No.1 食べる為の口であって、話す為の口でなくなるのが食事の時間
午後七時。
いつも通り、家族全員で食事を摂る。僕の家族というのは、父、母、一つ下の妹に僕を含めた、平均して現代日本に最も多いであろう構成だ。
それに何の不満がある訳ではないが、逆に何の有り難みも感じた事が無い。……いや、勿論、生活費の稼ぎだとか、毎日手作りの食事だとか、時折ではあるが役に立つ情報を教えてくれるだとか、そういった点で父、母、妹に感謝する事はある。だからこそ毎年、それぞれの誕生日や記念日には感謝の言葉、或いは、それに準ずる何らかの贈り物――多少安価ではあるが――は、欠かした事が無い。ただ、そんな感謝の対象は一般家庭にはよくある風景であって、その「よくある風景」自体が有り難い事だとは分かっているのだが、それ以上に思う所が無い。この親に育てられてよかった、この家族と生活出来て幸せだ、そんなしみじみとした感情は、全く浮かんでこないのだ。ただ今のまま、普通に生活出来ればそれでいい、というのが、今の僕の最低限かつ最高位の願いだった。
「――ねえ、真人」
「ん……何?」
突然、現実での名を母に呼ばれ、口に含んでいた味噌汁を、急いで胃袋へと流し込んでから反応する。自身の家庭について、前述のように考えているからといって、僕が所謂反抗期という小難しい時期に値している訳ではないことを、此処で宣言しておきたい。呼ばれれば返事をするのは当たり前であり、朝夕などの日常的な挨拶、会話はごく普通に交わされているのだ。……ただ一つの話題を除いた場合。
「真人、あなた――最近、パソコンに向かってる時間が長過ぎない?」
母が、僕と両親の中で持ち出されるべきではない話題を振ってきた。もっと正確に言えば、僕個人が、彼らとの話題に上げたく無い事柄だ。
とはいえ、その事を言われるであろうことは、名を呼ばれた時から予測出来ていた。母が僕に何かを注意するときや、僕がおかした失態にもの申すときには、大抵、今の様な低い声のトーンだったり、まっすぐに僕の目を見ようとするのだ。それが悪いという訳ではないが、僕は母のその仕草が苦手だった。「自分がこれから怒られる」と予想されることも、勿論理由の一つに上げられるが、更に大きな理由は別にある。……と、雑念にはキリが無いので、とりあえず僕も味噌汁の入った器を片手に、母と目を合わせる。父は我関せずとばかりに無言で食事を続けているし、妹はいい気味だとでもいうようにチラリとこちらを見、黙ってコップの緑茶を飲み干した。この調子では僕と母のワン・オン・ワン、直接正面対決となりそうだ。話題の転換には期待出来ない。
「そう、かな……。やることはやってるつもりなんだけど」
健全な男子高校生にしては、なんとも気弱な返答だ。自分でも情けなくなった。
「そりゃね、やってないとは言わないわよ、勉強も……入学後すぐのテストも、良かったものね。でも、最近……っていうのかしら、高校に入って、自分のパソコンを持ってから、浸りっぱなしじゃないの」
「勉強もしてるよ。授業だって聞いてるし――」
「あのね、真人」
反論というにはいささか頼りのない言葉を僕の口が発し終えるより前に、母がそれを止めた。
「あなた……、『 』――て、――――な――わ――ね……?」
母の口から出たその言葉は、口にするのも耳にするのも慣れていないからか、どこか不自然だった。――同時に、その言葉の表すものへの嫌悪感も含まれているように感じた。しかしその後半部分は、上手く聞き取ることが出来なかった。母の声が小さ過ぎるせいなのか、それとも――。
ただ、その内容は容易に想像することが出来た。だから僕は、先程までよりも掠れた声を気付かれないように、ただ一言、答える。
「……そんなもの、つまらないでしょ」
「そう……そうよね、ええ、そうよね」
母は、確認するかのように、「そうね」と小さく繰り返した。僕はじっとしていられなくなり、再び食事を口に運び始めた。――出来る限り、冷静に、自然に――。
「それならいいの。でもやっぱり、気をつけなさいね? 時間は無限にある訳じゃないんだから、有効に使いなさい」
「あ……うん」
「お父さんも、心配してるのよ、言わないだけで」
最後に母が、こっそりと、僕にだけ聞こえるように言った。僕は、こくりと頷く。そして、無言で食事を続ける父へ目だけを向けた。
とにかく今は、この場を離れたかった。パソコン云々の話をしたくなかったのもあるかもしれないし、逆にネットの世界へ早く行きたいと思っていたのかもしれない。
僕は残る食べ物を次々口へ運び、心の焦りを読まれないように気をつけつつ、既に僕の食事が全く残っていない皿を数枚手にして席を立った。
「ごちそうさま」