第四章♯3『南部戦線② 狼煙』
――南部戦線、正午。
フリッツは野戦基地に建てられた櫓の上から、炎天に霞む砂漠を見つめていた。その地平線から滲み出るように、じわじわと寄せる黒い波のようなものが現れ始めた。
「視認できる距離に入りましたね、はい。帝国軍の本隊です」
「……兵士たちを臨戦態勢に整えさせておいてくれ」
帝国軍の確認もそこそこに、隣に並んでいたフェリックスに答え、フリッツは踵を返して櫓を降りようとした。その背中に向けて怪訝そうな声が飛ばされる。
「フリッツ様はどうされるのですか? 総指揮は私に任せるとのことでしたが、はい」
フリッツは足を止め、
「……僕は奴と、皇帝とカタをつけにいく。僕が先陣を切れば士気も上がるだろ?」
「それはそうですが、はい。大丈夫ですか? いくら貴方が強くてもあの大軍に正面から突っ込むのは無謀な気がします、はい」
フェリックスは眼鏡をクイッと持ち上げながら直截な意見を述べた。フリッツは階段の半ばから振り向いて苦笑いを浮かべる。
「いくらなんでも正面突破なんてしないさ。オズの協力もあるし、作戦だってちゃんと考えただろ?」
「ええ……まあ、私は私の仕事をしますので、はい」
フェリックスはまだ少し気掛かりそうだった。だが、敵はまさに目前に迫っている。これ以上現状を悲観していても仕方がない。
「ああ、頼むよ」
「では、ご武運を」
フェリックスの敬礼を背に櫓を降りていく。下まで降りきると、すぐ側でセーナが矢の手入れをしながら待っていた。
彼女はフリッツに気がつくと、矢を矢筒に納めて立ち上がった。そして腰に手を当てて切り出す。
「私も付いて行くからね、お兄ちゃん」
セーナはフリッツの反論を許さないというような、いつになく毅然とした態度でそう言い放った。
フリッツもセーナがそう言うだろうな、とは思っていた。しかし、ここから先の戦いは熾烈を極めるだろう。
「いやでも……」
「『いや』も『でも』もないよ。私だってちゃんと戦えるもん。ウィルベルお姉ちゃんが邪龍と戦ったのだって、私と同じくらいの歳だったんでしょ?」
「まあそうなんだけど……でもやっぱり」
「過保護な兄貴は嫌われるわよ〜? 女の子の成長は男の子が思うよりずっと速いもんだしね」
うじうじと言い澱むフリッツに、横合いから第三者の口添えが加わった。そちらへ顔を向ければ、大きな古木の杖をついている金髪の魔女――オズがいた。
「オズ……そうは言っても心配なものは仕方ないだろう。戦場じゃあ、ずっと僕が側で守ってやれるわけでもないんだから。セーナに何かあったらウィルベルにも合わせる顔がないよ」
気を揉んで眉を八の字に下げるフリッツをよそに、オズはセーナの背中に回って、その両肩にちょこんと手を置いた。
「それが過保護だって言ってんのさ。この娘はもう守られるだけのか弱い女の子じゃないの〜。自分の身は自分で守れるわ」
「そうだよ! オズさんの言う通りだよ!」
オズとセーナの姦しい声に圧倒されて、フリッツはこれ以上なすすべもなく、いとも容易くやり込められてしまいそうだった。せめてもの抵抗として、
「ああ……分かった分かった! もう止めはしないけど、それでも無理はしちゃダメだぞ。これは熟練の戦士でも同じだ。戦場では引き際を見誤った奴から死んでいくんだから」
指を立ててそう諭す。セーナは分かっているのだかいないのだが、ブンブンと首を縦に振っていた。
ああ、不安だ。
「今日は私も付いてるんだから安心しなって。セーナちゃんのことは私がばっちりガードしとくからさ〜」
オズがローブの袖をまくって、そこから覗いた真っ白な細腕を叩いてみせた。
フリッツとしては魔女にセーナを任せることも複雑な心境になるのだが、一度信じると決めたオズを今更疑ってもしょうがない。セーナはよく懐いているようだし。
フリッツが「はぁ……」とため息を吐くと、セーナがパッと顔を空に向けた。
「あっ、お兄ちゃん。あれ見て」
ふと、セーナがフリッツの背中側を指差す。フリッツもそちらの空に目をやれば、ゆっくりと、細くたなびく煙がいく筋も立ち昇っていた。
「開戦の狼煙だ……僕たちも行こう」
フリッツの言葉にセーナとオズが頷いた。三人は駆け足で戦列の中央へと向かうのだった。
◆◆◆
――同刻。帝国陣地、あるテントの中。
光を遮る布が張られ、薄暗いそのテントの奥には急拵えの祭壇のようなものが鎮座していた。黒と赤の布で飾られたそれは、一見宗教の儀式に用いるもののようにも見えるが、実のところ――それは墓標だった。
その墓標の前に膝をつく男が一人。彼は一輪の白百合の前で静かに目を閉じていた。かつての名と過去を捨て、己の身、己の剣ひとつでユーヴィク帝国の皇帝へと成り上がった男だった。
「もうじき……すべてを終えられる。やっとだ。私は……使命を果たすことができる」
その呟きは誰に聞かれることもなく薄暗い静寂に解けていった。
名君としての治世や、暴君と呼ばれる侵略をしてもなお、彼を突き動かすものはこれまで一度として変わったことはなかった。
それは愛慕であり、愁情と呼ぶべきものだった。しかしそれについて知っているのは、それを秘める彼自身だけだ。
「待っていてくれ……母上」
清幽とした空気の中を泳ぐように、彼は粛然と墓標の前を後にした。その青灰色の瞳はある種の妄執的な決意を湛えていた。




