No.2 文字から見る人物像程、興味深く、当てにならないものはないという序章
整頓された自室にもどると、早速ノートパソコンの電源を入れる。別に親の忠告を無視したいという訳ではないけれど、ネットの世界ほど僕が落ち着く場所は、他にないのだ。そんな世界の魅力ほど捨て難いものはないし、何より勉強もきちんとして、テストなどの点数も周囲に劣らない程度にとれている。特別にこれといって打ち込む趣味を持ち合わせていない僕には、文字通りキーボードからパソコンの画面に文字を打ち込む事が、なによりの楽しみだった。
新しいパソコンの置かれた勉強机の正面の椅子に座った僕は、かすかな機械音をたてながら起動する、最新型である文明の利器のディスプレイを見つめる。冷ややかな漆黒に染まり、全くの無であった画面に、鮮やかな植物たちのデスクトップが現れると、僕は慣れた手つきでネットを開いた。以前に比べ、大分軽やかに動くようになった指を操り、検索枠にいつもの掲示板の名を打ち込む。家族に見られてしまう可能性を気にかける為に、僕はそのサイトを「お気に入り」などに登録していないのだ。
クリックしたページを読み込むまでの僅かな時間に、次に映し出される言葉を予測する——いや、しようとする。だが、僕にはやはり、その答えが見えなかった。時間の短さのせいではなく、単に予想出来るだけの知識と経験の持ち合わせがないのだ。「オフ会をしよう」という誘いに、インターネットの住人達がどう応えるのか——最近、掲示板へ参加し始めたばかりの僕に、容易に想像出来ることではなかった。
そして僕は、それを理解しているが為に、無駄な思考回路を遮断し、文字の映し出されたディスプレイを見る。自らの内の思考より、網膜に映しだされる現実の解析に脳を使えるように。
無駄な飾りや広告のない、なんとも殺風景な掲示板。しかしそこには、デスクトップに映る鮮やかな花々には無い、温かみを感じる。それは、そこに綴られた文字のせいなのかもしれないし、ここに書き込む人々の——少なくとも画面上での——内面というものの温かさを、僕が知っているからなのかもしれない。いずれにせよ、僕には唯一の安心できる空間だ。
しかし、そんな安らぎの空間は、とても普段通りとはいえない雰囲気に包まれていた。
僕と由衣さんを含む、全部で六人の常連メンバー達は、この掲示板で初めて上がった「オフ会」という話題に、高揚しているようだった。そんなメンバーの中で、ひときわ感情の高ぶりを露にしている人物の書込みが、視界に飛び込んだ。
『オフ会! すげえ、そんなの思いつかなかったな! さすが由衣チャンっ』
見るからに軽そうな文字の書込みの主は、この掲示板の盛り上げ役とも言える「海」という男。喧嘩っ早いところはあるものの、その陽気な書込みは、画面越しに見ている僕にも明るい気持ちを与えてくれる。ハンドルネームは漢字で「海」と書かれているものの、海のような落ち着いた雰囲気には似合わないと、僕らは皆、カタカナ表記で「カイ」と呼んでいた。はじめこそ「ひでえ!」などと大げさに嘆いていた彼も最近ではすっかりその呼び名を気に入った様で、自分からそう表記することもある。確か彼は、既に社会人だと言っていた。どんな仕事をしているのかは僕の知るところではないが、たとえ彼の日常が放浪の旅であったとしても、その自由さを知る此処の仲間達が、そう驚くことはないだろう。
そんな自由人ことカイさんは、一行目のテンションを保ったままという、僕にはとうてい真似出来そうもない語調で、更に続けていた。
『俺はモチロン参加するぜ! そんな楽しそうなイベントは外せねえなっ! 他の奴らはどうなんだよ?』
彼はその問いかけで書込みを終わっていた。僕は次なる返答を見る為、画面を下へとスクロールする。
『今晩は。君達、なんだか楽しそうなことを話しているじゃないか。オフ会というのは私も初めてだが、是非とも参加させていただきたいね』
カイさんの書込みとは打って変わった書込みの主は、この掲示板一の大人である、「仲谷」さんだ。
彼が「大人」であるというのは、此処の誰もが納得していた。年齢的に僕らの中で一番上だというのもあるが、口調からも読み取ることの出来る、その大人の落ち着きが最大のポイントだった。仲谷さんはなかなかの頭脳や知恵の持ち主のようで、この掲示板やそこに通う各々の間で困ったことが起きたとき、場合に合わせた、的確な打開案を出してくれたことが多々あった。由衣さんなどは、結構な頻度で仲谷さんに、宿題の質問などをしていた。彼は決してそれを断ることはないが、あくまでヒントを、という姿勢で教えているのが僕にもよく分かった。そのまま、丸写しできる回答を与えるのではなく、質問者が考え、自分の力を使って答えられるチャンスを作っているのだ。そんなことは一言も言わないが、僕や他のメンバー、そして由衣さんでさえも、そんな考えを理解しているのだろう。彼は、「これが答えだ」というような、単発的で、他の発想を潰してしまうような返答をしない。だからこそ、皆安心して、自分の意見や分からないことを晒すことができるのだ。
そしてその書込みの下には、仲谷さんとはまた種が異なる大人の雰囲気を漂わせる文字列——。
『いいわね、あたしも行くわ。可愛い由衣のお顔も、拝見したいもの』
妖艶に微笑む気配すら感じさせるこの発言は、「櫻子」というハンドルネームを操る女性。口調や本人の発言から女性であることは辛うじて判断出来るものの、それ以外の個人情報は全く分からない。以前カイさんが彼女に年齢を尋ねた時には、『女性に歳を聞くなんて、笑っちゃうわ。信じられない男ね』などと、冷ややかな言葉を返していた。直接言われた訳ではない僕ですら、妙な寒気に襲われるほどの迫力が、その言葉には含まれていた。普段から大人っぽく、品のある彼女は、そんな時ですらその姿勢を崩さなかったのだが、ある条件下では違った。その条件とは、彼女の「好奇心」を掻き立てるものの存在だ。自分の興味対象はとことんまで追求する——それが彼女のポリシーだった。なにかに興味を奪われれば、楽しげに、そして凄まじい吸収力を発揮し、それに夢中になった。その姿はまるで、新たな遊びを見つけた子供のようだ。その興味対象は、一時的にこの掲示板で流行った謎解きゲームであったり、最近のニュースの話題であったりと様々だ。しかし、常に彼女の興味対象であり続けるものが一つあった……いや、この場合は櫻子さん個人の「お気に入り」と言うべきか——それが由衣さんだ。まるで彼女のことを姉のように慕う由衣さんの素直さと、その愛らしさのせいで、目が離せないらしい。……念のためいっておくと、これは僕の憶測や想像、まして妄想などではなく、櫻子さん自身が過去に発言していたことだ。僕が由衣さんのことをそういった目で見ている訳ではないことは、ここで提言しておきたい。
『やめてくださいよー、櫻子さんっ! 私、可愛くなんかない!』
由衣さんはきっと、画面の前で慌て、赤面していたことだろう。櫻子さんはそういう反応を見て、また「愛らしい」と、からかうように言うことに、気付いていないのだろうか。
——と、そこまでの書込みを読み、全員がオフ会の誘いに対して「YES」と答えていることを再確認する。皆、元々仲のいいこのメンバーで会うことには、躊躇いがないようだ。
残る回答者は僕を含めて、あと二人——とりあえず、もう一人の返事を先に拝見しよう。幸いその人は、優柔不断な僕と違って、既に返答済みだった。
『悪いがパスだ。——というより由衣、行けないことなんて、誰よりも分かってるだろ?』
ここまでの流れにも全く流されない、強い意志を感じられる回答——「N」だ。Nは、この掲示板では現時点で一番年下と思わしき人物であり、しかし、それにも拘らず、孤高の存在だった。年上連中が何を言っていようと、自分の意見は貫き通すし、それでも自分に非があった場合——そんな場合は滅多にないが——は、それをきちんと認めた。Nの希望もあり、掲示板では皆呼び捨てで呼んでいるものの、僕やカイさんなどは、時折こちらの方が年下ではないかと疑ってしまう程の大人っぷりだ。何故そう感じる面子に、誰よりも——良い意味ではあるが——子供のような由衣さんが含まれないかといえば、理由は一つ、由衣さんとNが、現実での知り合いだからだろう。どんな関係なのかは僕らの知る所ではないが、Nの書込みからも分かるように、この掲示板だけでの繋がりとはまた違う、お互いのことをよく知っているようだった。本当に、謎な存在だと思った。現実がどんな人物なのか、一番想像しにくい人だ。
——とはいえ、オフ会に対する返答は、僕などよりもずっとはっきりしていた。
現段階で、参加の意志のある者は、Nを除く四人。彼らは皆、あと一人——僕の返事を待つのみとなっていた。
一人一人の返答を再度読み返しながら、思案する。
さて、どうするべきか……?
もう数時間前から考えている筈なのに、どうしても答えが浮かんでこない。「YES」か「NO」か、一言書込めば済むだけの話なのに、なかなか決断することができないのだ。
掲示板の仲間に会うことが、特別嫌だと言う訳じゃない。寧ろ、「会ってみたい」という確かな気持ちもある。しかし、素性も分からない相手と、会っても良いものだろうかという、まるで霧の中へ自ら迷い込んでいくかのような不安が僕を襲うのだ。それに、たとえ僕が参加を決意したところで、パソコンやネットの世界の、危険な面しか目に入っていない僕の両親が、参加を許可してくれるなどとは到底考えられない。うまく誤摩化して出掛ける他に手は無いだろう。
この「オフ会」に参加するということはつまり、僕が両親に嘘をつかなければならないということを意味していた。
家族と言えど、波風の立たないよう、親の言うことを聞きいれ、或いは、聞いているように立ち回って行動してきた僕にとって、そんな——嘘を吐いて出掛けるという行為は、並大抵の覚悟では出来そうになかった。
今、僕の脳内天秤では、掲示板の仲間に会いたいという気持ちと、親に嘘を吐きたくないという良心がどちらも溢れ出そうな程だ。釣り合いを示す針は止まることなく、常に不規則に振れているといった感じだ。こちらが重いかと思えば、あちらが重い、しかしそれは釣り合っているようにも見えて——釣り合っていないようでもある。
僕は、自分自身の真意も見えないまま、彷徨っているのだ。
このままでは決断することも出来ないと踏んだ僕は、最終手段に出ることにした。
机上にあった適当な白い紙の真ん中に、黒い鉛筆で一直線を引く。続けて、その線の左側に大きなマル印、右側に大きなバツ印を書き入れた。そして紙の真ん中に、先端を下にした鉛筆を立てると、その上部を、人差し指で支える。
——そう、この鉛筆が左、マル側に倒れれば参加、右のバツ側に倒れれば不参加という、いかにも原始的で運任せな決定方法を試みたのである。
このようなことを、己の行動を、こんな形で決めるのが馬鹿げていることなんて、僕自身が一番よく理解している。だが、運任せにでもしなければ、自分で「これだ」と選択出来ないことは、それより分かりきっている。
僕は大きく深呼吸をすると、目を瞑り、鉛筆を支える人差し指に力を込める。
鉛筆の木の中に、少しひんやりとした芯の感触。その一点に、意識を集中する——……。
そして、僕の指先から、鉛筆の感触が消えた。
同時に、カラン——という軽い音が、僕一人の部屋にこだました——。