第三章♯5『盤のゆくえ』
ウィルベルは豪奢な客室のソファで頭を抱えていた。
どういうわけか、戦盤の勝敗で結論を出すことになってしまった。いやそれ自体は別に問題ではない。問題はその戦盤で対局するのがウィルベルだという事だ。
ホルター氏は女王の隣に席を並べていた市長の一人。おそらく戦盤の名手で、その実力はヘルマンと同等のはずだ。であればウィルベルにはほとんど勝ちの目はない。
唸るウィルベルに、客室を訪ねてきていたヘルマンがにこやかに声をかける。
「まあそう深刻に考えずに。戦盤はあくまでも遊戯です、楽しめば良いんですよ」
「……そうは言ってもですね。負けるわけにはいかないんです」
負ければ連合軍の戦力を国単位で損なうことになる。その分だけ戦いが苦しくなるのだ。それにオトラキアに向かったフリッツは自信満々な様子だった。きっと交渉を成功させるだろう。ウィルベルの方が失敗しているようでは情けない。
シャルとロトも頭を抱えるウィルベルを鼓舞する。
「ベルならやれるって!」
「日時はこちらが指定できるんですから、今から猛練習しましょう。私も応援します!」
「でも……」
戦盤が一朝一夕ではどうにもならないことはすでに身を持って感じている。ホルターに勝利できる実力を付けれたとして、どれだけの時間がかかることやら。
「私もお手伝いさせていただきます。元はと言えば私が女王陛下にウィルベルさんのことをお話ししてしまったのが原因なのです。それで指し手としてのウィルベルさんに興味をお持ちになられてしまいましたから」
「……勝ち目はありますか?」
「ええ、十分に。指し手にはそれぞれ個性というものがあります。盤上の駒という限られた領域で無限の道が生まれるのは指し手の個性によるものです。ホルターとは長い付き合いですから、彼の個性……言い換えれば隙や弱点をお教えできると思います」
たしかに実力的にも時間的にも正攻法でいくわけにはいかない。搦め手としてヘルマンの助言を得られるのであれば、これ以上ないメリットとなるだろう。勝ち目が僅かでもあるとすればこれしかない。
「……分かりました。でも私たちには時間がありません……一週間です。それでホルターさんに挑戦します。それで勝てなければ、それまでです」
「やりましょう! 私も久々に燃えてきましたよ!」
ウィルベルはヘルマンと握手を交わした。
その輝く目を見て察する。この国の人はみんなこんな感じなのだろうな、と。本当に戦盤で頭がいっぱいで、そのためにもう感覚がズレているのだと。
ウィルベルもそれに毒されそうで、にわかにこの国が怖くなったのだった。
◆◆◆
――一週間後。
玉座の前に置かれた、黒曜石を切り出して作られた重厚な盤。それを挟んで向かい合うのはウィルベルとホルターだ。女王と他の市長達、シャルとロトが見守る中で、対局が始まる。
「それでは、尋常に……勝負!」
ドォンと太鼓が打ち鳴らされる。それを境に盤の周囲は静寂に落ちた。
先手はウィルベル。戦盤は先手の方がわずかに有利だ。今回は配慮の末に先手を譲られた形となる。
パチン。
一手目は定跡中の定跡。ホルターの返しの手もまた定跡。それにまた定跡で返す。しばらくはこの応酬が続く。
戦盤の特訓をするにあたり、ウィルベルが最初に始めたのは戦譜の暗記だった。過去のあらゆる戦譜に目を通し、戦いの道筋を確認していく。勝ちに繋がる道、負けに繋がる一手をとにかく頭に叩き込んだ。
だが全てを理解できたわけではない。対局が長引くほど、考えられる手も枝分かれのように増える。だから頭に入っている定跡は序盤から中盤までだ。それにたかが一週間では、どうやってもホルターが続けてきた数十年の時間を超えることはできない。
――パチン。
それまで淀みなく手を返してきたホルターの動きが止まる。
ウィルベルが定跡から外れる手を打ったからだ。定跡の打ち合いに勝ち目はない。であれば、頃合いを見て定跡から外れるしかない。ホルターを未知の領域に引きずり込むのだ。
彼の実力ならば、ウィルベルの手を無視して定跡に引き戻すことも可能だろう。しかしヘルマンは言っていた。「彼は情熱的な指し方をします。わざと定跡から外れるような指し方を、それも初心者から誘われたとあれば、必ず乗ってきます」、と。
パチン。
ヘルマンの言葉通り、ホルターはウィルベルの誘いに乗ってきた。ここからは定跡を辿れない、純粋な読み合いの勝負だ。きっと生意気な初心者を懲らしめるつもりで、この手にわざと乗ってきたのだろう。
パチン。
だがホルターにとっては未知の領域でも、ウィルベルにとってもそうとは限らない。先手を譲られること、定跡外の誘いに乗ってくること、それを想定していたウィルベルとヘルマンは、この時のために準備をしていた。
パチン。
定跡を外した一手。それは気まぐれによるものではない。ヘルマンと相談して決めた、狙い澄ました一手だ。ウィルベルとヘルマンはホルターとの対局の前に、その一手の先に続く盤面をみっちりと研究している。
つまりこの戦局において、経験値はウィルベルの方が上だ。
パチン。
一手ごとにおける、ホルターの思考時間が増えてきた。当然だ。盤面はすでに混迷に包まれて、一手の打ち損じによって形勢が大きく傾きかねない。しかしウィルベルの指し手は速い。この状況もヘルマンとの研究の中で幾度も登場している。最善手も悪手も頭に入っている。
後は根比べだ。
参りました、という声によって勝敗が決したのは、対局開始から四時間後のことであった。
ウィルベルは細く息を吐いて、掌で頬を扇ぐ。
「勝者……ウィルベル・ミストルート!!」
激闘の末、辛くも勝利を収めることができた。ヘルマンとの研究のおかげだ。
「いやぁ、参りました。私も読みには自信があったのですが、あのような盤面での指し合いは初めてのことで一本取られてしまいましたな」
「いえ、事前の準備あってのことです。定跡外の一手から続く盤面はヘルマンさんと何度も研究をしましたから」
「……なるほど、まんまと術中に落とされてしまったというわけですな」
苦笑するホルターの後ろから、喜色満面の女王陛下が近づいてくる。彼女はウィルベルの前までやってくると、
「素晴らしい対局だった、ウィルベル殿。此度の無理難題をよくぞ成し遂げたものだ。ホルターも良い粘りだったぞ」
対局した両者を厚く労った。
その心遣いはありがたいが、ウィルベルの目的は戦盤に勝利することで終わりではない。
「では約束通り……」
「無論だ。民草の中には反発も生まれるだろうが、そんな奴には今の戦譜を叩きつけてやろう」
わははは、と豪快に笑いながら女王陛下は去っていった。入れ替わるように、シャルとロトが近寄ってくる。シャルの方は眠たそうに瞼を擦っていた。
「おつかれさまです、ウィルベルさん!」
「なんかすごかったな……途中から寝ちゃってたんだけど、さすがベルだ」
「ありがと。さぁ、ついに国巡りが終わったわ。とりあえず一度ヴァイスランドに戻って――」
「皆さん、火急の知らせです!」
ウィルベルの言葉を遮るように、大慌てのヘルマンが飛び込んできた。彼の発言に、玉座の間にいた者全員の注意が集められる。
「――ユーヴィク帝国の本隊が、ヴァイスランド首都ルクセンへ向けて進軍を開始しました!!」




