第四章♯19『北の賢者』
「ここをまっすぐ進めば街道に出る……達者でな」
前を進んでいたユリウスが立ち止まった。彼の指差す先には森の木々の縁があり、その向こうは日の当たる草原だ。
「ありがとう。ユリウス、モニカ」
「また訪ねにくるよ」
「おう! 元気でな〜!」
握手を交わした後、二人の友人に見送られながら断絶の森を後にする。森を出てから振り返ると、二人の姿はもう見えなくなっていた。
鬱蒼とした森林から解放されたのが気持ちよくて、瑞々しい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
昨日、遺跡から脱出したフリッツ達は一度エルフの村に戻った。そこで一晩休ませてもらい、今朝出発することにしたのだ。村の長カンドレは、せめてもう一泊と引き止めてくれたが、フリッツ達にはとにかく時間がない。そして、ゆっくりしている気分にもなれないのだった。
水元龍に続いて『北の賢者』を訪ねるために、サリー街道を北上することになった。以前、ルクセンへ向けて南下してきた道を今度は逆に進むことになる。
森から街道までを歩いていると、遠くから蹄の音が近づいてきた。街道を進む旅人かと思い、そちらに顔を向けると、
「お前達! 待っててくれたのか!」
なんと森に入る前に放したあの二頭が、フリッツ達に駆け寄ってくる。目の前で止まると、嬉しそうに鼻面を押し付けてきた。
馬のことは諦めていたからブラオエまでは歩いて行くことになると思っていたが、その必要はなくなった。鞍や鐙などは街道の木下に置いておいたはずだから、それを使えば良い。
あの時とは違う思いで、同じ道を辿っていく。色々なことが起こったが、フリッツも少しは成長したのだろうか。そんな気もするし、まだ何も変わっていないような気もするのだった。
◆◆◆
——二十二日後
毛足の長い絨毯に足の裏が沈み込む。ソファは年季が入ってはいるが、それがかえって落ち着く。冬ももうすぐ終わり、春の兆しが見えてくる頃のはずだが、北部はまだまだ寒い。暖炉の中で薪が崩れる音がした。
隣のウィルベルは頬杖をついて、暖炉の火を眺めている。少し伸びてきた髪が目にかかっていた。急行の旅の中ゆえ、ろくに手入れ出来ていないはずだが、あいかわらず絹糸のように流れている。
水元龍の話を聞いたときから、彼女はあまり話さなくなった。もともと口数が多いタイプではないのだが、一人で思考に没頭している時間が増えていた。
断絶の森を出発し、ブラオエに寄り、カルテドルフを過ぎ、フリッツ達は順調に北へ北へと進んできた。道中、『北の賢者』について聞き回りながらここまで来たが、そこから得られた情報は皆無だった。やはり『北の賢者』という人物は公には知られていないようだ。
「フリッツ様、おかわりは如何ですか?」
「お願いします」
カーラがカップに熱いお茶を注いでくれる。甘い花蜜のような香りが立ち昇った。一口含んで、喉を潤す。
フリッツ達は今、ロンドフ魔術学院まで戻って来ていた。
ウィルベルとの旅が始まった場所。フリッツにとって思い出の場所のひとつだが、まさかたったの数ヶ月でまたここに来ることになるとは思いもしなかった。
そんなことを言いだしたら、邪龍の襲撃も、水元龍との邂逅も、予想通りだったことなんて何もないのだからキリがないのだが。
ともかく、長い時間をかけて結局ここまで戻って来ることになったのだった。
フリッツの思索を、ドアが開く音が遮る。立ち上がって、入ってきた老人と握手を交わす。
「よく来てくれたのぅ、二人とも。いささか早い帰りじゃが、旅は順調かの?」
ロンドフ魔術学院校長・ハーブルが訊く。彼の姿は以前会った時と寸分も変わっていないような気がした。いつも優しい微笑みを浮かべているからだろうか。
「はい、ハーブルさん。色々ありましたが、順調です」
ハーブルが席に着き、カーラが彼の茶を用意する。その後、彼女は恭しく礼をして校長室から退出していった。そしてフリッツ、ウィルベル、ハーブルの三人だけが部屋に残った。
「それで? 今日はどうしたのじゃ」
ハーブルがティーカップに入ったお茶を冷ましながら問いかける。それに対して、学院に入ってからほとんど言葉を発さなかったウィルベルが口を開いた。
「ハーブル先生……あなたが、『北の賢者』ですね?」
ウィルベルが核心を突いた発言をする。その言葉に、ハーブルは微塵も動揺した様子はない。彼はゆっくりとティーカップをサイドテーブルに置いた。
「『北の賢者』? なんじゃそれは。ワシは央都でそう呼ばれとるのか?」
片眉を上げて言う。
地底湖の小島の上でウィルベルはフリッツに隠し事はしないと約束した。その約束を守って、旅の道中でフリッツに語っていたのだ。ハーブルが『北の賢者』に違いないと。もしそれが間違いなら、手掛かりが完全に失われることになる。
「とぼけないでください……魔術の始祖たる龍が『賢者』と認めるほどの人間は歴史の中でも数えるほどしかいない。『北』は方角ではなく元素、つまり土の属性。その属性を極め、『極光』の魔術師と認められた者……あなたしかしないんです!」
ウィルベルがまくし立てる。
以前、彼女に教えてもらった。『極光』とは最高の魔術師に与えられる称号で、ヴァイスランドの三千年の歴史の中でたった四人しかしないのだと。その一人が、ヨハン・クルセオ・ハーブルなのだと。だから、『北の賢者』は彼以外にあり得ないのだと。
「…………」
ハーブルが瞼を閉じて沈黙する。その反応はウィルベルの言葉を認めるようなものだが、話すつもりはないという頑なさを感じた。
「お願いします、教えてください……先生」
ウィルベルが縋るように言った。そんな彼女の様子を見て、ハーブルが大きく息を吐く。笑みは消え、力なく首を振るとても弱々しい老人のように見えた。
「いつか、この日が来ると覚悟していた……じゃが、この真実はあまりにも重い。できることなら、墓まで持っていくつもりじゃった」
懺悔するように告げる。
旅の答えは、はじまりの場所にあったのだ。ずいぶん遠回りをしたが、やっと聞ける。
「それでも、知りたいんじゃな?」
ハーブルが念を押す。横に座るウィルベルが膝の上に置いた拳は、わずかに震えていた。その拳を包み込むように握ると、瞳がフリッツを見る。一人じゃないというように、頷きかける。たとえどんなことを知ったとしても、フリッツだけはウィルベルの味方でいると決めていたのだ。
「……はい」
ウィルベルの決意を聞き、ハーブルが背もたれに沈み込む。祖父が孫の成長を喜ぶような、悲しむような、そんな表情だった。
「今から十五年ほど前のことじゃ……」
パチリと音を立てて、薪がまたひとつ崩れた。




