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アンチフィクション主義者

 小説を読む人の気持ちが分からない。

 生まれてこの方、物語を面白いと思ったことがない。

 小説も、映画も、アニメも、絵本も、感情を動かされない。

 物語で涙を流すのが、理解できない。

 何故、物語で。自分に関係のない出来事で涙を流すのだろう。

 家族の話、動物の話、愛の話、生と死の話。

 確かに、自分も同じ経験をしたのなら共感もするだろう。

 だが自分とまったく関わりのない出来事でも、涙する人がいるのだ。

 それが理解できない。

 自分に関係がないからこそ、簡単に悲しめるのだろうか。

 泣くために涙を誘う話を欲しているのか。でもそれなら現実に悲しい話なんて山のようにある。

 誰かの頭の中で作られた話。ただそれだけ。

 それだけなのに、どうして人は物語を読むのだろう。

 綺麗に整われた、程良く悲しく、程良く優しい話を読んだところで。

 現実が救われることなんてないのに。



  ◆  ◆  ◆



 どこの学校もそうだろうが進級すると、新しいクラスで委員会決めが行われる。

 一年の頃も、二年の頃も、私は学級委員をやっていた。中学の時からそうだった。

 人の前に立つのは嫌いではなかった。誰もやりたがらないなら、引き受けてもいいくらいには。

 小学生からそうしてきた。すると同級生も先生も、私にそういう役割を求めてくるようになった。……本当は、やりたくてやっていた訳じゃない。苦ではなかったから、引き受けていただけだ。

 中学では、「委員長」というあだ名で呼ばれた。嫌な気にはならなかったが、委員長と呼ばれるたびに存在が決められてしまう気がした。

 高校に入学しても、同じ中学からの友人の推薦で、学級委員を続けた。

 いつも通り。

 形は変わっても。きっと大人になっても、私は似たような役割をこなしていくのだろう。

 積極的な気持ちではなかったとしても。もう、慣れたし。何を求められているのか分かっているから楽だ。今更、別の役割をこなせもしないだろう。そう、思っていたのに。

 高校三年生に進級して、私は学級委員にならなかったのだ。


 四月のホームルーム、三年生の頃には大概が何となく知っている顔が多い、一年生の頃のような新鮮さはない。だいたいが知った相手と一緒にいる。

「学級委員やってくれる人は、挙手して」

 ゆるい空気の中で、まず最初に学級委員を先に決めると、担任が希望を募った。

 いつもなら誰も手を上げない。面倒だから。

 誰も手を上げないから、私がやっていた。

 寸の間、さぐるような空気が流れる。やっぱりか。と、思いながらも当然のように挙手しようとした時。――自分以外の、手が、上がった。スッと空気を割る様に手が動き声が続く。

「やります」

「私も、やります。学級委員」

 聞こえてきた二つの声は、去年別のクラスで、学級委員をやっていた子たちだった。

 学校のクラスの振り割られ方を、前にちょっと聞いたことがある。能力の偏りがないように、しているそうだ。

 学力。運動能力。ピアノが弾ける子。リーダーをやる子。

 普段だったら、同じクラスにならない子たちだった。

「井上、林。ありがとう。じゃあ頼んだ。後は各自、委員会のとこに自分で名前書いてくれ」

 担任の言葉で銘々動き出し、話し合い、グループで集まりながら、黒板に名前が書かれていく。飽きて教室の隅でふざけている男子。人数があぶれたようで、じゃんけんをして負けたのか、嫌そうな顔をしている子。早々に一人で名前を書いて参考書を開いている子。椅子に座ったまま動けない、私。……私は、何を選べばいいのか。分からなかった。

 小学生からずっと。他の委員なんて、やったことなかったから。

「ふみちゃん、どうしたの?」

 俯く視界にひらひらと動く手が入り込む。それをたどって持ち主に目を向けた。

「……菜津。何に、しようかと思って」

 菜津は小学校からの友人だ。私がずっと学級委員をやっていたのを、知っている。

「じゃあさ、私と同じ委員になろうよ。こんな機会もうないでしょ」

 にかっと笑いながら言った言葉に私が頷くと、菜津は空いていた図書委員と書かれた文字の下に、私と菜津の名前を書いた。


 本を読まない訳ではなかった。

 学術書。自己啓発。エッセイ。辞書。ノンフィクション小説。

 フィクションの物語だけが駄目だった。――読んでも何も思えないのだ。

 心の豊かさを育む。そんな理由で、推奨される読書。

 聞くたびに。読んでも何も思えない自分が、恥ずかしかった。

 感動するという、本を、映画を見て、涙する友人を見て。感動できない自分が悲しかった。

 共有できない自分が寂しかった。

 ばれたくなかった。自分がこんなだって。

 無理に泣いて。「感動した」と、「原作買っちゃおうかな」と、ごまかしてきた。

 恥ずかしいと思うようになったのは親の影響だ。

 私の両親は読書の好きな人たちだった。文芸小説の好きな人たちだった。本のための部屋があるような家で、私は育った。

 まだ字を認識できないような幼い時から、本に触れて育った。子どもに絵本の読み聞かせをするのが、母の理想だったらしい。

 自分で字を理解できるようになると、親と一緒に絵本を読むようになった。

 文字を理解していくのは楽しかった。学ぶことは嫌いではなかった。

 だけど感想を求められると、どうしていいか分からなかった。

 決定的だったのは、親が好きな本の感想を言った時だ。

『ごんぎつね』

 いたずらを後悔した狐が、反省して償おうとするが、気づかれずに撃たれてしまう話。

 撃った方は償いを後から知って、撃ったことを後悔する話。

 まだ気づけていなかった時だ。正直に言ってしまった。

「何が悲しいのか分からない」

 悲しいお話でしょう。そう言いながら涙する母に言ってしまったのだ。

 母のその時の表情を、私はきっと忘れることはない。

 それ以来、ストーリーを流し読んで、ネットで誰かが書いた感想を見て。自分がそう思ったかのように答えるようにしている。


 だから私が物語が大嫌いなことを誰も知らない。



  ◆  ◆  ◆



 図書委員の仕事は昼休みに本の貸し出し作業をする、それだけだ。あとはたまに頼まれる本の整理くらい。簡単な、仕事だ。

 三年から順にクラスごとに昼休みの貸し出し当番がは回ってくる。だから三年生の私たちは五月の連休明けには貸し出し当番をすることになった。

 たった一週間昼休みの間、図書室にいて簡単な本の貸し出し作業をする。それだけなのに連休中どうにかそれを回避出来ないかとどうしようもないことを考えるくらいには、私は図書委員になったことを後悔していた。

 私たちの学校にも司書がいる。まだ若い女性の司書だ。多分図書室に本をよく借りに行く子なんだろう、その生徒とまるで同年代のように本の話をしている彼女を見たことがある。その姿を遠目から見た時、きっと私の両親と似たタイプだ。そう、思った。

 関わりたくない。そう強く思った。図書室に行くことがなければ関わることもないだろうとも思った。けれど委員になってしまっては、そうもいかない。

 菜津に連れられてはじめて正面で向き合った人は、ふわりと笑って挨拶をしてくれた。

「吉山さん、宮沢さん。一週間よろしくね。でも吉山さんが去年もやってるから、私が説明することもないかな?」

「ちょっとー、仕事してくださいよ。みっちゃん先生」

 先生の他愛ない冗談に、二人して笑っている。

 悪い、人じゃ、ないんだろう。

 苦手意識を持ってしまう、私が悪いだけだ。


 はじめは、嫌いではなかった。分からない自分が情けなくて、悲しくて、寂しい。それだけだった。

 切欠となったのは、病気の話を、生と死の話を。読んだ時だ。

 人に薦められて読んだ本だった。

 話題作だと、絶対に感動する、読まないと損だと。そんな風に薦められた本だった。

 それは、治らない病気が発祥した主人公と家族の物語だった。

 生きる希望と、家族の愛の物語だった。

 綺麗な、話だった。

 きっと受け入れられる心があるなら、これに感動できるのだろう。

 心の軽い場所で、泣ける、感動する、良い話だと感じることができるのだろう。……そして表面で滑り落ちて、少したったら忘れてしまえるのだろう。

 日常の、スパイス。それくらいで終わらせることができるのだろう。

 タイミングが悪かった。言い訳をさせてもらえるのなら、そう言いたい。

 自分の本当に近いところではない。でも遠くはなかった場所に、同じ状況の人がいた。

 父親の弟――叔父が、そうだった。お盆や正月くらいしか顔を合わせない人だったが、私は叔父が嫌いではなかった。

 彼は穏やかな人だった。私や彼の子どもが遊んでいるのを見て、静かに微笑んでいるような人だった。叔父は、小さい頃からよく風邪をひきやすかったらしい。だけど命に関わる持病があるわけではなかった。なのに、突然奪われるようにだ。彼は医学でどうしようも出来ない病を、発祥してしまった。

 彼の人生はまだこれからのはずだっだ。子どもだってまだ小学生で、大きくなる姿を見守らなければならない。家族を養っていかなければならない。そんな中、医師に告げられた言葉に希望はなかった。

 父に連れられて叔父を見舞った時、私は見た。

 最初、私と父が来たときは、叔父はいつものように穏やかに笑っていた。「わざわざごめんね」といつもと変わりない調子で言った。

 だけど父と話している最中。急にだ、すらすらと出ていたはずの言葉が詰まって、きっともう堪えきれなかったのだろう。――泣き出したのだ。

「情けない」「どうして俺だったんだ」「残していくのも、死ぬことも怖い」

 泣きながら、嗚咽の隙間から絞り出したような声で、言葉を吐き出した。悲しみと後悔と恐怖と恨みと愛と寂しさが混ぜ合わされた声だった。

 その姿を見て、私はやっと叔父がこれから死んでしまうことを理解した。


 説明とともにその本を渡された時、私は期待した。もしかしたらはじめて物語に共感出来るのかもしれないと。

 ずっとコンプレックスを感じていたそれから、解放されるのではないのかと。

 しかし、すぐに期待は打ち砕かれる。

 最後、最後の一ページまで。そう思い、読んだ。

 けれど最初から最後まで、私には物語としてのそれを受け止めることは出来なかった。

 主人公、その家族、医者、友人、心理、情景。

 どれも茶番のように思えて仕方なかったのだ。

 穏やかだった叔父をあんなにも追い詰めた病気がこの程度の訳がない。苦しみが、悲しみが、この程度の訳がない。

 こんなお綺麗な表現ですんでしまうような軽いものではない。

 読めば、読むほど。フィクションは所詮フィクションか。その思いが強くなる。読んでもちっとも共感出来ないし、叔父がいなくなった悲しみを癒せもしない。

 むしろ、叔父の泣く顔を思い出して苦しくなるだけだ。

 本当に身近な存在という訳ではなかった。たまに会うお父さんの弟。

 だけど私は叔父のことを好きだった。穏やかに笑う叔父が好きだった。

 私の悲しみを共感してくれる存在が、本の中にいるのならきっと心が救われると思った。

 だって、皆、言っている。

 共感した。感動した。同じ思いを持っている人がいるなんて。救われた。同じような人がいると思うと頑張れる。

 ……そう、言っている。

 共感する。ということは、とても大事なのだろう。出来るのが普通のことなのだろう。

 出来ない私がおかしいだけだ。

 だけど、ああ、だけど。現実に振りかかったことですら、私はフィクションを、心を、共感することは出来なかった。

 きっと私は人の心の分からない人間で、これからも死ぬまでそうなんだろう。

 私は物語に救ってもらえない。

 だから私は物語が大嫌いだ。

 素晴らしいと称賛する人達も、大嫌いだ。


「吉山さん、宮沢さん一週間よろしくね。でも吉山さんが去年もやってるから、私が説明することもないかな」

「ちょっとー、仕事してくださいよ。みっちゃん先生」

「ごめん、ごめん。難しい作業はないから、貸し出しはね……」

 悪い人ではない。だけど雰囲気から滲み出る、本が好きだという思いに。私はあてられてしまう。

「簡単でしょう。もし分からないことがあれば、気にせず聞いてくれて大丈夫だから」

「おおー、先生っぽーい」

 菜津が手を叩きながらはやし立てる。それを見て苦笑いしながら先生はため息をついている。それでも少しも嫌そうに見えないのが人間性のなせる部分なのだろうか。

「ぽいじゃなくて先生だもの。吉山さんは私を何だと思ってたのよ、もう」

 悪い人では、ない。だけどどうしても息苦しい。一週間私はこれに堪えなければならない。

「そうだ、伝え忘れてた。ごめんね。木曜日今月の読書便り作るの。放課後にお手伝いしてほしいんだけど大丈夫かな」

「いいですけど。何を手伝えばいいんですか?いつもは先生だけで作ってましたよね」

「せっかくだから、皆が卒業する前にね。自分の特別にしている本があれば一冊教えてほしくて。文章は私が書くから感想とかエピソードとか聞かせてほしいの」

 ついでにちょっと雑用も手伝ってほしいかな。と、笑う先生の言葉に菜津がまた笑いながら反応している。

 どうしよう。私には特別な一冊なんてない。何でそんなこと考えるの。私みたいな人間だっているのに。当然それが存在しているみたいに言うの。

 やっぱり彼女も同じだ。

 木曜日までに私たちの年代で人気のある作品を調べよう。感想を複数混ぜてばれないように、自分が感じたもののように話してしまおう。

 ああ、いつもより、心臓が、少し、うるさい。


 五月の空気は生ぬるい。夕方でもほんの少し汗ばむほどだ。年々季節から春と秋が失われていくような気持ちになる。……なんて、小説を理解出来ないくせに数だけは読んでいるから、文学的な思考だけなら出来るのだと。誰に聞かれているわけでもないのに心の中で自嘲する。どうしようもないコンプレックスは今日も私を苛んでいる。

 いつの頃からか玄関の前に立つと、家に入るのを億劫に思うようになった。自分の住む家なのに。十七年間暮らしている家なのに。私の居場所はここにないような気がしてしまう。だからって他に居場所があるってわけじゃないけれど。

「ただいま」

「おかえりなさい。今日の夕飯はふみちゃんが好きな煮込みハンバーグよ」

「本当?嬉しいな」

「出来たら呼ぶからそれまで勉強してていいわよ」

「ありがとうお母さん」

 自分の母親のことを、私はとても善良だと思う。人が困っていたら、ためらわず助ける事が出来る。そういう人だ。そんな母を私はとても好ましく思っている。

「そうだ、ふみちゃん。この前面白いって言ってた小説があったでしょう?ほら、宝石のお話の」

「――ああ。あれね。うん!とっても面白かったよ。え、まさか続きが出てたの?」

「違うの違うの続きじゃないんだけど。その作者さんがね、新しいのを出していたの。それでおもわず買って読んだのだけどそれもとっても面白かったから、ふみちゃんも時間ある時にどうかなと思って」

 うん、ありがとうお母さん。私は面白くなかったけれど。皆はそれを面白いと思ったんだって。

「そうなんだ!じゃあ息抜きの時にでも読もうかなあ」

「そうしてそうして。引き留めちゃってごめんねふみちゃん」

 考えを共有できないということは、他人が想像するよりもずっとストレスが大きい。


 本が好きな人にも色んな人がいる。本そのものを大切にする人。読めればいい人。作者で読む人。ジャンルで読む人。明るい人。暗い人。学生時代の今は本ばかり読んでいる子をダサいと思う人らがいるけれど、どうやら世間的には大人になればそうでなくなるらしいこと。実はカースト上位にいる子でも本を読む人はいるということ。教室の真ん中で笑っているあの子でも、教室の片隅で黙っているあの子でも、図書室を利用しているのだとここ数日で知った。

 これまでは本を読まないだろうと思っていた運動部の子が、話題作でもない本を借りていったりもした。彼はあの本を読んだらどんな感想を抱くのだろう。本を読んで笑ったり感動したりするのだろうか。……するのだろう、きっと。

 ――ああ、窒息してしまいそうだ。

 昼休みのほんの少しの時間だけだというのに、私のコンプレックスはますます磨かれていく。

 そうやって緩やかに首を絞められながら、木曜日はやってきた。

「ふみちゃん本当に本当にごめんなさい!」

 昼休みにも聞いたのに律義にもまた菜津が私に謝る。放課後祖父の見舞いでどうしても早く帰らなくてはならないらしいのだ。

「いいよ仕方ないよ、それより大丈夫?おじいちゃん」

「うん、病気とかじゃないんだよ。ぎっくり腰なの。重い物持とうとしたらやっちゃったんだって。気をつけろってお母さんが言ってたのにさあ」

「それなら良かったよ。今日は私に任せてよ、菜津の分までやりますから」

「ありがとうふみちゃん。お礼は後日必ずしますから!あ、読書便りにのせるやつ私の分はお昼にみっちゃん先生にささっと伝えてあるから」

 最後にまた、ごめんねと言いながら菜津は早足に教室から姿を消した。姿が消えるのを見送ると意識せず、口からため息が出る。これまでは先生と会話する時はほとんど菜津に話しを任せていたのに、今日はそうはいかないのだ。家で慣れているとはいっても、だからといって平気なわけではない。価値観が決定的に違う人と話すことは、地雷原を探知機なしで走るようなものなのだから。

 気が向かないからといっても、帰ることも出来ない。割り切ればいいのだと自分に言い聞かせて図書室へ向かう。

「宮沢さんいらっしゃい、ごめんね放課後までお願いしちゃって。図書便りが終わったらちょっとだけ本の入れ替え手伝ってもらえたら嬉しいんだけど、時間は大丈夫?」

「はい大丈夫ですよ」

「ありがとう。……はいこれ、皆には内緒ね?」

 そう言いながら先生は机の上に、自販機で売ってるミルクティーと、学校の近くにある美味しいと評判のケーキ屋さんの箱を置いた。

「え!……ありがとう、ございます」

「本当はねこういうことすると怒られちゃうから、他の先生には特に内緒ね」

 人差し指を口にあてながら、いたずらっこのように先生が笑う。……大人もこんな風に笑うことってあるんだ。

「はい、勿論です、菜津にも言いません」

 たどたどしく私がそう言うと、先生はますます楽しそうに笑っている。箱の中にはシュークリームが入っていた。せっかくだもの先に頂こうと先生が言って、まだ温かいミルクティーを飲みながら食べる事になった。さっくとした感触がとても美味しい。中に詰められたクリームは幸せの味がした。思わず口角があがってしまう。

 そんな私を先生はにこにこ嬉しそうに見ていた。クリームを口の端につけながら笑っていた。

「先生……、口の端ついてますよクリーム」

「ええ!どっちどっち」

「右の……ああ、そっちじゃないです!逆です逆」

 なんだろう、この人は。これまで菜津を通してしか会話をしていなかったけれど、子どもみたいな人だ。図書室の、といっても本当に先生なのだろうか。

 想像していたよりも息苦しくない和やかな時間を過ごした後。やっと話は本題に移った。

「じゃあ聞いてもいいかな、本のタイトルと選んだ理由。……というよりはエピソードかな?」

「えっと中学生の頃に読んだ作品なんですけど、同世代の話だったから特に思い出に残ってて。女子グループの話とかリアルで……」

 すらすらと口から出る言葉。私じゃない誰かの言葉。消えきらない罪悪感を残しながらも、繰り返したそれは私にすっかり馴染んでいる。

 私にとっては慣れたもの。なのに、先生は何か腑に落ちないことがあるような顔をしている。

「……それは、本当に宮沢さんが思った感想?」

 何が、引っかかったのだろう。同世代の感想を、違和感をもたれないくらいのものを、選んだはずなのに。

「まだ、ちょっとしか宮沢さんを私は知らないけれど。……少し、想像していたのと違っていて。ごめんなさい、間違っていたら失礼だね」

 先生から、見たら。私はどんな感想を抱く人間に見えているのだろう。……本を読んで、感想を持てる人間に、見えているのだろうか。……だったら、どんな、一体どんな感想を。

「……先生。私、読んでも何も思えないんです。物語には。何を、読んでも駄目なんです」

 気づいてもらえた。そう思ったら止められなくて、湧きあがった衝動のままにはじめて人に話した。共感出来ないこと。両親を嫌いではないこと。でも本の話題になると息苦しくてたまらないこと。

 ――叔父のこと。

 ――物語が大嫌いなこと。

 矢継ぎ早に言葉を吐き出していく私を、先生はただ黙って見つめている。唐突に言われてきっと訳が分からないだろうに聞いてくれている。

 全てを吐き出し、はじめて泣いた子どものようになった呼吸を整えようと、深く息を吸い吐く。それを数度繰り返し私が少し落ち着いた頃に、それまでじっと話を聞いていた先生は口を開いた。

「……私は、宮沢さんの気持ちを分かってあげられるとは、言えない。私は本を読めてしまった人間だから。フィクションを受け入れている人間だから」

 考えながら伝えられたそれは、大人から子どもに対しての言葉じゃなかった。私というただ一人に、真摯に向けられた言葉だった。

「物語はあなたを救わなかったかもしれない。……これからも、救ってくれないかもしれない。……だけど物語は、本は、紙の上のインクだけじゃ、活字だけじゃ、ないから」

 恐る恐る氷の上を歩くようにはじまった先生の言葉は、少しずつ熱を帯びていった。

「……本は、本でしょう?」

「――いいえ。本は、書いた人と、それを世に出そうとした人と、受け取った人と、皆の想いで出来てるの。……だから、もし。もし、ね、どうしても堪えられなくなったら」

 まるで愛の告白をしているような真剣な言葉。そして、言葉だけでは伝えきれない感情を、伝えようとするように。真っ直ぐな瞳が私を見る。

「私からあなたに本を贈らせて」

「本、を……?」

「そうよ。私があなたのことを考えて考えて選んだ本を、贈らせて。きっとそれは、あなたにとってただのフィクションの物語にはならなくなるから。……大事な本は、人を想って贈った本は、ストーリーだけじゃなくなるから。……それはね、私の心の一部をあなたにあげるってこと。だからきっと、大丈夫」

 先生の言う「大丈夫」は、どうしてかキラキラと輝いているように思えた。……だけど。

「分からないよ……先生。だって、私、お母さんが好きなものすら共感出来なかった」

「大丈夫。いい?その本はね、あなたの話を、悩みを聞いたうえで。考えて考えてあなたの為に贈るものよ。あなたの心のために贈りたいと選んだものよ」

 真摯に告げられる先生の言葉は正直嬉しい。……でも、もう期待をもつのが怖い。臆病になってしまった私は、先生の言葉を信じきれない。

 俯く私を見て、そう思う私の気持ちが伝わったのだろうか。先程までは視線のように強かった声が柔らかくなり、温かな手が冷えて強ばった私の手を包んだ。

「でも、そうね。もしそれでも駄目だったら、私と話をしましょう。私はあなたに何を届けたかったか。あなたは何が駄目だったのか。話をしましょう。――そして、また本を贈らせて」

「それでも……駄目だったら?」

「再挑戦させてくれるなら、もう一度話をしましょう。その後にまた本を贈らせてほしい。――何回でも。きっとそのうち、あなたに届くものは見つかると思う。……そう、思いたい」

 ……どうしてこの人は、こんな言葉をくれるのだろう。普通の人が普通に出来ること。それを出来ない自分を。変に、思わずに、こんな言葉をくれるのだろう。

「宮沢さんが物語が本当に嫌いだっていうのなら、無理強いはしないけれど。……そうじゃ、ないんでしょう?」

 先生の言う通りだ。――分からない自分が嫌いだった。共感出来ない自分が嫌いだった。

 本当は、お父さんとお母さんと、本の話を普通に出来る娘でありたかった。

 皆と映画を見に行って、同じように泣きたかった。

 物語に私も救われたかった。

 分かってほしかった、私みたいなのもいるんだって。

 受け入れてもらいたかった。

 物語を好きになりたかった。

 人の心を受け止められる人になりたかった。

 投げられた問いに向けて、蚊が鳴くような声で、先生に届いているのか分からないほどに小さな声で。

 私は、「はい」と言った。

 顔をあげることは出来なかったから、先生の反応は見れなかった。だけど、雰囲気で先生が微笑んでくれているのは、伝わった。

「……さあ、じゃあ続きやっちゃおうか。まずは一冊選ばなくちゃ。今日中には終わらないね。……宮沢さん、明日も手伝ってくれる?」

 少し冗談めかして言う先生に向けて、今度は、ちゃんと届く声で返事をした。


 小説を読む人の気持ちが分からなかった。

 生まれてこの方、物語を面白いと思った事がなかった。

 小説も、映画も、アニメも、絵本も、感情を動かされた事がなかった。

 物語で涙を流すのが、理解できなかった。

 何故物語で。自分に関係のない出来事で、涙を流すのだろうと思っていた。

 家族の話、動物の話、愛の話、生と死の話。

 確かに、自分も同じ思いをしたのなら共感もするだろう。

 だが、自分とまったく関わりのない出来事でも涙する人がいるのだ。

 それが理解できなかった。

 自分に関係がないからこそ、簡単に悲しめるのだろうかとも思っていた。

 泣くために、涙を誘う話を欲しているのか。でもそれなら、現実に悲しい話なんて山のようにある。

 誰かの頭の中で、作られた話。ただそれだけ。

 それだけなのに、どうして人は物語を読むのだろう。そう思っていた。

 綺麗に整われた、程良く悲しく、程良く優しい話を読んだところで。

 現実が救われる事なんてないのに。

 現実が、救われる訳ではない。のに。

 それでも求める。

 人の願いで作られたものを、届けたい何かがあって作られたものを、たったひとりのために贈られたものを。

 私だって受け止めたい。


 そして物語も、きっと私の心を受け止めてくれるだろう。

 物語は、想いで出来ているのだから。

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