第四章♯3『央都を覆う黒翼』
「はぁ……はぁ……!」
フリッツは人波に逆らって、ルクセンを西へ西へと走っていた。
酒場を出てすぐこそ人は疎らだったが、大通りは西区から避難してきたであろう人で埋め尽くされていた。
もしかしたら、その人波の中にウィルベルがいたかもしれないが、それを確かめている余裕はない。
それに、ウィルベルの性格からして、騒動の渦中にいる可能性が高い。フリッツには、彼女が赤い光の元にいるという確信があった。
息を切らせながら走る。
空気が徐々に熱を増して、火の海が近づいていることを示している。天に昇る黒煙や、パラパラと舞う火の粉がしっかりと目に見えた。
西区の門を過ぎたところから、明らかに雰囲気が変わった。火のついた建物もあり、中には倒壊しているものもある。
その様子を見て、フリッツは不思議に思った。
この辺りの建物は、火災で倒壊したような様子ではない。人が壊して回ったような様子でもない。これはまるで、何か大きな生き物が暴れまわったような、そんな破壊の跡だ。
倒壊して炎上する建物が多い道を抜けようとした時、フリッツは視界の端に彼女を捉えた。
「……ウィルベル!」
フリッツの呼び声に、ウィルベルがハッと顔を上げる。その顔は薄汚れているが、怪我はしていなさそうだ。だが避難もせず、彼女は道端に屈みこんで何かをしている。
「ウィルベル! 何してるんだ! 早く逃げ……」
駆け寄りながら言いかけたフリッツが、ウィルベルの意図に気づいた。
屈みこんだ彼女の側には、十歳くらいの男の子が横たわっている。意識はあるようだが、その足は倒壊した瓦礫の下敷きになっていた。
「フリッツ! 手伝って!」
「……だめだよウィルベル、無理だ……助けられない」
ウィルベルが必死に持ち上げようとしている瓦礫は、男十人がかりでも動きそうにない。男の子の様子からして、足は潰れているわけではなく、ただ挟まれているだけのようだが、ウィルベルとフリッツだけで助け出せるとは思えない。
火の手はもうすぐそこまで迫っていて、このままではウィルベルまでも火に巻かれてしまう。
「無理!? 君はわざわざそんなこと言いに来たの!?」
「……あぁ、もう!」
瓦礫の隙間に剣を差し込む。テコの原理で持ち上げようという算段だ。剣が折れるかもしれないが、そんなことは気にしていられない。丈夫さだけが取り柄のコイツを信じよう。
「今からちょっとでも持ち上げるから、自分で出られるな!?」
男の子がコクコクと頷く。
こんな小さな子供ですら諦めていないのに、フリッツが諦めるなんて許されるはずもない。ウィルベルに発破をかけられて、気合が入った。
「ウィルベル、いくぞ! さん、に、いち……!」
渾身の力で瓦礫を持ち上げる。剣がたわんで、いつ折れてもおかしくない。フリッツの肉体も、ギシギシと悲鳴をあげている。
「ぐ……っ!!」
身体中の血管が切れそうな感覚を味わいながらも、必死に力を込める。そのとき、わずかだが瓦礫が持ち上がった。その隙に、男の子が懸命に瓦礫の下から這い出る。
男の子が完全に脱出したのを確かめてから、剣を引き抜く。瓦礫が燃え崩れたのは、それとほぼ同時だった。
「はぁ……無事か?」
「うん……ありがとう兄ちゃん、姉ちゃん」
男の子の怪我は膝を擦りむいた程度で、自分の足で立つことができている。折れたりしていたら大変だった。不幸中の幸いだ。
「おーい! いたぞ!」
とりあえず、燃え盛る家屋から離れて、男の子の様子を確かめていたとき、口に布を巻いた大人たちがフリッツの方へ走って来た。手には火災時用の刺又を持っているから、消火隊の人間だろう。
「父ちゃん!」
「ああ、コレット……良かった! 無事で良かった!」
救出した男の子を、消火隊の男性のひとりが抱きしめる。会話からして、親子のようだ。父親は息子に怪我がないかを確かめた後、フリッツたちに向き直る。そして息子を抱きながら言った。
「息子を助けていただいてありがとうございます……! このお礼はいつか必ず」
父親が頭を地に擦りつけんばかりに深く礼をする。男の子も父親の真似をして、頭を下げる。
そのとき、少し離れたところでまた建物が倒壊した。粉塵を巻き上げながら業火に包まれる。
「アクトンさん! ここはもうダメだ、一度区門の辺りまで戻ろう! あんた達もついてこい!」
街の様子を見た消火隊の一員が、男の子に父親に告げた。その後、フリッツたちにも避難の指示を出す。
「逃げよう、ウィルベル!」
「うん!」
消火隊の後に続いて、炎から逃げる。どうやら先ほどまでいたところが一番被害が大きい地区らしく、区門に近づくにつれて、被害を受けていない建物も増えてきた。
目標の区門が近づいてくる。そのすぐ手前、押し倒されるように建物が倒壊しているエリアに差し掛かったとき、何かがフリッツ達の頭上を飛んだ。
風を切る凄まじい羽音。
誰もが思わず立ち止まり、空を見上げた。
消火隊の中で、一番年長らしき男性がうわごとのようにその名を呟く。それを聞くまでもなく、フリッツも理解していた。フリッツだけでなく、皆が理解したはずだ。これを見たことがある者も、ない者も。
これが、こいつが。
「不死の……邪龍!」
名前を呼ばれたからかどうか、ニーズヘッグは天に吠え、地に降りたった。フリッツ達が区門に向かう道、それを横から見る位置だ。
黒曜石のように光を弾く鱗。強靭な長い尾。天を衝く二本の角。そしてこちらを睨む、真紅の双眸。
その視線は、邪龍が抱くフリッツ達への殺意をこれ以上ないほどに示していた。龍にとって取るに足らない存在であるはずの人間、それに対して一切の容赦をしないという意思。
それはたかが虫ケラを、満身の力と憎しみを込めて踏み潰そうとする人間と同じようなものではないか。つまり、狂気だ。
「私が気を引くから、門まで走って!」
硬直したフリッツ達を置いて、ウィルベルが駆け出す。
(人狼? 悪徳商人? それが何だって言うんだ。今対しているこいつは人類の天敵。稀代の英雄たちが三人がかりで"撃退"した邪龍なんだぞ)
その脅威に、いつものように飛び込むウィルベルの姿を見て、フリッツもどこか感覚が麻痺してしまったのかもしれない。
(邪龍はイカれだが、ウィルベルもイカれている。そして僕も、十分イカれている)
ウィルベルの後を追って、邪龍ニーズヘッグの前に、剣を抜いて立った。不思議なことに、死の恐怖は感じなかった。




