♯1『ローレライの姫』
頬を伝う絹糸のような金髪、ひたいを撫でる柔らかな手。キラキラと輝く微睡みの中で、微かに歌が聞こえる。子守唄のような、それでいて賛美歌のような。
――流れよ 流れよ 願いの水盆よ……
慈愛に満ちた歌声に包まれる。湖の上にぷかぷかと浮いているような心地になって、全身が弛緩した。
どうか願わくば、この時間がずっと続いてほしい。ずっとずっと、この歌を聴かせてほしい。ずっと、ずっと……この歌を、最後まで。
「――様! ソフィア様!」
突然、夢が弾けた。
大きな声に呼び起こされ、現実に浮上する。夢と現の乖離にめまいがした。
「ソフィア様! もう朝でございますよ、早く起きて支度をしてくださいまし!」
「……ん、うん」
熟練メイドのヨレーが手早くドレスを用意している。促されるままに、体を起こしてベッドから降りた。すぐさま若いメイド達が飛んできて、ネグリジェを剥ぎ取っていく。そしてまたすぐさま下着を着せられ、何枚も何枚も着飾られていく。
お次は化粧台の前に座らされ、顔を拭かれ、メイクを施されながら髪を結われる。
せわしない、朝の日常だ。
湖に浮かぶ国〈ローレライ〉の姫・ソフィアは欠伸を漏らしながら、メイド達にされるがままにされていた。
二十分ほどで支度が終わると、今度は朝食に連れてかれる。長い廊下を、メイド達をぞろぞろと引き連れて歩いていく。
そうして、豪奢な部屋にたどり着いた。中央にある長い食卓の奥側には、ローレライの国王である父・アルシスがすでに座っていた。
父はたとえどれだけ公務が忙しかろうが、朝食だけは欠かさず一緒に摂ろうとするのだ。幼くして母を亡くしたソフィアを寂しく思わせないためだろう。
ソフィアももう十七歳、そんな心配はいらないのだが、父の思いやりを無碍にはできない。
「お待たせしてごめんなさい、お父様」
ソフィアがスカートの裾を摘んでお辞儀すると、アルシスは苦笑した。
「ソフィアは本当に朝が弱いね……今日は大事な日なんだ、しっかり頼むよ。オノワール王子も楽しみにされているそうだ」
オノワール王子……隣国〈シラ〉の第一王子の名だ。それだけならソフィアにとってはどうでもいいのだが、そうはいかない事情がある。
「お父様……私やはりそのお話は」
本日、私ソフィアとオノワール王子のお見合いが予定されている。一応ただの交流会という名目なのだが、若い男女――それも一国の姫と王子――が二人で会うとなれば、つまりはそういうことなのだ。
「まあまあ、そう言わずに。会ってみれば心変わりするかもしれないだろう? 噂によると、文武両道の美男子のようだぞ」
そう言われても、ソフィアにはまだ誰とも深い関係になるつもりはない。とはいえ、王家の一人娘として育てられたソフィアがいつまでもワガママを言える立場ではないということも理解している。
不思議なことに、ローレライの王族は男子を出生したことがない。産まれてくるのは女子ばかりで、隣国から王子を婿として受け入れ、王になってもらうという慣習が出来上がっている。
父も元はローレライの人間ではない。しかし、政略結婚にも関わらず母を深く愛していた。そしてこの国も。
ソフィアも願わくば、父のような人物にこの国の王位を継承してもらいたい。
……いつかはこの国のために、どこかの誰かと結ばれなければならない。それでも、まだその覚悟は決まっていない。
用意された食事は、とても味気なく感じられた。半ば上の空で父に返事をし、ぼんやりしながら朝食を終えた。
父の前を辞して、廊下をふらふらと歩く。お見合いは午後から、つまりまだ時間がある。
「少し、一人にしてくれる?」
付き添いのメイドに言うと、彼女らは音も立てずに退いていった。
王城の中であれば、自由に歩き回るのも許可されている。主にメイド達の思いやりで。彼女たちもまた女性。ゆえにソフィアの境遇を理解してくれているのだ。
行き先も決めずに歩いていると、王城の中庭に出た。湖から汲み上げられた清水に飾られて、色とりどりの花が咲く庭園だ。母が愛したこの庭園にいると、母の熱を感じられるような気がして、よく一人で見にくるのだった。今日も、無意識に足が向かっていたらしい。
いつもは水と花だけが存在するこの場所に、先客がいた。腰近くまで伸びる黒い髪を緩く束ねたその人物は、こちらに背を向けて庭園を眺めている。長く垂れる濃紺のマントに、身を包む上質な装束。
(まさか、この人がオノワール王子……?)
うへ、と思い後ずさりしたソフィアにその人物が気づく。振り向いたその人物は、深みのある青い目をソフィアに向けた。人の心を刺すような美貌に見つめられて、思わず息が詰まった。
(た、たしかにお父様の言うとおり美男子……)
言葉を失っているソフィアに、その美男子が口を開く。
「君は……ソフィア姫?」
――発せられた声は、なんと女性のものだった。鈴を鳴らすような声が庭園に澄み渡る。正面から見れば、たしかに胸の起伏もあるし、体つきも女性らしい。オノワール王子というのはどうやらソフィアの勘違いだったようだ。
「は、はいっ……あの、あなたは?」
「驚かせてしまったようね。私はウ……イヴよ。旅をしている学者なの」
「学者様……ですか」
なにやら言いかけたのも気になるが、学者と名乗ったのも気になる。彼女の格好はまったく学者には見えないし、剣を下げた姿はむしろ騎士のようだ。それに学者というのは旅をしたりするのだろうか? するのだとしてもなぜこの王城へ?
ソフィアの怪訝な視線を感じてか、イヴと名乗った女性が言葉を続ける。
「実は貴女のお父さん、アルシス殿下の依頼でね。この国に眠る"ローレライの黄金"というものについて調べているんだ」
「ローレライの……黄金?」
鉱物資源に乏しいこの国には、黄金なんてほとんどありはしない。あるものなんて水ばかりだ。
「君は何か知らない? 心当たりでも良いのだけど……あまりにも情報がなさすぎて困ってるんだ」
「……さあ? お父様が知らないことなんて私には分かりっこありませんわ」
「それはどうかな。誰の記憶の底に、黄金へ至る鍵があるかは分からない……まあ、何か思いついたら言ってね」
首をかしげるソフィアに、イヴが含みありげなことを言う。
「それにしても、この庭園は素晴らしいね。黄金よりも価値がある」
またこちらに背を向けたイヴが両手を広げて賞賛する。それがソフィアには、まるで自分が褒められたかのように嬉しく、イヴの横に進み出た。
「母もこの庭園を愛していました……私は母の膝に頭を置いて、それで……歌を聴いていたんです」
「……歌?」
「はい。子守唄のような……美しい旋律だったのに、記憶はもうおぼろげなんです」
胸に去来する郷愁を感じずにはいられない。消えかけているものに手を伸ばすことの哀しみを抱くのだ。歌も、母も、ソフィアの中から消えていこうとしている。
「それは……忘れちゃいけないね」
「ええ、でもきっといつか忘れてしまう。憶えていてくれるのは、きっとこの庭園だけです」
ソフィアを気遣うような声色のイヴに、少し甘えてしまった。こんな話、初対面の人にするべきものではないのに。
「あっ、ごめんなさい。つまらない話を聞かせてしまって……」
「そんなことないよ。"ローレライの黄金"について、少し分かった気がする」
イヴが庭園に目をやりながらそう言った。
今の話で何が分かったのだろうか?
「この国はどこも美しいね。この庭園もさることながら、街中が芸術品のようだった」
「……実は私、この王宮の外を知らないのです。父が過保護なものですから」
アルシスにとって唯一の肉親、また愛した女性の忘れ形見ともいうべきソフィアに対して、過保護になってしまうのも仕方ないといえる。だからソフィアは、この王宮から出たことがないのだった。
「ええ? それはもったいないよ! ねえ、今から見にいってみない?」
「ええ!? そんな、いけませんよそんなこと」
ソフィアの発言に驚愕したイヴの発言に、今度はソフィアが驚愕する。見張りの衛兵に見つかったら、イヴのほうが処罰を受けるかもしれない。ソフィアのそんな心配をよそに、
「大丈夫大丈夫。バレなきゃいいのよ、こういうのは」
そう言って、イヴがソフィアの手を引く。理知的な態度とは裏腹に、かなり強引かつ愉快な人物のようだ。ソフィアは抵抗もしないで、困り顔のままイヴに連れられて行くのだった。
――半刻ほど後、ローレライ王宮にて
「遠路はるばるよくぞいらしてくれました、オノワール王子。娘のソフィアもこの日のことを楽しみにしておりました」
一段高い玉座からアルシスが声を掛ける。その前に跪いているのは、薄茶の髪を撫で付け、高貴さを漂わせる青年だ。
「アルシス殿下、私もソフィア姫にお会いするのを楽しみにしておりました。なにせソフィア姫はローレライの真珠と謳われる絶世の美女、これに心踊らない男はおりますまい」
顔を上げ、オノワールが応える。アルシスは自慢の娘を褒められ、思わず頬を緩める。
「そう言っていただいてなによりです。交流会にはまだ時間がありますゆえ、貴賓室でお休みになるがよいでしょう」
「いえ、殿下。それには及びません。今日という日は休んでいる暇などありませんから」
オノワールが立ち上がり、アルシスの勧めを断る。
「と、いうと?」
アルシスの質問にしばし沈黙し、唇を薄く引き伸ばした。それが形作るのは、高貴さなどありはしない下卑た笑みだ。
「シラ第一王子オノワール――宣戦布告に参った」
突然の宣告と共に、オノワール御付きの騎士達が謁見の間に飛び込んで来た。その剣は、すでに血で濡れていた。




