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龍姫の叙事詩  作者: 桜庭楽
第三章 無音のアントラクト
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第三章♯1『舞台裏、開演前の攻防』

 ――クラマより少し南、ある街の市場。




「小麦一袋銀貨三枚! 正真正銘本物だよー!」


 ガッチリした商人の野太い声が通りに響く。彼は商品を積んだ荷馬車の御者席から、市場を行く人々に宣伝文句を繰り返す。市場なら当たり前の光景だが、人々から返ってくるのは当たり前ではない反応だった。すなわち――、


「銀貨三枚だと、ぼったくるのも大概にしろ!」

「例年の五倍近い値段じゃないか!」


 そういった類の野次であった。

 法外な値段をつける商人は相手にしない。それもまた市場の常識であったが、野次を飛ばす彼らにはそうできない理由がある。


「せめて銀貨二枚だ! それなら買う!」


「へっ! こっちは値下げなんぞするつもりはねえ、買わねえならすっこんでろ」


「ま、まて俺は買うぞ!」


 荷馬車の前に集まっていた人々の中から手が上がった。それを見て焦り出したのか、次々に手が上がっていく。ついには値切りをしていた者までそれに加わった。

 小麦は生活の生命線。それを確保できなければ、家畜の餌にするような雑多な穀物を食わざるをえなくなる。そうすると家畜の餌がなくなり、稼ぎ口と食い扶持を失うかもしれない。いくら高くても、買える時に買うしかない。

 小麦の価格はこれからも上がり続ける。それがこの市場に集まる売り手と買い手の認識だった。


 今にも喧嘩が始まりそうになっている集団を、離れたところから眺める男がひとり。男は同じく遠巻きから騒ぎを見物していた商人風の男に声をかけた。


「なあ、どうして小麦がそんなに値上がりしているんだ? 今年は凶作でもないだろう?」


「なんだアンタ……そんなこと商人の間じゃなくても常識だが、旅人か?」


 声をかけられた商人が男に胡乱な視線を向けた。


「ああ。しばらく一人で旅をしているから、世の事情にも疎いもんでな……」


「なら知らねえのも無理はねえか……二ヶ月くらい前のことさ、南のユーヴィク帝国がクラマに侵攻したんだ。これからヴァイスランド相手に戦争するらしい。戦争で兵糧はなにより大事だからな……帝国軍が国中の小麦を買い占めてるらしい」


「そんなことになっていたのか……」


「アンタも旅の行き先には気をつけな。下手すりゃ戦争に巻き込まれるぞ」


「分かった、ありがとう」


 男は感謝を告げて、商人へ向けてコインを弾く。受け取った彼はそれを見てギョッと目を開いた。


「これ……っ、金貨だぞ! 手間賃には……」


 多すぎねえか、と言おうとしたところで、男の姿はすでに消えていた。




 ◆◆◆




 机の上に丁重に置かれた漆黒の石、リンカイトが淡く発光する。それに気づいたヴィクターは同じ部屋にいる商人へと声をかける。


「カインからの定期連絡ですね、エミールさんもこちらへ来てください」


「あっ、はいただいま!」


 山積みにされた書類から顔を覗かせたエミールがドタバタとヴィクターの側へ移動する。ヴィクターはリンカイトをコツンと小突いた。


『……カインです。聞こえてますか』


「ああ、大丈夫。報告を」


『三つほど市場を回りましたが、どこも小麦の高騰は帝国の買い占めによるものだと考えていました。相場は例年の四〜五倍といったところです』


「小麦以外の……雑多な穀物は出回っていましたか?」


 リンカイト越しの報告を受けて、エミールがそう質問をする。彼の予想によれば、そろそろ主流品以外の流通が始まるはずなのだ。


『粟や稗が少し。元々生産量も多くはないのですでに高騰しています。小麦の半値くらいです』


「分かりました、ありがとうございます」


「カイン、君はもうしばらくそこに残ってくれ。帝国がこの事態に対して動き出したら連絡をしてほしい」


『承知いたしました……では失礼します』


 リンカイトが光を失い、音声も途切れる。

 ここまではエミールの予想通り、計画通りに物事が運んでいる。帝国に企みを勘付かれている様子もない。エミールは確かな手応えを感じていた。


「エミールさん。すでに我々は小麦を中心とする主要穀物の六割近くを掌握しています。すぐに動かせる予算も尽きかけていますし、そろそろ次の段階の最終確認をしましょう」


「……そうですね。そちらの策の準備も順調に進んでいます。でもこれを最大限に活かすには帝国軍の補給路の破壊が必要ですから」


 エミールは書類の山から計画表を抜き取った。幾度もメモが付け加えられ、暗号のようにさえ見えるこれの全容を理解できるのはエミールとその協力者であるヴィクターだけだ。


「そちらには"夕霧"の部隊が向かいましたから、補給路の破壊自体は心配しなくて良いでしょう。問題はタイミングと、すり替わりが成功するか否かですね」


「そこについては信じるしかありませんけど、万が一失敗した時のためのプランもぬかりありません」


 エミールが計画表を指差す。

 基本的な作戦はこうだ。帝国軍は大量の兵士を抱えているから、大量の兵糧を必要としている。それを賄うため、帝国軍の前線部隊は貨幣を持ち歩いているということは調べがついていた。実物よりも貨幣のほうが移送の面でメリットが大きいからだろう。現在の季節はちょうど小麦の刈り入れが終わった頃、金を積めばいくらでも小麦が手に入る時期でもあった。


 エミールはそれを逆手に取る。帝国軍に先んじて、一帯の小麦を買い占めたのだ。もちろん、エミール個人にそんな財力はない。そこでフリッツを通してヴィクター・ヴィリアースに協力を要請した。ブラオエの領主として莫大な資産を有する彼の力を借りて、買えるだけの小麦を買い占めた。これにより帝国軍の兵糧を削る。ヴィクターの部下達を市場に忍び込ませて、カモフラージュのため買い占めに関する偽の情報も流布させた。ここまでが第一段階だ。


 しかし、まだ本国からの補給がある。これを封じなければ、兵糧攻めとはいかない。そちらには武闘派の"夕霧"が向かった。今は彼らの報告を待っている状態である。その報告を受け次第、次の一手を打つ。


「この策が決まれば趨勢は大きくこちら側は傾きます。もしかしたら軍隊が対峙する必要もなくなるかもしれません。ゴーサインが出たらすぐ動けるように手配しておきましょう」


 何者でもないエミールのことを信じてくれたフリッツのため、ヘイダルのため、惜しみなく協力してくれているヴィクターや"夕霧"のみんなの為、失敗するわけにはいかない。足りないと自覚している頭をフル回転させて、なんとか望みの結果を得る。それがエミールの商人魂だ。

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