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龍姫の叙事詩  作者: 桜庭楽
ローレライの黄金
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♯2『悲鳴と偽名』

 はぁ、とソフィアはため息を吐いた。

 今は目抜き通りの噴水の縁に腰掛け、イヴを待っている。彼女は「少し待ってて」と言い残して、どこかへ行ってしまったのだ。仮にもソフィアは姫なのだから、一人で街中にいるのは危険なのではと考えたが、まったくそんなことはなかった。


 道をゆく人は、ソフィアにちらりと目をやるが、足を止めることはない。ドレスが多少目立っている程度で、ソフィアが懸念していたようなことは何一つ起こらなかった。


 それもそうか、私の顔を知っている人なんて王宮の人だけなのだから。


 ソフィアが禁じられてきた世界は、特別なことなんて何もなくて、すべてが普通に、想定の範囲内に収まっていた。

 繊細さは王宮より多少見劣るとはいえ、街中に張り巡らされた水路はそれはそれで趣きがある。


「お待たせ、ソフィア」


 イヴの声に顔を向けると、その手には二つの小包みがあった。なんですかそれは、と問うとイヴが片方をソフィアに渡す。


「サンドウィッチ……ですか?」


「うん、まあ似たようなものかな。ローレライの名物で、パンに湖で取れた魚のフライが挟んであるの。そこにトマトケチャップをたっぷり」


 小包みから覗くその食べ物は、ソフィアにとっては未知のものだった。それでも、とても美味しそうだ。


「あの、フォークはどこでしょう」


 ソフィアがイヴに問いかけると、イヴは目を見開いて硬直し、その後ぷっと吹き出した。そのままお腹を抑えながら「そうだよね、お姫様だもんね」と笑っている。

 ソフィアはそんなイヴを見て、何か面白いことでも言ってしまったのだろうかと考え込む。


「はー、ごめんごめん。こういうのはね、フォークとかは使わないの。かじりつくのよ、ガブッと」


 そう言って、イヴがガブッとパンにかじりついて見せる。


「ええ、そんな……はしたないです」


「はしたなくても、これが庶民流なの。ほら、やってみなさい?」


 うう……と唸る。食べ方に不満は残るが、手の中にあるご馳走を無視はできない。えい、とそれにかじりつく。


「……おいしい」


 サクサクに揚げられた魚が、絶妙にパンとマッチしている。香りづけの香草と、トマトケチャップが味を整え、まるで一流のコックが作ったかのようだ。王宮の料理にも引けを取らない。


 夢中になって、一口、もう一口とかじりつく。そこに食事の礼節などは無く、父が見たら怒るだろうが、そんなこと気にならないくらいにおいしかった。


 イヴはそんなソフィアを見て微笑む。


「はぁ……おいしかった」


 ペロリと平らげたソフィアが、恍惚の表情で言う。そんなソフィアを見て、またイヴがくすくすと笑う。今度はなんですかと目で問いかけると、イヴが口元に指を指す。


「ついてるよ、ケチャップ」


 王家どころか女子として恥ずかしい指摘を受けて、慌てて拭おうとするが焦りゆえか上手く拭えない。見かねたイヴがハンカチを取り出し、ソフィアの口元を拭う。

 ソフィアは恥ずかしそうに目を伏せ、小さな声でお礼を言った。


「君はいつかこの国を、そしてこの国に住まう人々を統べることになる。であれば、市井の暮らしというものを知っておかなければならない。それが王の責務だからね」


 一息ついて、イヴがそう言いだした。街を眺めながらのその声色は、ソフィアに一般論を説いているだけのようには聞こえない。もっと重い、経験談のようにも聞こえた。


「イヴさんは、そういう経験が?」


「まあ、それに近いかな。私は結局逃げ出したから、今ここにいるんだけど」


 イヴは肩をすくめる。


「でも……おそらく私が直接政治に関わることはありませんわ。王になるのは私の伴侶ですから」


「同じことだよ。王はひとりでは王になれない。民に、そして君に選ばれることではじめて王になれる。しかも民意に反する王はすぐに玉座を追われ、その混乱は民を傷つけてしまう。責任重大だね」


「そんな……私なんかがそんな決断できませんわ」


「できなくても、やらなければならない時が来る。その時に備えて、自分を磨いておくことが大切なんだよ」


 さて、と話を区切って、イヴが立ち上がる。


「そろそろ戻ろうか。騒ぎになると面倒だから」


 イヴに続いて立ち上がり、その手を取った瞬間。目抜き通り、王宮に近い方で悲鳴と、怒声が上がった。どう考えても、尋常ではなかった。

 イヴも同じことを考えたようで、素早くソフィアの前に立ち、何事かと警戒している。


 その騒ぎはどんどんとこちらに近づいてきていて、どうやら逃げてきたらしい人が二人の横を駆け抜けていった。


「ソフィア、絶対に私から離れないように!」


 こくこくと頷いて、イヴの背後に隠れる。肩から覗くと、人波の向こうに、深緑の旗がはためいていた。


「あれは……シラの旗か?」


 どうしてシラの旗が……というのは交流会があるからおかしくはないが、なぜこんな騒ぎに。


「聞けえ! ローレライの民共よ! ローレライの王宮は陥落し、アルシス王は我らシラの騎士達が捕らえた!」


 な、なに? 今彼らは何と?

 父上がシラの騎士に捕らえられただって、どうしてそんなことが。


「抵抗するものには容赦はしない! 大人しく我らに従え!」


 そう言ってシラの騎士が掲げた剣は、血で赤く染まっていた。それを見た人々は恐慌状態となって、濁流のように逃げ出す。

 怒号と叫声。今やローレライの目抜き通りは、不穏なもので満ちていた。


「ソフィア! 捕まって!」


 流れる人々に押し流されそうになったソフィアを、イヴが抱き寄せる。そして、なんとか路地に入って避難する。メインストリートは今も騒乱の中で、悲鳴が聞こえてくる。


「ここから離れないと……! それに、父が!」


 パニックなのはソフィアもだ。対して、イヴはこんな状況でも落ち着いている。ソフィアの頭を抱いて、なだめるように撫でた。


「父上なら大丈夫。捕らえた、と言った以上すぐに殺されたりはしないわ。まずは君の安全が第一、どこかに身を隠そう。走れそう?」


 ソフィアが自分の足元を見る。足を包むのは、高いヒールだ。とてもではないが、走れない。ぶんぶんと首を振るソフィアを見て、イヴが苦笑する。

 ちょっと失礼、と断ると、イヴはソフィアの体に手を回して抱き上げる。


 ソフィアは大柄な方ではないが、それでも女性が人ひとりを抱えて運ぶなど並大抵のことではないだろう。しかし、イヴの体のどこにそんな力があるのか、まったく軽々と走るのだった。右に左に、大通りを避け、路地を渡っていく。


 しばらく進んで、薄暗い路地の古ぼけた扉を開けた。どうやら空き家になって久しいらしく、床にはうっすら埃が溜まっている。


「調査中に見つけたんだ。汚れてるけど、今は我慢してね」


 イヴはソフィアを床に降ろす。フワッと埃が舞った。イヴが手近な椅子を手に取り、軽く拭う。ソフィアに座るよう促して、言った。


「私は王宮の様子を見てくるよ。出来るだけ早く戻るから、ここで待ってて」


 イヴが空き家を出て行こうとする。ソフィアは半ば無意識にその手を掴んだ。少し驚いた顔で、イヴが振り向く。


「で、でも……イヴさんが殺されてしまいます」


 震えるソフィアに手を重ね、イヴが微笑む。


「イヴっていうのはね、偽名なんだ」


「え?」


 ソフィアは突然の告白に驚いたが、今それを話してどうしようというのだ。名前なんて、この状況では重要じゃないはずだ。

 そう思っているのに、ソフィアはイヴの言葉を遮る気にはなれなかった。


「……本当の名前はウィルベルっていうんだ。聞いたことある? ヴァイスランドではまぁまぁ有名なはずなんだけど」


 ソフィアが目を見開く。空いた口が塞がらない。

 その名前は、まぁまぁ有名、なんてものではなかった。


 ウィルベル・ミストルート。

 龍狩りの英雄。ヴァイスランドの指導者から『月光』の銘を与えられた、若き魔術師の名前だった。


「だから大丈夫。出て行くときにも扉に呪いをかけるから、ここにいれば安全よ」


 そう言って、イヴ改めウィルベルはソフィアの手を撫でた。

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