第三章♯7『勢いを増す種火』
――ユーヴィク帝国軍、後方部隊駐留基地。
「クソッ! これも腐ってやがる!」
悪態を吐いた兵士が、覗き込んでいた麻袋を蹴り飛ばした。その中身が泥の上へと散乱するが、それを気に留める者はいない。
もう何日もまともな食事を摂っていないのだ。元々兵士でもなんでもない一般人であった徴兵達の士気は限界に近づいていた。
これまで滞りなく本国から送られてきていた兵糧が、ここ最近は途絶えつつある。それどころか、腐った兵糧が混ざっていたせいで体調を崩す者が増え、野戦病院もパンク寸前だ。なぜだか季節外れに小麦が高騰し、金を積んでも品物を出さない商人が増えた。僅かに手に入れられたまともな食料は前線の部隊に優先して送られ、ここに残るのは家畜の餌同然の雑多なものだけだ。
徴兵の中には、食事の保証という条件のためにここまで付いてきた者もいる。そういった奴らは食料の供給が途絶えた途端我先にと脱走をしていった。本来なら脱走兵は死罪だが、それを取り締まるような人間ももうここにはいない。
現在、後方部隊駐留基地は無法地帯と化していた。残ったのは、身体を壊して動けない奴と、見知らぬ土地で生き抜く度量と勇気のない奴だけだ。
無力感に押しつぶされ、座り込んだ兵士が顔を見上げれば、そこには大量の金貨を積んだ荷馬車があった。
遠征が始まった時には、その金貨を見て希望に胸を膨らませていたものだ。しかし今は虚しさを覚えるだけである。戦場を知らない徴兵達は簡単なことに気づかなかったのだ。
――金貨は食えない。
腹を満たすのは食い物であって、金貨ではない。今あそこに積まれているのは黄金色をした石ころに過ぎないのだ。
◆◆◆
フリッツとセーナが国父ガロンと共にオトラキアの戦士を引き連れてルクセンに戻ったのは、オトラキアを出発して四日後のことだった。
戦士達を宿舎に案内してから、二人はまず七賢決議会に報告を、と光の階を登っていた。
「フリッツさん!」
玉座の間の扉の前でそう呼ばれ振り返ると、そこにはエミールとヴィクターの姿があった。予定通り、二人ともルクセンに戻っていたようだ。
フリッツはエミールの計画についての質問をなげかける。
「こっちは上手くやったよ。そっちの首尾はどうだ?」
そう聞いたが、エミールの落ち着いた表情を見ればその答えは明らかだ。彼はにこやかに笑みを浮かべる。
「中でお話ししますね。エマさんへの報告もあるので」
そうか、と頷いて四人で中へと入る。今日は珍しく、同行しているヴィクター以外の面々ではあるが、円卓の全ての席が埋まっていた。フリッツの知る限り、邪龍戦争時にウィルベルの処遇を決めた時以来ではないだろうか。
「おかえりなさい、みなさん。あら、ウィルベルさんは?」
最も玉座に近い席に座るエマが、四人の顔ぶれを見渡して言った。それにはフリッツが答える。
「ウィルベルはストラに向かいました。まぁ、じきに戻るでしょう」
「なるほど。ではまずフリッツさんと、エミールさんのお話から聞かせていただきましょう」
どちらから話すか、とエミールと少し顔を見合わせた。フリッツの報告の方が手早く済むだろうから、さっさと名乗り出る。
「じゃあ僕の方から。えっと、無事にオトラキアの協力を得ることができました。すでに戦士達がルクセンに到着しています。元々戦闘民族ですから、すぐにでも出陣できるとのことでした」
「素晴らしい。これで北部諸国はストラ以外の国の協力が確定しましたね。問題は南部諸国ですが……」
エマの視線がエミールへと移った。ヘイダル皇太子との取引は彼の手にかかっている。南部諸国の参戦もエミール次第というわけだ。
「計画は順調……いや、成功です。間諜からの情報によれば後方部隊の士気は壊滅的、脱走兵も出始めているそうです」
「現状を踏まえて、改めてクラマ皇太子殿に使者を出しました。きっと良い返事が貰えるかと」
エミールに続いて、彼に協力していたヴィクターがそう付け足した。
「ふむ……脱走兵となると周囲の住民への略奪などが気になりますね」
「その辺りは"夕霧"のワイルズさんにお任せしています。脱走兵が野盗化するのを防いでくれているはずです」
その懸念にはエミールが答える。
"夕霧"の団員にはエミールに力を貸すようにと告げていた。しっかり働いていたようだ。
「ふむふむ……どれも恙無く進行していますね。皆さん、よくやってくれました」
エマの労いを受け、さてこれでお開きになるかといったところで、エマの側近が彼女に何事か耳打ちをした。途端にその表情が険しいものになったので、何事かとフリッツ達は立ち止まる。
「皆さん……悪い報せです」
エマはそう切り出した。この状況、このタイミングでの悪い報せという言葉に緊張が走る。
「クラマ近くに進駐していた帝国軍が、後続部隊を放棄して進軍を開始したそうです。四日ほどでこちら側の防衛線に衝突するでしょう」
「何ということだ……南部の戦線はまだ万全の状態とは言い難い。あの状態で帝国の正規兵とぶつかるのは避けたいが……」
アルヴィンがそう唸った。
これまではとにかく人手を集めるだけで精一杯だったのだ。作戦立案や布陣の確認までは手が回っていない。いわば数だけを揃えた烏合の集という状態だった。
「フリッツさん、南部戦線にはすでにヴァイスランドの先遣部隊とローレライ、シラの援軍が到着しているはずです。急ぎ戦線へ向かい、総司令官の任をお願いします!」
「えっ、僕がですか!?」
突拍子もない指令にフリッツは素っ頓狂な声をあげた。数万規模の戦いの指揮なんて、当たり前だが執ったこともない。総司令官なんていう役目が務まるとは思えない。
腑抜けた反応のフリッツにエマが迫真の語調で畳み掛ける。
「具体的な作戦立案は現地の指揮将校に任せてください。しかし、友軍を取りまとめる象徴としての役目は貴方にしか出来ません!」
たしかに、そういうことであればフリッツにも出来そうだ。その役目に最も適任なのは自ら北部諸国を周ったウィルベルなのだろうが、彼女の帰還を待っている時間の余裕はない。
「……分かりました。すぐに向かいます!」
こうして、フリッツはセーナを引き連れ北部連合軍の防衛拠点に向かうのだった。戦の種火は確実にその勢いを増してきていた。




