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さくら

作者: 惠元美羽


「空ってこんなに青かったのね」


腕の中のその人は、微かな声で呟いて笑った。頬に掛かった黒髪をそっと指で払う。僅かに触れた頬は柔らかく、そして冷えていた。


「こうして貴女に触れる日がくるとは……」

「私も思ってもみなかった」


あなたの手は温かいのね。

そう言って笑うその人は不思議と幸せそうで。それ以上は何も言えず、ただ頬にそっと手を当てた。温もりを求めるかのように、手に擦り寄るその体温がひどく愛しい。


「こんな時なのに、どうしてかしら。……私、幸せだと思うの」


ねぇ、憶えてる?

吐息だけで紡がれた言葉に、脳裏に蘇る光景があった。



満開の桜。花弁散る中、煌びやかな着物が庭園を鮮やかに彩る。

まるで極楽のような極彩色の風景の中、一際目を引いたものがあった。


「美しいもので御座いますな」

「ええ。本当に」


はらはらと風に舞う花弁にそっと伸ばされた手の白さが眩しい。


「極楽とはこのようなものなのでしょうか」


戦場でしか逢える筈のなかったその人がそこに居た。

艶やかな黒髪が紅の打掛うちかけに良く映える。もはや見慣れてしまった勇壮な武者姿との差異に驚きながらも、これが本来の姿であったかと内心で苦笑した。どうにも敵として対峙した時間が多すぎるようだった。


「真の極楽がどのようなものなのかは存じ上げませぬが、そのうち垣間見とうは御座いますな」

「あら、極楽に行けると御思いで?」

「まさか」


見られるものならば見てみたい。

けれども、この心が望む極楽はただひとつ。叶わぬ事など元より承知で、それでも焦がれて止まぬ。

その時、艶やかな笑みを浮かべるその人に向けた顔はいったいどのようなものだったのか。


「この手を血に染めた日より、最期に行き着く先は地獄と思うております」

「では、どこで極楽を垣間見ると?」

「……出来る事ならば、貴女を通して」


ざあ、と音をたてて風が吹き抜けて、散る桜の花弁が二人の周囲を隔てる。

一瞬、世界が止まった気がした。


「……酷い人。本当に」

「貴女こそ。他人の事は言えないのでは?」


泣き笑いのような表情を浮かべて、見つめてくるその瞳が揺れている。

互いに、言えぬ言葉があった。

言葉にすることを赦されぬ心が、あった。


「……何故、私達は敵同士なのでしょうね」


それが全てだった。この時代に生まれた者達が背負う業とも言えるかもしれない。


「互いに鬼と呼ばれる身であるに……世の中とはままならぬ事ばかりだわ」


名のある武家に生まれ育ち、幾多の出来事を経て戦場に立った己自身を悔いはしない。たとえ、血に塗れたこの身が鬼と呼ばれようとも構わない。

そこにはいつだって己の信念がある。守るべきものがある。戦場に生きる者同士、お互いに譲れぬものがある。

けれども。そう、出来る事ならば、


「ただの男と女として逢いたかった」


呟いたその人の声はほんの微かであったけれども、確かに聞こえた。

胸の奥が震える。もしや、この人も同じ想いを抱いていたのかと。酷く浅ましく、都合の良い思い込みかも知れない。けれども、もうそれでも良いと思った。

音も無く白い頬に零れ落ちた一粒の涙を、そっと指で拭って囁く。


「では、次の世で……貴女がそう望むならば」


触れたのは、ほんの一瞬。

その人は、まるで花が綻ぶかのように微笑んだ。





「あの日の桜は、本当に美しいものでした」


そう呟いて虚空を見つめるその目は、今、何を映しているのだろうか。同じものを見てみたいと願う己は心底愚か者だ。


「あれから幾度、も、季節が、過ぎて……」


浅い息で言葉を紡ぐその人を、止める事は出来なかった。瞳だけがギラギラと燃えて、その人の生を感じさせる。それはまるで、燃え尽きる寸前の蝋燭のようで。


「……もう、あの春が遠い」


絞り出すようにそう言って、零した一筋の涙。

それはきっと、今まで決して見せる事のなかったその人の本音なのだろう。


「次の世とは……些か遠くはありませぬか?」

「そうですな」

「ええ」


ですから、とその人は凄絶な笑みを浮かべて吐息で告げた。


「地獄でお待ちしております」


それが、最期だった。







あれから、また幾度も季節は過ぎて再び桜の季節が巡ってきた。小さな墓石に彫られた懐かしい名前を知る者も、僅かとなった。


「父上、どうなさいましたか?」

「いや……ぼんやりとしておった。どうもこの季節はいかんな」


桜も、青空も、彼の人を思い出させるばかりだ。幾年が過ぎようとも彼の人の面影は消えず、むしろますます色鮮やかに脳裏を過る。

まるで忘れるな、と囁かれている気分だ。否、忘れたくないとの己が願いの具現と言った方が正しいのか。

不意に、息子が呟いた。


「……父上、私は春が嫌いです。桜も嫌いです。」

「そうか」

「何故、そのような瞳で桜を見るのですか?

私には、父上の見えているモノと違うモノが見えているとしか思えないのです」


桜に何を見ているのですか?

息子の問いに、答えることはできない。何と無く、教えてはいけない気がした。息子は若い日の己によく似ていた。


「ずっと、待たせてしまっている御人がいるのだ」

「……何故、逢いに行かれないのですか?」

「まだその時ではないらしくてな」


そう言って、男は苦笑した。

時代は、あの乱世から遠く離れつつある。いずれはあの戦乱の日々も忘れ去られ、流された血の記憶も薄れていくのだろう。

ああ、もうすぐだと男は思う。

もうすぐ、己も彼の人のもとへ逝けるのだろう。随分と長く待たせてしまった。そろそろ待つ事にも飽いた頃なのではなかろうか。なにせ、おとなしやかな姫君では居られなかった御人なのだから。


「……早く、お逢いしたいものだよ。まったく」

「もしや、相手は女人ですか?」

「おや、どうしてそう思う?」

「まるで恋煩いでもしてるようでしたから」

「はは、言うようになったな」


……そう。これは、恋だ。

叶わなかった、けれどいずれ叶うだろう、恋。

きっと誰にも理解はされない。けれど、確かにそうなのだ。

刹那の時を生きていた。その身体から夥しい血を流し、その命を削りながら、その魂さえも欲して。

……ただ、愛した。


「……まこと、美しい桜であることよ」


薄紅が青空を舞う。

まるで極楽のような光景を目に映しながらも、脳裏に過るのは彼の姫の凄絶な最期の笑顔。

戦世を知らぬ者達には決して解らぬ、触れられぬ、そんなただ一つの恋を。

胸の中に抱いて、男もまた微笑した。


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