ながらその手のルアーは買ったことがなかった。ならば小さいワーム(*1)で勝負だ。
入れっぱなしにしているアジ釣り用のケースから、ジグヘッド(*2)の3グラムとワームを取り出す。
ジグヘッドの針にワームを通して、ヘッド部分を釣り糸に結ぶ。
今日はシーバス狙いだったから、こんなに軽い仕掛けを操るには不向きな竿だけど、なんとかやれるだろう。
うまい具合に、風の向きも湖畔へ吹き降ろすものに変わった。
天が味方している。
「いくぞ!」
ヒュッ!
小気味のいい音と立てて、ジグヘッドが飛ぶ。
リールを操作し、余計な糸ふけを取って、5秒待った。
岸辺の水深はそんなになさそうだから、もう底へ落ちたころだろう。
ゆっくりと巻き上げてくる。
ワームの動きが、小魚に見えるように。
おいしい餌がいま、無防備に泳いでますよって。
魚たちにさりげなくアピール。
くっ
くくっ
明らかな抵抗が加わる。
竿先だけの反応。
ワームをつついているだけ。
がまん。
がまんだ……。
即あわせは禁物。
じりじりするくらい、がまんしていると、この調子なら……。
ぐっ!
竿が引っ張られた。
「食った!」
ロッドを振り上げて、合わせを入れる。
竿先は引き曲がって、ブルブルと抵抗が続いた。
「乗ったあ!」
これだ、この瞬間のためにおれは十日間粘り続けたんだ!
爽快な引き具合。
鳴り響くドラグ音。
しなり続ける竿。
抵抗する魚、ばらすまいと格闘するおれ。
リールを巻いて、竿を立て、魚がどんな方向へ行ってもテンションを緩めずに、引き寄せ続ける。
やがて水面に魚が見え、がっつり上あごにフッキングしているのを確認したおれは、タモを使うことはせず、岸辺の砂の上へそのまま抜き上げた。
「やったぞーっ!」
魚の大きさは30センチほどだろうか。見たことのない種類だ。
赤と青のまだらがあって、まるで熱帯魚みたいだった。
いやー、久しぶりに興奮した。
なにがって、自分のあのがまんを褒めてやりたい。
最初につんつんって来た時、あそこで合わせを入れていたらおしまいだった。
針の手前をかじっていただけだったのだ。
そこで耐えたからこそ、フッキングへ持ち込めた。
うまくなったもんだなぁ。まさに自画自賛。
そんなおれに、
パチパチパチ……。
うしろから拍手が聞こえた。
だれだ、この天才釣り師ナガシンを褒めたたえるものは。
「なかなかいいサイズだな」
手を叩いていたのは、金髪……プラチナブロンドって言うのか? 白に近い輝きの髪を持つ女の子だった。背が小さくて抜けるように肌が白い。いっぱつでわかる外国人だけど流ちょうな日本語をしゃべっていた。
「ありがとう! いやー、よかった」
おれは別にコミュ力が高いわけじゃないんで、普段ならこんな美少女外国人相手に臆面もなく話はできないんだけど、いまは超絶にテンションが高かった。きっと満面の笑みだっただろう。
「おまえ、釣りが好きなんだな」
「そうだよ。ほんと釣れなくてさ。久々の魚なんだ。ここはいいところだなあ」
「そうだろう」なぜか自分の庭のように、美少女は胸をそらした。残念だけどぺったんこだ。「なのにだれも釣りをせぬ。ぬるぬるするとか、かわいそうだとか言ってな」
「わかる。わかるよ。おれなんて地元じゃ全然釣れないから、みんな飽きてやめちゃったんだ」
「釣れない時にじっと待つのもいいものだ」
「そうそう。だから釣れた時の達成感が気持ちいいんだよな」
「ふふ――。おい、そろそろ、逃がしてやったらどうだ。そいつは食ってもうまくないぞ」
「あ、そうだな」
うっかりしていた。
釣りあげた熱帯魚みたいなやつは、まだ砂の上でじたばたしていた。
ウエストポーチに引っ掛けてあるタオルで魚を持ち、慎重にフックをはずす。
ゆっくり水に戻すと、体をくねらせて元気に泳いで行った。
あ、写真撮るの忘れた。
なんて名前の魚なんだろう……やっぱ外国のか?
そういや、ここはどこなんだ?
釣りしてる場合だったのか?
「…………」
ま、いいか。
水はきれいで、風は気持ちい。
それでいいじゃないか。
「おまえ、異世界の者だな」
いつの間にか美少女が並んで立って、ぽつりと言った。
「異世界?」
「ここでない世界から来たのかと聞いている」
「まあ……そう、かな?」
外国じゃないの? 世界単位の話?
「実はわたしが呼んだ」
「へ?」
「異世界召喚術を試してみてな……まあ、退屈しのぎだ」
「話がぶっ飛んでて理解できないけど、なんでおれなの?」
ザ・普通の学生だ。THEだぞ。定冠詞が付くくらいなんのとりえもない。
ここが異世界だとして、なんかすげぇ能力に目覚めた気もしないし、この世界で役立ちそうなスキルをもともと持っているわけでもない。
それともこれから身に着ける系のやつ? いやだぞ、めんどくせえ。そんな暇あるなら釣りをしたい。
美少女はちょっとうつむいた。
いままでの調子と打って変わって、ぼそぼそと言うから聞き取れない。
うながすと、顔を赤らめ気味に言った。
「……友達が欲しかったのだ」
「トモダチ」
「うむ。わたしも釣りが趣味だ。いっしょに釣りをしたり、遊んだりできる友達だ。なぜおまえが呼ばれたかはわからんが……、でも、よかった」
碧眼が僕を見上げた。ものを噛めるのかってくらい細い顎が、ちょっと震えて言った。
「おまえも釣りが好きなら、なってくれるか? わたしの友達に」
それに対する答えは、もう決まっている。
聞かれるまでもないって話。
でもすこしもったいぶってやろう。
「釣り友達が欲しくて、その、なんとか召喚をやったのなら、なんでおれが呼ばれたか、わかる。思い返したらあの時、心底願ったんだ。魚が釣れる世界へ行きたいって。そして、いっしょに喜び合える友達が欲しいって」
「なら……」
「きっと、君が呼んだから、おれが応えたんだ。おれからもお願いするよ。友達になって、いっしょに釣りをしよう」
「ああ……いっしょに」花が咲き誇ったように微笑む。ハートを射抜かれそうだ。「おまえの名前は?」
「長崎真也。ナガシンって呼ばれてる」
「ナガシン……む? タイミングが悪いな」
「なに?」
「時間のようだ。おまえは元の世界に戻るぞ」
「ええ?」
振り向くと、後ろの空間に白い亀裂が入って、また裂け目が広がってきつつあった。
友達になってこれから釣りにいくんじゃないの? 美少女といっしょに!
そういや名前聞いてねえ!
「き、君の名前は?」
美少女は一歩二歩下がり、風に乱れた金髪をかき上げた。
なぜだろう、その碧眼が青白く光った気がして、おれは一瞬背筋が寒くなった。
「わたしの名か。わたしはエルフリーデ・ゼッツァ」
空間の裂け目はだんだんと大きくなり、おれはまた浮遊感に包まれた。
釣り道具が吸い込まれていく。
もうすこしここに居たい。
おれは釣りをするんだ。
しかし伸ばした手を避けるように、エルフリーデと名乗った美少女は笑った。
にこりと――ではなく、にやりと、どこか邪悪に。
「その名を覚えておくがいい」
抵抗むなしく、おれ自身も吸い込まれていく。落ちていく。
頭が裂け目に入る間際、たしかに聞いた。
「この世界の魔王だ」
*1ワーム PVCなどやわらかい素材でできたソフトルアー。虫に似せたものが多いためワームと呼ばれる。
*2ジグヘッド 糸を結ぶアイのついたオモリ部分から、直接針が伸びているタイプの仕掛け。主にワームを刺して使う。