道続くままに
自分の存在意義を考えていたためしばらく活動していないためかイマイチな作品が出来ました。
最後まで読んでいただけると嬉しいです。
カツンカツンと、ガラスの上を歩く音がその暗い空間に広がる。
少年が歩く。歳は十五前後、幼げの残る顔に浮かんでいるのは絶望でなく、と言って喜びでもない。ただただ、静か。無表情、何も考えていない様にも見えるし、疑い癖のある者が見れば 『何を考えているのかわからない』 と言いたくなるまでに、その顔には何も感じ得るものがない。
彼の足元の地面は無色透明、傍目から見れば彼が空を歩いているように見えるかもしれない。その透明の床下に見えるのは蛍の光の様な淡い緑色の光源。頭上には鏡が張り巡らされ、寸分違わない彼の歩く姿が映し出されている。
この空間にいるのは彼一人、周りには誰もいない。そもそも彼はここに度々来るが、誰かを見た覚えなど無い。来てしまう。眠る毎に、ベッドで横になり数分ほど目を瞑ってから開くとここに立っている。初め、彼はここが夢の中だと思っていた。だがそれも、現実の自分の状況と後ろを振り返って見える景色の所為で、二度目の来訪からこの場所の意味を薄々だが感じていた。
少年が振り返る。その視線の先には何も無い。暗い、黒い空間。蛍の淡い光も天井の鏡も黒い靄で見えなくなってしまっている。少年は試しにその暗い空間に足を踏み出してみるが足場がなく、誤ってそのまま崩れ落ちそうになるところを、無理に後ろへ体重を乗せて尻餅をつくことでどうにか踏みとどまる。
何も無い空間がその先にあった。
進むことしか許されない道。
「……やっぱり」
少年が笑う。今まで無表情だった彼の顔にようやく色が灯る。喜色満面ではない笑顔。憂いのある笑顔を現す。
「これは、死ぬまでの道のりか」
少年が目を覚ます。見えるものは鏡に映る自分ではなく代わり映えの無い、白い病院の天井。身体を起こして窓の外を見る。青い空が広がり、キャッキャと芝生を遊び走る子供たちが見える。
季節は夏。もう何度目になるかわからない入院。彼らの様に走り回っていたのは果たして何年前か。そもそも友人と外へ遊びに出かけたのは数えるほどしかない。その度に迷惑を掛けた気がした。
扉が開かれて、白衣を着た専属医師と付き添いの看護師が入ってくる。体調はどうかと尋ねられ、いつも通りですと答える。看護師が雑談を交えながら少年の脈を計り、医師に報告した後、共に退室した。
また一人になった。彼の両親は共に働いている。少年の入院費が馬鹿にならないためだ。彼の兄も大学院生の道を諦めて早く就職先を見つけようと躍起になっている。
申し訳なかった。生まれたときから心臓に疾患のある身体が疎ましく。悪いのはこの身体だと責任逃れしたくても、結局は自分のモノだろうと落ち着いて自虐するそんな毎日。
いっそ死んでしまえばいい。少年は常々そう考えていた。そうすれば家族にも心配をかけずに、こんな身体でも親交を持ってくれている友人にも迷惑をかけない。だがそれは、ただ彼らを傷付けるだけなのだとわかってしまった。長く生き続けた所為で知恵を授かり、その無意味さを知り。長く生き続けた所為で関係を広げてしまった時間を後悔した。もっと早くに死んでいれば、周りの人達が自分に大した思い入れの無いうちに消えてしまっていればよかったと後悔した。
生きることに執着し続けたために、あんな場所を見る力を手に入れてしまったのだろう。先ほどの暗い空間。あれは彼の死までの道のりをより鮮明に形作ったもの。いずれ訪れる死期を見る力。さきほど見た限り、あの道はもうすぐ途切れてしまう。止まることも許されないあの道はただ進むしかない。そうして、道に行き詰まり、あの暗闇に落ちて終わることしかできない。
「死にたくない」
自分のことではなく、他人を思ってその言葉を呟いた。今日遊びに来るといっていた友人のためを思って、自分のために働いてくれているまたはこれから働いてくれる家族のために彼は、本当に生き続けたかったのだ。
少しして、その友人が病室に入ってきた。貸してくれると言っていたDVDを携えて。それを見ようとしたら中身が別物で、再生されたのがHな内容のもので、友人の性癖を笑って流した。
そして、ケホッとひとつ咳き込んだと思ったら次々と咳き込んでいく少年。
不安に思った友人が急いで医者を呼びに行こうとする。『ナースコールあるって』 と言う暇も無く、彼の意識は再びあの場所へ戻っていった。
目を開けた少年はまず驚いて、そして疑問に思った。
道が二つに分かれていたのだ。今まで一直線だったガラスの道は二手に分かれている。
一つは以前と同じように一直線の道。先が知れている通常通りの道。
もう一つは、その一直線の道と九十度の直角で別たれた、右に伸びた道。ガラスでできたその道は下の淡い光の屈折具合でようやく判別できるほど薄く、踏み出せば崩れ落ちてしまいそうなほどもろく見えた。
その先に目を凝らしても何も見えない。だが確かに先があるように思えた。
転じて直線の道はあと一分も歩けば途切れてしまう事を彼は承知していた。
だから、彼は迷わずに右の道を進んだ。
歩きながら振り返ると、やはり暗い黒い靄が空間を喰っていく。もう戻れないとでも言わんばかりに、光を、道を、痕跡を喰い潰していく。
その光景に恐怖しながらも彼は道を進んでいった。何かあるかもしれない、少なくともこのまま死を待つより有益な何かがあるかもしれないと信じながら、走り出した。
強風が流れるビル群の間の狭い路地に少女が倒れていた。
夏の強い日差しは高いビルによって遮られ、辺りは薄暗くじめじめしていた。
捨てられた空き缶が風に煽られてコロコロと少女の前を転がり通り過ぎる。
その音に反応は出来ても、少女は眼を向けることはなかった。
倒れている少女の目は虚ろで、彼女から流れ出た暖かい血液が夏には珍しい彼女の白い手を赤く染めている。頭部の負傷は誰の目から見ても致命傷であり、彼女の命はすでに吹けば消えるほど弱弱しいものだった。
朦朧とする意識の中、彼女はその路地に住み着いていたホームレスが驚いて、大通りへ助けを求める声を確かに聞いていた。
『要らないことしないでよ』
心の中でそう思いつつ、自分のために動いてくれる人が居てくれたことに少なからず安堵した。
だがこれはもうどうしようもないと、わかっている。自身の身体だからこそわかる、自分の結末。あとほんの数分で自分の意識は、暗い暗い沼の中に落ちていく。今見上げられている青い空も見ることが出来ない、手の届かない深い場所へと落ちていく。
どうしてこんなことになったのか。
答えは簡単だ。私が悪い。
彼女は余力を使いきり、自分が落ちてきた建物の屋上に目を向ける。
怯えた表情で自分を見下ろしている友人がそこに見えた。震える手で口元を押さえて、今起きたことを信じられないでいるようだ。
私は突き落とされた。だが私が悪い。
好きになったからと言って、友人のカレを奪おうとした私が悪い。
自分を止められなかった私が悪いのだ。
私情に任せて、人間として終わった行いをしたのだ。自業自得、因果応報、天罰覿面、エトセトラ…………これ以上の語彙が私には見つからない。
それだけ私の頭が悪かったということだ。
ドロドロの三角関係なんて、自ら進んで行った私が悪い。
だから、そんな――――
「そん……な――――」
――――そんな顔しないでよ。
見上げる友人の最後の顔は、絶望の一色に染まっていた。
暗転していく意識、消えていく……堕ちていく。
走った。彼は走り続けた。自分が知らない『道』の先にあるものが何なのか知りたいという好奇心でも、まして死にかける絶望の余り発狂したわけでもない。
――――もしかしたら――――
その一縷の希望に掛けてみたくなったのだ。
自分の大切な人達が悲しまないために、自分の命を助けるために。
そして、死に掛けの少年は死んでしまった少女に出会った。
進めなくなった少女は進むことを許された少年に出会った。
「………………」
「………………」
最初、二人は互いに無言で佇んでいた。
走ってきた少年に気付いた少女は、膝を抱えて座り込んだまま顔だけを彼に向けてその眼を見つめる。少年も同じように彼女の眼を見つめていた。
彼は誰なんだろう。彼女は誰なのだろう。
互いに知らぬ仲。初対面であった。
加えてこの空間の中で他人に出会ったことを、少年は表情に出ないだけで、心の中では驚愕していた。
自分しかいないと思っていた場所で他の人間と出会うことは、彼にとって大変イレギュラーなことだった。
だから、初めに言葉を発したのは少年ではなく少女の方。
「あの……えっと……こんばんわ」
「……こ、こんばんわ」
互いにあたふたと挨拶を交わす。この場所が薄暗いためか少女は 『こんばんわ』 といい、少年もそれに釣られるように 『こんばんわ』 を返した。
それから、平常心を取り戻した少年はこの場所についての説明をした。死へのカウントダウンを知る道、自分がその道を外れたこと、そしてここに彼女が居て驚いたこと、現実の自分のこと。
だが、彼女は聞き入るだけで自分から何かを話そうとはしなかった。この場所への疑問も、彼の状況、自分のことも話そうとしなかった。
ふむふむ、と時折納得したように頷きながら、最後まで説明された時には諦観の笑みを浮かべた。
そして、
「――――ともかく、この道がなんなのか調べないと。迂闊に戻っていいのかわからないですから」
少年が説明を終えたあと、自分が先ほどから考えていた問題点を提示した。
この場所が、この 『道』 が、自分が今まで進んできたものとは違うことは感覚的にわかっていたので、今までと同じように戻っても危険性はないのか。その判別をつける必要があった。
そういった理由で辺りを見回して、少年が何か手がかりがないかと探し回っていると。
「君は別に問題ないと思うよ」
後ろから膝を抱えたままの少女が話す。
何のことかと言いたげな顔を彼女に向ける少年。
「私さ、ドナー登録してたから。私のあの状況じゃ、脳死と判断されるよね」
立ち上がって、彼の眼を見ながら自分のことをついに話し出した少女。
友人のカレを奪おうとしてあれやこれやとアプローチをかけ、その一環でドナー登録していると言って関心を持ってもらおうとし、友人と痴情の縺れで喧嘩をして、突き落とされたこと。
「だから、きっと君、今私の心臓を移植されてるんだと思う。私って健康だったからさ。…………だから、ここは私の 『道』 だった場所で、今からは君の 『道』 になるんだよ」
心臓移植、ドナー登録。
少年が長い間待ち続けていた救いが唐突に訪れた。
だから、次に眼を覚ませば何もかもうまくいく。家族に苦労を掛けることも無いし、友人と安心して遊べる。
彼が待ち望んだ奇跡を起こした少女が、彼の目の前に居た。
「ああ、多分もう終わってるんだと思うよ手術。だからさくさくっと目ぇ覚ましちゃいなよ」
「いや……でも――」
「ストップ」
右手を大きく彼に突き出し、制止を促す少女。
「もう手遅れだって、いいから据え膳拾っときなって。それに、もし君がこのまま私に同情し続けてここに居たら現実の君はどうなるの? 家族は? 友達がいるんでしょう?」
少女は自分の友人を思い出し、彼をうらやましく思った。自分も彼のように友人を大切に思っていれば、こんなことにはならなかったのに……と。
だがそれは彼に言ってはいけない。
彼はここから先、私の命を犠牲にしたと思い続けるだろう。必要以上に重石を課すことはしてはいけない。
少し話しただけだが、彼がいい子だとはわかっていた。
自分のような悪い人間ではない。
罰を受けるべきなのは自分。
だけど、せめてこれぐらいは許されるのではないかと、彼女は考えた。
なぜなら自分がここにいるのは。それだけは許されたから。いいや、そうしなければならない、償いなのだろう。
「ね、一つだけ頼んでいい?」
「……何を」
申し訳なさそうに彼女を見る少年。
ああ、だからそんな顔しないでよね。と心の中でつぶやく。
「――――じゃ、お願いね」
そう言って、手を振って笑顔を見せる少女。
だが、少年は最後まで苦虫を噛んだように、悔しそうにしていた。
「ありがとうございました」
綺麗に彼女の前でお辞儀をして、彼女が瞬きをして目を開いたときには彼は消えていた。
現実に戻ったのだ。
ふぅ、とため息を吐いた。疲れたわけではないが、少女はそれでもため息を吐かずにいられなかった。安堵したのだ、最後に友人に伝えたかったことを代弁してくれるチャンスを与えられたから。
彼女は聡明な女性だった。うまく人生を渡っていける自信と力があったが、如何せん熱烈な恋に堕ちてしまい、ビルから落とされてしまった。
恋は盲目というが、あれが本当だったことを改めて彼女は自覚した。自分はそうはならないと決めていたのに。
恋に堕ちると周りが見えなくなる、ある個人を中心に世界が回っているように見えてしまう。自分すら犠牲にしてしまうぐらいに狂ってしまう。
本人達はそれでいいかもしれない、だが周りの人たちにとって、恋とはただ迷惑なものに過ぎないのだ。
イチャつく若いカップルを見るようなもの。見ているこっちは恥ずかしくて迷惑しているのに、本人達はそれでいいと思っている。
自分はそれに至った、そしてオチタ。恋とビルの両方で。
そして今から、彼女はもう一度落ちていくことになった。
パリン、と何かが割れる音がして、彼女は咄嗟に足元を見張った。
予想通り、彼女の足元のガラスの床板がパキパキと次々に亀裂が入り、そして――――
「ああ……また落ちていくんだ」
彼女の言葉と同時に、地面が音をたてて砕け散った。
死んだときと同じように、彼女は頭から落下していった。以前の様に空気の壁に遮られながら落ちていくのではなく、まるで水の中をゆっくりと沈んでいくかのように落ちていった。
彼女は目を瞑って、先ほど送り出した少年を反芻する。
純真無垢な少年なのだろう。自分が好きになった人に似ている部分もある。
彼はちゃんと伝えてくれてるだろうか。友人に伝えたかった言葉を。
友人はそれを聞いてどう思うだろう。何を今更と蔑むか、哀れむか、わからない。
どっちにしろ自分にはすでに縁遠い話。
一度目を開けると彼女は本当に水の中を下へ下へと沈んでいた。透き通る水の中、落ちていくのは自分ひとり。
水底を見つめる。淡く緑色に光る蛍のような光がそこに見えた。
その光は次第に広がっていき、彼女はそれに届くように必死に手を伸ばし、落ちていった。
次に彼があの場所に訪れたのは、眼を覚まして、感涙する家族が落ち着いて、霊安室にいる彼女を見た後だった。
いつもと同じようにベッドに横たわり、目を瞑っていると案の定辿り着いた。
目前の危機を脱したからといって死期を見れなくなるというわけではないようである。
その場所に着いてまず気が付いたのは、彼女が座っていた床板が砕け散っていたことだった。後ろを見ても果てない暗闇、前を見ても先が続くばかりで彼女の姿は欠片もない。
次に目を覚ましたとき、彼は彼女から頼まれたことを成し遂げようとした。
彼女が最後に友人に伝えたかったことを僕が代弁することが、自分の必要最低限の役目だと。
彼女の道を譲り受けた自分の、生き残った者の役目。