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旅行体験記

「憧れの槍へ」

作者: 凡 徹也

旅行で奥飛騨を訪れた時に、初めて見て一目惚れした「槍ヶ岳」。

いつかあの山に登ってみたいと、憧れ続けたその山にいよいよ登れるときがやって来た。一泊二日の強行軍その山の頂を極めたその顛末の体験記のお話しであります。それでは、行ってきまーす。

 30年ほど前の事、観光で訪れた奥飛騨のロープウェー山頂駅の展望台から僕は初めて北アルプスの嶺を眺めた。その日は快晴。どこを見回しても絶景だった。眼前には笠ヶ岳、後ろには西穂高。ぐるりと深い緑に囲まれ、スカイラインが天空へと続いている。その峰の中に際立って目立ち聳える尖った岩峰があった。それが僕と槍ヶ岳との出逢いだった。格好いいフォルム。日本で一番イケメンな山。その後幾度となく信州を訪れる度々必ずこの山を眺望の中で探した。そしていつしかあの山の頂に立ってみたいと思うようになっていったのである。

 其れから十数年経ちその願いが叶う日がやって来た。9月中旬の某日、夏山の喧騒を過ぎ、紅葉の盛りにはまだ早い時期で、山は穴場の様にひっそりとして静かな時だった。前夜に新宿から夜行のバスに乗り込んだ時はどしゃ降りの雨だったが、朝に上高地へと到着した時にはその雨も嘘の様に止んでいて空は晴れ渡っていた。到着後、少しだけ待ってから6時にバスを降り立った上高地のターミナルは、ひんやりとした清らかで透明感のある空気で充ちていた。売店に立ち寄り、昼の弁当を買い込んでから入山の手続きをする。受付をした山岳指導のおじさんが「仕事サボって俺が代わりに登りに行きてーよ。」と、僕に愚痴る言葉をぶつけてきたので、思わず笑ってしまった。

 30分程、身体を高度に慣らし、準備を整えていよいよ歩き出す。まずは、横尾迄の3時間弱。梓川沿いの平坦な道を進んで行く。廻りのダケカンバの樹林が美しい。明神、徳沢を過ぎ、足の動きがリズミカルになった頃、横尾に到着した。新築の山荘が、緑に映える。平日だというのに、結構人が多いようだ。僕は辛うじて空いていた片隅のベンチへと腰掛け、持参したおにぎりで朝食にした。この横尾で山道は大きく2本に分かれる。目の前の橋を渡れば涸沢や、奥穂高へと向かう。槍へは来た道を直進する。僕は簡単な食事を済ますと登山道を直進した。

 樹林帯が続く中、途中の川のせせらぎの中に、槍見ヶ原がというポイントがある。ここからだけ奇跡的に槍の尖端が見えるというので立ち寄ってみた。空が霞む中に、小さな灰色三角形の点のような穂先が辛うじて見えた。今からあそこに行くんだと意気も上がり、記念のシャッターを切った。先へと進むとやがて徐々に勾配はきつくなり、少し汗ばんできて息が切れだした頃、槍沢の小屋に到着した。

 この小屋は、日本で二番目に出来た由緒ある営業山小屋である。そこから少し登ったところにあるテント場で昼食にする事にした。持参のコンロで湯を沸かし、インスタントのコーヒーを溶かす。疲れを取るため多目の砂糖を入れ甘くする。辺りに香りが漂って、気持ちも身体も癒してくれる。朝、購入した弁当を広げ、箸を口に運んではコーヒーを啜る。生き返る気分で大きなため息を付くと、鳥の囀りが聴こえてきた。本当に気持ちが清々しい。側に腰を下ろしていた中年の山ガールが、僕に梨を薦めてくれ、有り難く戴いた。彼女は今日ここで一泊するという。僕は日程に余裕が無いので今日中に山頂を目指す。御礼を言って立ち上がり、再び歩き始めた。

 目指す槍は、未だ全く姿を見せてくれない。U字谷の槍沢をひたすら登って行く。最後の水場を過ぎた辺りからいよいよ勾配が急になった。まだ見えぬのかと何度思っただろうか?。いい加減嫌気が差して来た頃、道が大きく回り込むと、槍の穂先は忽然と姿を現した。異様な程大きく聳え立つ三角錐の巨岩。その姿に圧倒され暫し足を止め、ボーッと見詰めた。胸が高鳴っている。全身にアドレナリンが充ち渡る。それこそ、淡い初恋の相手に逢えた時の気分に似ている。僕は我に返って再び登り始めた。足は軽やかだ。いよいよ槍沢の上部に達すると、樹木はすっかり無くなり、岩稜だけの世界になった。山頂は、すぐ真上に見えている。もう手が届きそうと思えるが、九十九折の道を進めど進めど辿り着かない。軽やかだった足取りも辿々しくなって、息が切れて三歩進んでは一休みを繰り返す。身体がバテて言うことを聴かなくなって来た頃、槍の肩の小屋の赤い屋根が見えた。後少しだ!と自分を奮い立たせて、やっとの事で「槍ヶ岳山荘」に到着した。

 時刻は午後2時。予定より一時間以上早い到着だ。逸る気持ちを抑えながら受付で宿泊の手続きをする。「随分早い到着ですね」と主人に言われ「自分でも何故こんなに早いのか不思議です」と答えた。荷物を所定のスペースにとりあえず置いて小屋の前のテラスに出て、堂々とした山頂の偉容を仰ぎ見た。バックの空には雲1つ無く、限り無く澄みきった青空にシルエットがくっきりと浮かび上がる。下方からは、小屋を目指して登ってくる人達が続々と見えている。また、上への道には、頂を目指す人達が点々と見えている。僕は今の内に山頂へ登る事に決めた。

 山頂迄は標高にして後120m、多くの梯子が架かる道で往復1時間程である。槍の肩から見上げると多くの人が岩に取り付いている。後に続けと僕も岩場に取り掛かった。思ったより奴は歪な形だ。それでも天然の巨大なピラミッドは、とてもいとおしく感じ、1歩1歩噛み締めるように登っていく。途中に何本もある垂直に架かる梯子が結構怖い。上を見上げ空へと続く尖端だけをしっかりと目指して更に登って行く。最後の長い鉄錆び色の梯子を登りきると、山頂へと辿り着いた。遂にやった!標高3.180m。日本で第5位の高さだが、存在感はピカ一で、富士山をも凌ぐ。日本のマッターホルン、山岳会のスーパースター。その山の頂点に間違いなく僕は今、立っている。思わず山頂で小躍りした。興奮している僕を見て、山頂にいる30人程のメンバー達が冷めた視線で笑った。山頂は自分が想像していたより広く、混雑時には100人以上の者がここに溢れ、登山道には、順番待ちの列が出来るという。空いててラッキーだなと僕は伸び伸び両手を広げ全方向を見渡してから、どっかりと腰を降ろした。360度、どの方向をみても視界を遮るものは何にもない。直ぐ眼下には「アルプス一万尺」で有名な小槍が見える。とてもじゃないがあの上で踊るなんて気違い沙汰だなと思った。

  30分程山頂の空気を楽しんでから小屋のある肩へと下りた。今夜の指定された寝床へ荷物を片付けてから夕食迄の時間を楽しもうとテラスの席でコーヒーを注文した。名物の焼きたてパンはとっくに売り切れていて残念だ。コーヒーが運ばれて来てゆっくりと啜る。飲みながらも槍の穂先を見ていると、絶え間なく続々と小屋へ到着する人々と言葉を交わす。テラスにも人が溢れ出してきた。小屋には最大650人もの人が泊まれるので混雑は仕方ない。僕は再び山頂を見上げてみた。夕暮れ迫る山は、僕の事を誘っている様に思え、もう一度山頂へと向かう事にした。どうやら槍の中毒なったらしい。さっきより軽やかに、浮かれた気持ちで山頂に辿り着く。山頂は、先程より混んでいた。腰を降ろした僕の顔を強い夕暮れの陽射しが照らしてくれる。光は強く眩しいが、肌は寒くも感じた。気温は低くなってきている。頂上で、並んで座っていたテント泊の青年が、話しかけてきて仲良くなり、一緒に肩まで降りた。夕食後にテントまで遊びに行くことを約束して山小屋へと入った。 

 夕食は、雲上とは思えぬ程の立派な内容だった。一昔前の山小屋と違って、ソーラー発電の灯りが煌々と食堂を照らす。テーブルには、100人以上の客が座り賑やかなものだ。パット目では、街中の一般食堂と何ら風景は変わらない。会話に花が咲き、、お互いの山自慢の話は尽きない。綺麗で暖かい空気がここには流れていると感じた。

 夕食後、僕は売店でよく冷えたビールと、白ワインを買い、ヘッドライトを点けて小屋の外の暗闇へと歩み出た。辛うじて見える足元に気を付けながら雲上の細い道を数十m程歩き、見えたテントに声を掛けた。知り合いになった青年は快くテントの中へと誘ってくれた。テントの中は意外と広く、3人は裕に寝れる程である。彼は色々なおつまみを広げてくれた。僕は手土産を差し出し、乾杯した。何の乾杯かは、全く解らない。けど、今この場所に居る自分達に乾杯なのだ。二人で山の話や自身の境遇など、大いに語り合いそして大いに笑った。僕は山小屋の門限ギリギリまで滞在し、最後に明朝の夜明け前、山頂にもう一度一緒に登ろうと約束し、寝床へと戻ると、吸い込まれる様に眠りに落ちた。

 翌朝、まだ暗黒の時間に二人は小屋の玄関の前で合流し、山頂へと向かった。前日2回通った登り道は、身体で覚えていた。月明かりとヘッドライトの灯りで、よじ登る様に標高を上げて行く。一番乗りだと意気込んで最後の梯子を登りきると、何と山頂には先客が一人居た。「こんばんは!」話しかけてきたのは若い女性の声だ。聞いてもいないのに午前3時からここに居ると、その、おそらく大学生らしい女性は、自慢気に鼻を高くして僕たちに言った。負けん気の強い女性だ。このくらいでないと、きっと名登山家になどなれないのだろうと、心の中で呟いた。3人は其々気ままに横になり、天空の星達を眺めた。無数の星と、雲のように見える天の川がくっきりと見える。ずっと遠くの地平線近くでは幾つかの雷が光っていて、それが線香花火の様に見えた。音の全く無い世界では、空気も固まって動かず、独特の緊張感がある。それが夜明けが近づくと伴にだんだんと緩んで行くのが解った。山は暗黒の中から濃い紫色に浮かび上がり、茶色へと変わって行く。空が段々と白んで来ると、山頂へとやって来る人も増えていった。数十人が見守る中、瞬間的に一筋の輝きが差した。一万尺から見る御来光は、荘厳な儀式のようだ。シャッターを切る音が山あいに鳴り響いた。陽が当たり始めた眼下の小屋や、岩肌はオレンジ色に染まりモルゲンロートのカーテンは拡がって行く。山は燃えているように眩しい光輪を放ち僕たちを包んでくれている。この頂から、この時間から離れたくなかった。ずっとこのままで居られたら… 其の気持ちを心に閉じ込め、無念の下山で現実へと戻ろう。それでもこの山で過ごしたこの時間は、永遠に僕の記憶に残るだろう。

この山を見たから、僕は登山などと言うものに手を出すことになりました。いわば、人生の出合いの一つであった訳であります。自分よがりの山の思い出ではありますが、少しは槍ヶ岳の魅力が、伝わったなら幸いです。 

 じつは、この後の下山途中、「天狗原」という場所でこのままここでずっと生活したいと、倒錯の世界に入り込み、座り込んでしまい、「マウンテン、ハイ」という気分もあじわいました。その所為で帰りのバスに乗るため、横尾から上高地まで、走る事になり、やっとの思いで間に合ったのですが、気がつけばあしは、豆が多数潰れていて、今度はバスから降りれない、歩けない状態になってしまい、這いつくばって自宅まで帰り着いた苦い思い出もありますが、記憶はあくまでも美しいもので、と言うことで本文にはその事は触れませんでした。本当に今となっては、輝かしい宝物のような体験談となりました。ありがとうございました。

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