遠い青
十月。
街の木々が、ゆっくりと色を変え始める季節。
私は人生のどん底にいた。
先日、四年間付き合った彼氏に振られてしまったのだ。
今年三十歳。このまま彼と結婚するのだろうな、とぼんやり思っていた。
けれど、その未来は一瞬で崩れてしまった。
私は昔から、自分の本当の気持ちを素直に伝えることが苦手だ。
彼から「別れよう」と言われたときも、
「そう、わかった。今までたくさんごめんね、ありがとう。」と、それしか言えなかった。
街はハロウィン一色だった。
店先には顔をくり抜かれたかぼちゃが並び、電飾が街をきらきらと照らしている。
浮かれて楽しそうな人たち。
今の私には、その光景がどこか濁って見えた。
こんなふうに他人の幸せを素直に喜べないから、振られたのだろうか。
コンビニで買ったブラックコーヒーを一口飲む。
昔は苦くて飲めなかったのに、いつの間にか平気になっていた。
「はぁ、眠い。」
思わず大きなあくびが出た。
彼と別れてから、仕事で疲れているはずなのに眠れない日が続いている。
どうせ今夜も眠れない。
私は前野真紀。
どこにでもいる、平凡な会社員だ。
あと二か月で年末ということもあり、仕事は徐々に忙しくなってきた。
ここのところ帰宅時間は、毎日二十二時近い。
仕事で疲れた体をなんとか起こして、お風呂に入る。
パジャマに着替えて、やっとベッドに倒れ込む。
外着ではベッドに乗らない。それが私の小さなルールだ。
スマホの画面を開き、彼との写真を辿っていく。
こんなことをしているから、未だに立ち直れていないのだとわかっているのに、やめられない。
あぁ、このままじゃだめだ。
この部屋にいると、彼のことばかり思い出してしまう。
うん、旅行に行こう。
十二月になれば、今よりさらに忙しくなって、有給も取りづらくなる。
行くなら今のうちだ。
たまの息抜きだって大事だ。
大人だって、休みたいときもある。
それに、本音を言えば、年内のうちに彼への気持ちを整理したい。
最近肌寒くなってきたから、暖かいところへ行きたい。
行き先は沖縄にしよう。
今日も眠れそうにない。
私はベッドの上で、二泊三日の沖縄旅行のプランを立て始めた。
十一月。
いよいよ旅行当日。
私が住んでいる東京は、すっかり冬の空気に変わっていた。
これまでアイスで飲んでいたコーヒーも、ホットのほうが美味しく感じるようになった。
あの日、沖縄旅行を思いついた勢いのまま飛行機を予約した。
この時々現れる行動力は、一体どこからくるのだろう。
とくに細かく予定は決めていない。
ただ、私は水族館が好きなので、美ら海水族館は外せない。絶対に行く。
沖縄は高校生の頃、修学旅行で行ったきりだ。十二年前か。もうそんなに経つのか。
卒業してから同級生にはほとんど会っていないけれど、みんなは元気なのだろうか。
そう思ってみるけれど、正直そこまで興味はない。
沖縄はまだ暑いみたいなので、薄着で空港へ向かう。
ひんやりとした風が頬を撫でる。
…さ、寒すぎる。本当に沖縄は暑いのだろうか。
十時。
少し不安を感じながら飛行機に乗り込み、ベルトを締める。
いよいよだ。沖縄に着くのは十二時ごろ。
まずはどこへ行こう。緊張と期待で胸が膨らむ。
ぐんと体が引っ張られる。機体が加速する。
旅行は好きだけれど、飛行機の離陸はどうしても慣れない。
私は思わず手をぎゅっと握りしめた。
やがて機体は安定し、アナウンスが流れる。私はゆっくり目を開き、ほっと息を吐いた。
窓際の席から外を眺めると、どこまでも青い空が広がっていた。
気づけばうとうとしていたらしい。
スマホを見ると、出発から一時間半が過ぎていた。
沖縄まではあと少しだ。窓から差し込む光が、だんだん強くなってくる。
やがて機体が揺れ、車輪が地面に触れる音が響く。ゆっくりと滑走路を進んでいく。
アナウンスが流れ、ベルトを外す。
乗客たちが順番に降りていく。
その流れに合わせて、私もゆっくり立ち上がった。
「ふぅ。着いたー。」
地面に足が着く。この安心感といったら。
私は飛行機が苦手だ。ちなみに海も苦手だ。泳げないから。
キャリーケースを受け取り、空港をぐるりと見渡す。沖縄らしい空気に、心が躍る。
「本当に来たんだなー。」
沖縄は初めてじゃない。けれど、一人旅は人生で初めてだ。
私はかなり方向音痴で、人見知りでもある。道に迷ったら、多分簡単に詰む。
それでも、時間を気にする必要もないし、誰かに気を遣う必要もない。
心配事は尽きないけれど、それ以上にわくわくしていた。
二泊三日しかないのだから、とことん楽しもう。
高鳴る期待を胸に、私は空港を後にした。
この夜、私は彼と出会う。
ホテルに荷物を預けるため、キャリーケースをゴロゴロと引きながら歩く。
日の光が当たって、じんわりと暑い。背中が少し汗ばむ。
けれど日陰に入ると、風が涼しくて心地いい。
歩道脇の大きな木が風に揺れ、葉っぱ同士が当たってカサカサと音が鳴る。
沖縄を選んだのは避寒が目的だったけれど、十一月に来て正解だったな。
暑すぎず寒すぎず、本当に過ごしやすい。
二十分ほど歩いただろうか。
ホテルが見えてきた。
沖縄だからだろうか。近くの公園に植えてある木がとても南国っぽい。
わさわさと生い茂っていて背が高い。
これは東京では見られない光景だ。
ホテルに入り、フロントでチェックインを済ませる。
重たくて大きいキャリーケースを預け、やっと身軽に観光できるようになった。
さあ、これからどこへ行こうか。
今日は朝から何も食べていない。
猛烈にお腹が空いていた。
国際通りまで歩いて行ける。
ぶらつきながら、遅めのお昼ごはんを食べようかな。
私は軽い足取りで、国際通りに向かった。
国際通りはすごい人だった。
右を見ても左を見ても人、人、人。
カラフルな店がずらりと並んでいる。
これを食べたいというものはとくに決まっていない。
けれど、せっかく沖縄に来ているのだから、沖縄料理を堪能したい。
ソーキそばとか食べようかな。あぁ、でもゴーヤチャンプルーもいいな。
迷う。
お店が多すぎて、目移りしてしまう。
一旦、端から端まで歩いてみるか。
端から端まで歩いてみたけれど、結局決めることができなかった。
こういうとき誰かと来ていたら、その人に決めてもらえるのだけれど。
ふと目に入ったお店の前で足を止める。入り口のメニューをパラパラとめくる。
あ、ソーキそばがある。
「…もういいか、ここで。」
店内では扇風機がゆっくり回っていた。
時折吹く風が、汗ばんだ首筋に当たって気持ちいい。
案内された席に座って、ソーキそばを注文する。数分後、湯気の立つ丼が運ばれてきた。
「いい匂い…。」
小さく「いただきます」とつぶやき、麺をすする。
「んー、おいしい。」
空腹だったこともあって、あっという間に完食した。
時計を見ると、もう十七時。
食べたばかりなのに、またお腹が鳴る。
このまま居酒屋とか行こうかな。
少し満たされたお腹と一緒に、気分も軽くなっていた。
沖縄の夜はまだまだこれからだ。
十八時。
またお店選びで優柔不断が出てしまったけれど、
沖縄料理がたくさん食べられて、島唄のライブもやっているらしい店を見つけた。
まずゴーヤチャンプルーを頼む。
飲み物は、せっかくだからシークワーサーハイにした。
普段、一人で飲みに行くことなんてほとんどないから、少し緊張していた。
けれど料理もおいしく、お店の人も気さくで、すぐに肩の力が抜けていった。
奥から聞こえてくる島唄の演奏も心地いい。
「楽しいなぁ。」
店内はがやがやと賑わっていて、いろいろな会話が聞こえてくる。
ラジオみたいで、なんだか面白い。つい話の続きを待ってしまう。
ふわふわと、ほろ酔い気分になってきた。
お腹もそろそろ満たされてきたし、締めに何か頼もうかな。
そのときだった。
「あの、すみません。お一人ですか?」
最初は自分に話しかけられているとは思わず、聞き流していた。
けれど「あの」「すみません」と何度も聞こえてくる。
不思議に思って声のほうを見ると、髭の生えた大きな男の人が遠慮がちにこちらを見ていた。
体は大きいのに、声は少し高めで優しい。
照れたように笑っている。人懐っこそうな笑顔だ。
「え?私ですか?」
「あ、はい。あなたです。」
誰、この人。見覚えがない。私が忘れているだけだろうか。
「あ、いや。初めてですね、お会いするのは。」
どうやら思ったことがそのまま口から出ていたらしい。少し恥ずかしい。
「そう…ですよね。良かったです。…じゃあ、どなたですか?」
ふふ、と彼は笑った。
「羽川裕二と言います。お一人なのかなと思って。俺も一人だったので。楽しそうだったから、つい声をかけちゃいました。」
「はぁ…。どうも…。一人です。前野真紀です。」
軽く会釈する。
え、なにこれ。本当にこんなことあるんだ。
話を聞いてみると、彼も沖縄に一人旅に来ていたらしい。
先週仕事で大きなミスをしてしまい、なんとか乗り越えたものの、かなり落ち込んでしまったという。
気分転換もあって、今回沖縄まで来たのだそうだ。
もともと一人で出かけるのが好きらしい。
ただ、遠方への一人旅は今回が初めてで、少し緊張していたらしい。
そんなとき、自分と同じように一人で来ている人がいた。しかも楽しそうにしていた。
それで勇気を出して話しかけてみたのだという。
「どこから来たんですか?私は東京から来ました。」
「俺は北海道から来ました。端から端ですね。長時間フライトは腰にきます。」
「北海道から!また遠くから来ましたね。腰、大丈夫ですか?」
クスクスと笑っている自分に気づいた。
いつもなら初対面の人には、がちがちに緊張してしまうのに。
自分でも驚いたけれど、彼と話すのは思ったよりずっと楽しかった。
口周りには髭が生えていて、体はとても大きい。クマのような人だ。
だから最初は少し怖く見えた。
けれどよく笑う人で、笑った顔はふにゃっとしていて可愛らしい。
すごいギャップだ。
柔らかい雰囲気をまとった、優しくて穏やかな人。
彼と話していると、時間がゆっくり流れていくようだった。
それなのに、気づけばあっという間に時間が過ぎていた。
他愛もない話をしているだけなのに、その時間がとても心地よかった。
「あ、四十歳なんですか?私より十歳上ですね。」
「十歳差…!もうおじさんですね。」
「いやいや、そんなことないですよ。」
私より十歳上か。
けれど、帽子をかぶってオーバーオールを着ている彼は、とても四十歳には見えない。
いつの間にか島唄の演奏が終わり、二人で拍手をした。
「東京ではあまりないので、こういうの、とても楽しいです。」
「わかります。もうちょっと聴いていたかったですね。」
途中から話すことに夢中で、演奏は半分ほど聞いていなかった。
お互いそれがわかっていて、冗談っぽく笑い合う。
「このあとはどういう予定ですか?」
「とくに決めてないです。羽川さんは?」
「俺も気ままな一人旅なので、とくに決めてないです。…あの、よかったら、このあと一緒に歩きませんか?」
「いいですよ。じゃあ、行きましょうか。」
ほんのりと顔が熱くなる。お酒のせい、きっとそれだけだ。
それぞれ会計を済ませて、店を出る。
沖縄の夜の空気が、火照った肌にふわりと触れた。
昼より少し涼しい風が吹き、あちこちから笑い声が聞こえてくる。
時刻は二十時。
空はすっかり暗いのに、国際通りはギラギラと光り、まだ眠りそうにない。
「夜の国際通りはまた違って見えますね。楽しそうです。」
「私も思いました。人も街も踊っていますよね。」
「詩的ですね。」
二人で顔を見合わせて静かに笑う。
すると、近くの店から大きな笑い声が聞こえてきて、つられてさらに笑えてくる。
「よさそうなお店があったら入りますか?」
「二軒目ですね。そうしましょう。」
気づけば自然と、彼の隣を歩いていた。
彼はさっきのお店でそれなりにお酒を飲んでいたらしく、足取りがふわふわしていて、とても楽しそうだ。
話を聞いた感じでは、かなりのお酒好きらしい。
私も普段より少し多めに飲んだせいか、顔が熱い。
手のひらが少し湿っていることにも気づく。
「あ、コンビニ。アイス食べようかな。」
「いいですね、アイス。俺も食べようかな。」
チョコ味のアイスをかじる。
甘くて冷たく、ほんの少し日常の楽しさを思い出す。彼も嬉しそうに小さなアイスを口に運んだ。
「んー。美味しい。」
「ですね。寒くないですか?」
「大丈夫です。ありがとうございます。」
「アイス、美味しいけど知覚過敏で歯にきます。」
「腰やら歯やら大変ですね。大丈夫ですか?」
彼のユーモアがツボに入って、思わず笑ってしまった。
夜風が頬をかすめる。
ふと隣を見ると、彼は嬉しそうに微笑んでいた。
その顔を見て、胸が小さく跳ねる。一瞬息をするのを忘れてしまった。
慌てて顔をそらす。
おかしい。見た目は全然タイプじゃないのに。
髭はあまり好きじゃないし、木こりみたいな体格も好みではない。
私はサーファーみたいな体格の人が好きなのに。
それなのに、この人といると不思議と肩の力が抜ける。
一緒に見ている景色がほんの少し輝いて見えた。
彼は、海のような人だと思った。
穏やかで、波のようにゆったりとしている。
けれど、ぱっと見ただけではわからない深さがある。
彼のそばにいると、広い海の前に立っているような気持ちになる。
少しだけ自分の小ささを感じながら、それでもまたここに来たいと思ってしまう。
心地よくて、胸の奥のもやもやがすっと溶けていく。
こんな感覚は、初めてだった。
私は泳げないから、海が苦手だったはずなのに。
それなのに今は、その深さを怖いとは思わない。
もう少し近づきたいとさえ思った。
まだ、この人のことをちゃんと知っているわけではない。
それでも私は、この人のことを、人として好きだと思った。
きっと、海を好きになるのと同じ理由で。
さらに少し歩いて、小さなバーに入った。
外の喧騒とは別世界のように、店内は落ち着いた空気に包まれている。
木のカウンターに腰を下ろす。
ほんのりと漂うウイスキーの香りと、柔らかいジャズが耳をくすぐった。
バーテンダーが氷をグラスに落とす音が、静かな店内に小さく響く。
「おしゃれなところですね。」
「ね。俺も普段こんなところ入らないから、ちょっとドキドキする。」
いつの間にか、彼は敬語を使っていなかった。
心を開いてくれたのだろうか。そう思うと、なんだか嬉しくなる。
隣に座る彼と、ふと目が合う。
他愛もないことばかり話しているのに、自然と笑ってしまう。
笑い声が途切れても、気まずさはない。
ただ穏やかな時間が、静かに流れていく。
しばらくお酒と音楽を楽しんでから、店を出た。
時計を見ると、もうすぐ零時になろうとしていた。
ネオンに照らされた道を歩く。
さっきまで聞こえていた笑い声は、もうほとんど聞こえない。
車の通りもなく、ときどき自転車が静かに横切るだけだ。
「うーん」と思い切り伸びをする。
「そろそろホテルに戻る?」
「そうですね、もうこんな時間ですし。」
そう答えたけれど、本当はもう少し彼と一緒にいたかった。
けれど、さすがにもうこんな時間だ。
「どこのホテルに泊まってるの?遅いし送るよ。」
「ありがとうございます。でもここから歩いて十分ですし、大丈夫ですよ。」
「歩いて十分?もしかしてあそこのホテル?」
「そうです。え、もしかして同じところに泊まっているんですか?」
「ぽいね。」
思わず笑ってしまう。
知らない土地での思いがけない偶然に、胸の奥がふっと緩んだ。
「じゃあ、一緒に戻ろうか。」
「そうですね。」
街は明るいのに、歩いているのは私と彼だけのように思えた。
まるで沖縄に、私たち二人しかいないみたいだ。
「ちなみに、明日の予定は?」
「美ら海水族館に行こうと思っています。」
そう言うと、彼は少し考えるような仕草をした。そして遠慮がちに言う。
「…俺も一緒していいですか?」
あれ、ここでは敬語なんだ。
大きくてクマのような人が、小さくなってこちらの様子をうかがっている。
その姿がなんだか可愛く見えた。
「もちろん、いいですよ。一緒に行きましょう。」
そう答えながら、心の中で、小さく期待が膨らんでいくのを感じた。
「じゃあ、連絡先、交換しておこうか。」
「そうですね。明日の予定立てないとですしね。」
スマホを取り出し、LINEを交換する。彼の名前が、ともだち欄に追加された。
「ちゃんと交換できたのかな。今、何か送ってみてもいい?」
「大丈夫ですよ。私も何か送りますね。」
ポコン、とメッセージが届く。画面には「よろしくね」の文字。
私は、「こちらこそ」と返信した。
それだけのやり取りなのに、胸の奥が少しくすぐったくなる。
気づけば、画面に表示された彼の名前をもう一度見つめていた。
ホテルに着いた。
同じホテルに帰る人がいるというだけで、なんだか心強い。
迷わず無事にたどり着けたことにも、ほっとする。
エレベーターで別れた。
ドアが閉まる瞬間、自然と軽く手を振り合った。
自分の部屋に戻り、キャリーケースが置かれているのを確認する。
ふう、と火照った体をソファに沈めた。
静けさの中で、今日一日の出来事がゆっくりと思い出された。
バーでの笑い声。
アイスを食べたときの夜風。
彼と交わした会話。
思い返すたびに、自然と彼の顔が浮かぶ。
胸の奥で、小さなざわめきが広がる。
こんな偶然の出会いが、これから何かを変えるのかもしれない。
そう思うと、なかなか眠れなかった。
翌日。
沖縄旅行の二日目。
今日は一人じゃない。羽川さんも一緒だ。
予定より早く起きて、念入りに準備をする。
いつもなら十分あれば終わるメイクも、今日は三十分かかった。
服はワンピースにした。
動きやすさ重視でデニムばかり持ってきていたけれど、ワンピースを一着入れておいてよかった。
二日前の私、ありがとう。
毛先をアイロンで巻いて整える。
小ぶりのイヤリングをつける。
お気に入りのピンキーリングをはめる。
最後に薄いピンクのリップを塗って、準備完了だ。
昨夜、羽川さんと別れてから、なかなか眠れなかった。どうやら彼も同じだったらしい。
ピコン、と通知音が鳴る。彼からだ。
“今日はありがとう。もう寝たかな。なかなか眠れなくて。”
“こちらこそありがとうございました。私も眠れずにいます。”
すぐに既読がついたと思ったら、スマホが震えた。
画面には「羽川裕二」の名前。電話だ。
少し息を整えて電話に出る。
「もしもし。」
「もしもし。ごめん、突然。どうせ眠れないなら、明日の予定でも一緒に立てようかなって思って。」
電話越しの声は、少しだけ近くに感じた。
「大丈夫ですよ。そうしましょうか。」
最初は明日の予定を立てていたのに、いつの間にか話は脱線し、他愛もないことばかり話していた。
いつ帰るのか。
どんな仕事をしているのか。
好きな食べ物や嫌いな食べ物。
誕生日や血液型。
気づけば、話し始めてから二時間が経っていた。
「すみません、気づいたらもうこんな時間。そろそろ寝ないとですよね。」
「うわ、本当だね。こちらこそごめん。全然気づかなかったよ。」
「楽しかったです。明日、よろしくお願いします。」
「こちらこそ。十時にホテルのロビーだったよね。楽しみにしてる。」
「はい。じゃあ、おやすみなさい。」
「うん。おやすみ。」
そう言いながらも、なかなか電話を切れない。
すると、電話の向こうからふふ、と笑い声が聞こえてきた。
「切らないの?」
「いや、なんだか名残惜しくて。羽川さんが切ってください。」
「俺だってそうなんだけどな。」
少し笑ってから、彼が言う。
「わかった。じゃあ切るよ。おやすみ。」
「はい。おやすみなさい。」
少し間があって、プツンと電話が切れた。
電話を切ったあとも、しばらくスマホを握ったまま、履歴を見つめていた。
画面には、さっきまで話していた彼の名前が残っている。
結局眠れたのは、深夜三時を過ぎてからだった。
普段ならこんな日はお昼過ぎまで寝てしまう。
けれど今日は、目覚ましよりも早く目が覚めた。
旅行に来ているからなのか、それとも彼と会うからなのか。
理由はわからない。
けれど、なんだかとても気分がいい。
鼻歌を歌いながら、上機嫌で準備をした。
八時。
準備はすっかり終わっていた。
約束の時間までまだ二時間ある。
どうやって時間をつぶそうか。
泊まっているホテルの目の前には海が広がっている。
いわゆるオーシャンビューというやつだ。
東京に住んでいると、海を見ることはほとんどない。
少し見に行ってみようかな。
カーディガンを羽織り、スマホだけ持って部屋を出た。
エレベーターでロビーまで降りる。
まだ早い時間なのに、ソファにはちらほら人が座っていた。
「あれ?」
見覚えのある人がいる。
髭が生えていて、クマみたいに大きな人。
羽川さん?
本を読んでいるようだけれど、ページは進んでいない。
慌ててスマホを見る。
画面には八時十五分と表示されていた。
良かった。
時間を見間違えているわけではなさそうだ。
それなら、どうして彼はここにいるのだろう。
彼に近寄り、そっと声をかける。
「羽川さん?」
驚いたようにこちらを見る。
それから目を伏せて、少し照れたように頭をかいた。
「おはよう。いや、なんだか落ち着かなくて。約束の時間の前だけど待っていようかなって。」
「え?」
何か言う隙もないほど、彼は早口で話し出した。
「びっくりするよね。ごめん。前野さんはどうしてここに?」
「私は、せっかくだし海を見ようかなと思って…。」
「いいね。朝に見る海は、また印象が違うよね。」
なんとか会話はしているけれど、頭がうまく回らない。
二時間も前から私を待っていた。その事実に驚いて、けれど嬉しくて。
「羽川さんも、見に行きますか?海、一緒に。」
「え、いいの?じゃあご一緒しようかな。」
嬉しそうに笑う彼。栞をはさみ、本を閉じる。小さな鞄にしまって立ち上がった。
「じゃあ、行こうか。沖縄でも、朝は少し寒いだろうから気をつけてね。」
そのとき、ふと思った。
あ、私、この人のこと好きだ。
見た目は全然タイプじゃない。
今まで好きになった人とも違うし、知り合ってまだ二日目だ。
それでも私は羽川さんのことが好きだ。
「あの、実は私も今日楽しみにしていて。早く準備が終わってしまったから、海を見に行こうかなって思ったんです。」
「え、そうなの?」
「はい。ロビーで見つけたとき、嬉しかったです。」
「そうなんだ、良かった。引かれたかなと思ってたから…すごく嬉しい。」
ほっとしたように笑う彼。
好きだと自分の気持ちがはっきりしてから、彼の言動すべてが可愛く見える。
「あそこから外に行けるみたいだよ。行こう。」
「はい、行きましょう。」
ロビーの奥にある浜辺へ続く扉へ向かう。
扉は思ったより重くて、なかなか開かない。
すると彼が、私の後ろからそっと手を伸ばして押した。
背中のすぐ後ろに彼の気配を感じて、少しうつむいた。
重かった扉はあっという間に開いた。
そのとき、ふと彼との体格差に気づく。
私は身長が160センチ。彼は180センチある。
彼の目を見て話すときは、かなり顔を上げないといけない。
それに気づいているのか、それとも無意識なのか。
話すとき、彼は少しかがんでこちらに耳を傾けてくれる。
それがとても嬉しかった。
ロビーから出て、少し歩く。
砂浜に靴が沈み、視界いっぱいに海が広がった。
朝日が海の上でキラキラと光っている。
風は少しひんやりしていた。
やっぱりカーディガンを羽織ってきて正解だ。
「寒くない?大丈夫?」
「大丈夫です。ありがとうございます。羽川さんは寒くないですか?」
「ありがとう。俺も大丈夫だよ。」
彼のさりげない優しさが嬉しかった。
このまま歩くのもいいけれど、足の先だけなら海に入ってみたい気持ちもある。
いつもなら、そんなこと思わないのに。
「足だけ、海に入ってみる?」
私は驚いて彼の顔を見る。
ちょうど今、同じことを考えていたからだ。
「奇遇ですね。私も今、同じことを考えていました。」
「本当に?以心伝心かな?」
冗談っぽく言って、彼は笑う。
楽しい。
こんな時間がずっと続けばいいのに。
「さすがに風邪を引きそうだし、このまま歩こうか。」
「ふふ、そうですね。」
並んで砂浜を歩く。
時々、靴の中に砂が入り込む。
けれどそれも気にならないほど、私は浮かれていた。
三十分ほど歩いただろうか。
彼と過ごす時間は、驚くほど早く過ぎていく。
さっきよりも暖かくなって、やわらかい風が足元を通り抜けた。
そのとき、盛り上がった砂に足を取られた。
「わっ。」
体がぐらりと傾く。
転ぶ、と思って目をぎゅっとつぶった。
…あれ?
転ばない。
気づくと、彼の手が私の手首をしっかりつかんでいた。
彼の手は、私よりも温かい。
「大丈夫?危なかったね。」
心配そうに、私の顔をのぞき込む。胸がどきりと跳ねた。
「…はい。ありがとうございます。」
恥ずかしさをごまかすように、顔をそらす。
そっと手を離そうとする。
けれど、その瞬間。
彼の手に少しだけ力が入った。
離れない。
顔を上げて彼を見ると、照れたように笑っていた。
少しだけ沈黙が続く。
彼の手の温もりが、なかなか離れてくれない。
沈黙を破るように、彼が静かに言った。
「ごめん。いつまでも掴んでいたら痛いよね。」
彼の手が、私の手首から手のひらへと移る。そして、ぎゅっと握られた。
「あ…いえ。本当に大丈夫です…。」
言葉が詰まる。
こういうとき、何て言えばいいんだろう。
自分の顔が赤くなっているのがわかる。
私は足元を見つめた。
彼の手は離れないまま、また歩き出す。
砂浜を踏むたび、しゃりっと音がする。
波の音が、ゆっくりと寄せては返していく。
海はどこまでも青かった。
その青の中で、私たちは手をつないで歩いた。
けれど彼も、そのことには触れてこない。
私も触れられずにいる。
ただ、つないだ手から伝わる体温だけがそこにあった。
「そうだ。前野さんも、そろそろ敬語やめてほしいんだけど、どうかな。」
「あ、そうですね。じゃあ…えっと…」
少し考えてから、私は言った。
「お腹、すいたね。」
彼はくすっと笑う。
「たしかに。そろそろ戻って朝ごはん食べる?」
「そう…だね。」
「一緒に食べる?」
「はい。」
「あ、こら。敬語に戻ってるよ。」
「あ…えっと。うん。」
少しぎこちない空気のまま、私たちは来た道を戻る。
手は、つないだままだった。
大丈夫かな、手汗とか。
緊張と嬉しさで心臓の音がすごい。
耳の横で鳴っているみたいだ。
隣にいる彼に聞こえていませんように。
ロビーの入り口に着くと、彼の手の力が緩み、自然と手が離れる。
ほっとしたような、でも少しさみしいような。
不思議な気持ちになる。
「二階にビュッフェ会場があるみたいだけど、このまま行く?一度部屋に戻る?」
「いえ、このまま行きましょう。…行こうか。」
「ぎこちないなぁ。」
「ほんとにね。」
お互い顔を見合わせて笑いながら、エレベーターに乗り込む。
私たちと同じように、会場へ向かう人が数人いる。
自然と会話も止まった。
ふと鏡に目がいく。
隣にいる彼は、このエレベーターの中で一番大きい。
今日も帽子を被っている。
青いシャツがよく似合っている。
今日はメガネもかけている。
鏡の中の彼を見ながら、心の中でつぶやく。
好きだなぁ。
その瞬間、バチっと鏡越しに彼と目が合った。
彼は笑いそうになる口元を、大きな手のひらで隠す。
…あ。
さっき私と手をつないでいた方の手だ。左手。
そう思った瞬間、かーっと顔が熱くなる。
それを隠すようにうつむいた。
チン、と音が鳴り、エレベーターが止まる。表示は二階を指していた。
ぞろぞろと人が降りていく。
最後に、私と彼の二人だけがエレベーターを降りた。
「さっき、なんで見てたの?」
彼が小さな声で問いかける。
「…いや、その、帽子が似合ってるなと思って。」
我ながら苦しい言い訳だ。けれど、今はこれで勘弁してほしい。顔から火が出そうなのだ。
「そう?ありがとう、嬉しいよ。帽子好きなんだ。」
二人でビュッフェ会場に向かう。入り口に差し掛かったとき、彼が言った。
「でも、それだけじゃないでしょ?」
少し意地悪な顔で笑っている。そんな表情もするんだ、とつい見とれてしまう。
はっと我に返り、慌てて答える。
「本当にそれだけ。」
「えー?本当かなぁ。」
十歳上の余裕を感じる。けれど、どこか無邪気で子どもっぽい。
知れば知るほど、彼を好きになる。
二人で朝食を済ませる。
気づけばもうすぐ十時だった。
「じゃあ、一旦部屋に戻って、荷物片づけてからロビーに行くよ。」
「うん。私も。」
部屋に戻る。
朝出たときのままの部屋を、軽く片付ける。
もう一度、毛先をアイロンで巻く。
リップを塗り直す。
汗臭くないか確認して、制汗スプレーを少しだけ振りかける。
スマホ、ルームキー、ハンカチ、リップ。
必要なものを鞄にしまう。
準備を終えて部屋を出た。
今日は一日、彼と一緒だ。
自然と足取りが軽くなる。
ロビーへ出ると、彼が先に待っていた。
私に気づき、手を振る。
私も少しぎこちなく手を振り返した。
ホテルの入り口に立つスタッフの方が声をかけてくれた。
「良い一日を。」
普段なら軽く会釈するだけなのに、今日は自然と言葉が出た。
「ありがとう、行ってきます。」
彼と並んでホテルの外へ出る。
日の光がまぶしい。
スマホを取り出し、ナビアプリを起動する。
「車で行くの?それとも電車?」
「レンタカーを予約してるから、とりあえずそのお店まで歩こう。」
「了解。」
この辺りは坂道が多い。
昨日は上り坂だったから、今日は下り坂だ。
体が少し前に傾き、自然と早歩きになる。
足元がもつれたら、おむすびみたいにコロコロ転がってしまいそうだ。
気を付けないと。
「坂道、気を付けてね。」
「上り坂もきついけど、下りは下りで膝にくるね。」
「おじさんみたい…。」
「おじさんなんだよ。」
楽しく話しながら歩く。
下り坂なのに、息が少し上がる。
もう少し体力をつけたほうがいいのかもしれない。
軽いドライブになるので、途中でコンビニに寄った。
彼はブラックコーヒー。
私はカフェラテ。
レンタカーを予約していた店に到着した。
スタッフから注意点を聞き、返却時間を確認する。
予約していた車に、二人で乗り込んだ。
もともとは一人旅だったので、私が運転するつもりだった。
けれど、彼が運転してくれることになった。
私は助手席に座る。
思っていたより距離が近くて、少しドキドキする。
「じゃあ、行こうか。」
「うん、お願いします!」
目的地を沖縄美ら海水族館に設定する。
シートベルトを締め、スマホのプレイリストを流した。
車がゆっくりと動き出す。
「お。この曲、俺も好きでよく聴くよ。」
「本当?いい歌だよね。」
自然と会話も弾む。
今日はまだ、始まったばかり。
最初は二人で歌ったり、
窓を少し開けて「風が気持ちいいね」と話したりしながら、
のんびり目的地へ向かっていた。
けれど慣れない土地なので、ナビがあっても何度か道に迷ってしまう。
私も方向音痴なのだけれど、どうやら彼も同じらしい。
彼は少し眉を寄せながら、ナビの画面をのぞき込んでいる。
迷って焦っているのだろうけれど、私は彼の新たな一面を知ることができて、内心嬉しかった。
「この道じゃない?」
「今のところ右折じゃない?」
二人で言い合いながら進んでいく。
出発したのは十一時だったけれど、美ら海水族館に着いたのは十四時を過ぎた頃だった。
「ごめん…。迷って着くの遅くなっちゃった…。」
わかりやすく落ち込んでいる彼を見て、可愛いなと思う。
「大丈夫だよ。急いでないし、ドライブ楽しかったよ。運転ありがとう。」
「優しい…。気使ってくれてる…。」
彼はそう言うけれど、本当に楽しかった。
天気は快晴。
好きな人とドライブして、窓の外には海が見える。
これ以上ないほど幸せな時間だった。
館内に入り、美ら海水族館の入場チケットを買う。
やっぱり人気なのだろう。館内はかなりの人であふれていた。
気を抜くと、彼とはぐれてしまいそうだ。
「すごい人だね。」
「そうだね、沖縄に来たら美ら海水族館は行っておきたいよね。」
「はぐれたら、見つけるのが大変そうだね。」
「本当にね。気をつけないと。」
伝わってないなぁ、というように、彼は頭を少しかきながら笑う。どうしたんだろう。
「手、つなぎたいって意味だったんだけど。」
「…あ…。」
館内が少しだけ薄暗くて助かった。きっと今、顔が真っ赤だ。
「いい?」
そう言って確認してくれたけれど、彼の左手はもう私の右手のそばまで来ていた。
「…うん。」
私は右手をそっと彼の左手に重ねる。
ぎゅっと力が入り、彼の手が私の手を包み込む。
朝も思ったけれど、彼は手も大きいんだな。
彼の手の中にすっぽりとおさまる自分の手を見て、このままずっと、離さないでいてほしいと思った。
手をつないだまま、人の流れに沿ってゆっくり館内を見て回る。
亀やジュゴン、チンアナゴなど、見どころがたくさんあって楽しい。
しばらく歩くと、大きな水槽が見えてきた。
人の数もひと際多い。
ジンベエザメが泳ぐ大水槽だ。
水槽の前で、二人並んで立つ。
水槽の中は、どこまでも深い青だった。
光に揺れる水の色が、まるで遠い海の中にいるみたいだった。
ジンベエザメが頭上をゆっくりと泳いでいく。
「すごい…。」
思わず声が小さくなる。
見るのは二回目なのに、やっぱりその迫力に圧倒される。
ふと横を見ると、彼も同じように水槽を見上げていた。
何も言わずに、ただ、じっと見つめている。
その横顔を、つい見てしまう。
「こっち見すぎ。」
「…!」
ばれていた。恥ずかしい。
何か言い訳を言いたいのに、何も思いつかない。
「…いや、何を思ってるのかなって。」
「…えー?ひみつ。」
笑って答える彼。
つないだ手に、少しだけ力が入る。
…どうしたんだろう。
不思議そうにしている私の様子に気づいたのか、彼は少し伏し目がちに、小さな声でつぶやく。
「ずっとこのまま、こうしていたいなって思ってたんだよ。」
「この時間が、終わらなければいいのにって。」
胸の奥がどくんと鳴った。
気づけば、彼と目が合っていた。
いつもなら恥ずかしくて、すぐに逸らしてしまうのに、
なぜかこのときは、目を離すことができなかった。
そのとき、水槽の青い光がふっと揺れた。
私たちは、そっと視線を水槽へ戻した。
大きな魚が、ゆっくりと水槽の奥へ泳いでいく。
「綺麗。ずっと見ていられるね。」
私がつぶやくと、彼は小さく笑った。
「…そうだね。」
けれどその声は、どこか遠くを見ているようだった。
「楽しかったね。」
「うん。ジンベエザメ、すごかった。」
二時間ほど館内を見て回ったあと、彼が言った。
「帰りに海、寄らない?」
もう一度彼と海が見たかったから、私は「うん」と頷いた。
しばらく車を走らせると、大きな橋が見えてきた。
その近くに車を停めて、浜辺へ向かった。
昼間より少し傾いた太陽が、海の表面をきらきらと照らしている。
波の音がゆっくり繰り返されて、さっきまでの水族館の賑やかさが、遠い出来事のように感じられた。
少し離れたところで、カップルがウェディングフォトを撮っていた。
白いドレスが風に揺れて、カメラマンの声に合わせて二人が幸せそうに笑っていた。
素敵だな、と思いながら眺める。
私はスマホを取り出して、写真を撮る。
どこまでも青い空。
遠くまで広がる水平線。
揺れる波。
柔らかい日の光。
綺麗だな、と思う。
そして、綺麗だなと思える自分に、少し驚く。
元婚約者のことを、まったく思い出していないことに気づく。
つい最近まで、何をしていても思い出してしまっていたのに。
きっと、彼と出会ったからだ。
ふと横を見ると、彼もいろんな写真を撮っているみたいだった。
海や砂浜、空や鳥の写真を撮っている。
時々しゃがみこんで、何かを真剣に覗き込んでいる。
カニでもいたのかな。
その後ろ姿がなんだか可愛くて、私はこっそり彼にスマホを向けた。
ばれないように、そっとシャッターを押す。
彼の写真が、一枚増えた。
多分、彼は気づいていない。
「何撮ったの?」
いつの間にか、彼が隣に立っていた。
いつからそこにいたの?ばれてないよね?いろんな考えが頭の中をよぎる。
「海撮ったよ。」
心臓はバクバクしているけれど、なんとか平静を装う。私はスマホの画面を見せる。
「いいね。すごく綺麗。」
そう言って、彼は海のほうへ目を向けた。
「海って、涙の味がするんだって。」
「へぇ、素敵だね。」
彼は黙ったまま遠くの水平線を見つめている。一体、何を考えているのだろう。
気づけば、空の色が少しずつ変わり始めていた。
すでに十八時を過ぎていた。
「そろそろ戻ろうか。」
「そうだね。」
もう一度、振り返って海を見る。
波はさっきと同じように、静かに砂浜へ寄せていた。
車に戻り、レンタカーを走らせる。
窓の外には、夕方の沖縄の街並みがゆっくりと流れていく。
オレンジ色の空が、建物の隙間からのぞいていた。
なんとなく、何も話せなかった。
きっと彼も同じだった。
車の中は、音楽だけが響いていた。
レンタカーを返し、歩いて国際通りへ向かう。
昼間よりも人が増えていて、通りは賑やかだった。
お土産屋の明かり。
どこからか聞こえてくる三線の音。
観光客の楽しそうな声。
さっきまでの静かな海とは、まるで別の世界みたいだった。
昨日とは違う居酒屋に二人で入る。
店員さんに案内されて席に座ると、私はふぅと息をついた。
相変わらず彼と話すのは楽しくて、お酒もどんどん進んでいく。
お酒は好きだけれど、強いわけではない。
だからすぐに顔が赤くなる。
そんな私を見て、彼は頬杖をつきながら微笑んでいる。
髭の奥で、ふにゃっと柔らかく笑っていた。
「可愛いね。」
その一言に、一瞬酔いが覚める。
ドクドクと鳴る自分の心臓がうるさい。
「そういうこと言わないで。期待しちゃうから。」
「期待してくれてもいいんだけどね。」
「どういうこと?」
「そのままの意味だよ。」
「じゃあ、言ってもいい?」
「何を?」
私はグラスから手を離す。
そして、彼を見つめる。
酔っているからだろうか。
心臓が、うるさいくらい鳴っている。
「…好き。」
「え?」
「私、羽川さんのこと、好きです。」
彼は私を見たまま、何も言わない。
一瞬、顔が曇ったような気がした。
彼は私から目を逸らす。
そして、頭を少しかきながら笑う。
「突然だな。」
「突然言うの、だめだった?」
「だめじゃない。嬉しいよ。でも、酔っていないときに言ってほしいな。」
酔っていようが、いまいが、私の気持ちは変わらないけれど。
「わかった。明日言う。」
「うん、そうして。」
しばらく料理とお酒を楽しんだあと、店を出た。
明日は最終日。
朝から片付けやチェックアウトで慌ただしくなるだろうから、
今日はもうホテルに戻ろうということになった。
夜の道を二人で歩きながら、ふと自分が言った言葉を思い出して恥ずかしくなる。
気持ちに嘘はない。
けれど、酔った勢いだったことも確かだ。
「さっきの、忘れてもいいよ。」
「だめ、忘れないよ。明日楽しみにしてる。」
彼は笑う。
私は好きだと言ったけれど、彼は同じ言葉を返してくれない。
私のことを、どう思っているのだろう。
一緒にいられる時間は、もう残り少ない。
明日が来る前に、もう少しだけ一緒にいられることが、ただ嬉しかった。
目線を少し落とす。
彼の左手まで、あと数センチ。
けれど、自分から手をつなぐ勇気はなかなか出ない。
彼はそんな私の葛藤には気づかず、楽しそうに鼻歌を歌っている。
「沖縄は、時間が止まっているみたいでいいよね。」
「うん?」
「…ずっとここにいられたらいいのにね。」
「どうしたの?」と聞こうとして、やめた。
彼の横顔は、さっきまでの楽しそうな表情とは少し違って見えたからだ。
翌日。
いよいよ最終日がやってきた。
私は十四時半の便を、彼は十五時の便を予約している。
時間がほとんど変わらないので、早めに空港へ向かい、そこで一緒に過ごすことになった。
二人でタクシーに乗り込み、空港へ向かう。
沖縄で過ごす時間も、あと少しだ。
昨日の告白を思い出し、顔から火が出そうになる。
ばれないように、横目で彼を見る。
窓の外を見ている彼の顔は、私からは見えなかった。
空港に着き、角にあるカフェに入る。
彼はブラックコーヒーを頼み、私はカフェラテを頼んだ。
彼は一口コーヒーを飲んだあと、ふぅと息を吐き、静かに口を開いた。
「昨日の話、覚えてる?」
ドキッと心臓が鳴る。思わず飲んでいたカフェラテをこぼしそうになる。
「うん。覚えてる。」
「なんだった?」
「私が、羽川さんを好きって話だよね?」
「そう。よかった、忘れてなかった。」
「忘れるわけないよ。そもそも私、酔って記憶が飛ぶことなんてほぼないし。」
「ということは、少なくとも一回はあるということだよね。」
くく、と笑う彼。
こういう、ときどき意地悪なところも好きだと思う。
「俺もこの三日間、前野さんと一緒に過ごして、とても楽しかったよ。本当に。」
「うん。」
「俺も、前野さんのこと好きだなと思った。」
「…うん。」
「沖縄に来てよかったって思った。」
「うん。」
「昨日、水族館でさ。俺、ずっとこのままこうしていられたらいいのにって、本気で思った。」
「うん。嬉しい。」
彼はそこで、少しだけ笑った。
けれど、その笑顔はどこか苦しそうだった。
「…でもね。」
「まず、俺は北海道に住んでいるから、滅多に会えない。」
「…そうだね。」
沈黙が流れる。
うつむく彼。
肩が少しだけ震えているように見える。
気のせいだろうか。
彼は意を決したように、ぱっと顔を上げた。
「…実はね。」
彼はコーヒーを見つめたまま言った。
「…言わなきゃいけないことがある。」
何かを言おうとしている彼。
一体何だろう。
彼の表情が、ただ事ではないことを物語っていた。
「…実は、俺、結婚してるんだ。」
彼の左手には、さっきまではなかった指輪が光っていた。
………え?
「ごめん。…言い出せなくて。」
「子どももいる。」
「前野さんのことを好きだと思った気持ちは、嘘じゃない。」
「でも、この先前野さんと会うことはない。」
「今日が前野さんと過ごせる、最後の日なんだ。」
「最初から言わなきゃと思っていた。」
「でも、前野さんと過ごす時間が楽しくて…言えなかった。」
「本当にごめん。」
彼は早口で言葉を続ける。
私は何も聞いていないのに。
鈍器で頭を殴られたような感覚が走った。
頭が回らない。
彼の声がどんどん遠くなる。
背中に冷や汗が流れ落ちる。
彼は何を言っているの?
震える唇をぎゅっと噛み締める。
どうにか自分を落ち着かせようとする。
声にならない声を、乾いた口から絞り出す。
「…既婚者?」
彼は私を見ようとしない。
昨日までとは別人みたいだ。
でもお願い。
嘘だと言って。
「…そう、だね。」
私の願いは、一瞬で砕けた。
「…じゃあ、なんで」
「え?」
「なんで、お店で声をかけてきたの?」
「…それは、」
「なんで、一緒に水族館に行ったの?」
「…。」
「なんで今日、私のことを好きだと言ったの?」
「でも、」
「全部、嘘だったってこと?」
「それは違う、嘘じゃない。」
「無理だよ…。何言われたって、もう何も信じられないよ…。」
彼はときどき、遠くを見つめることがあった。
あのとき、何を見ていたのだろう。
今ならわかる。
きっと、私以外の場所だ。
帰るべき場所を。
そんなことも知らずに私は、彼の隣にいられることを喜んでいた。
…ばかみたいだ。
目の前の彼は、うつむいて肩を震わせている。
顔は見えないけれど、泣いているように見えた。
「なんであなたが泣くの…。泣きたいのはこっちだよ…。」
周りからは、楽しそうな笑い声が絶えず聞こえてくる。
私は目の前にあるカフェラテを見つめることしかできない。
もう一度、彼に目を向ける。
あのあと彼は、私を見ることはなかった。
私は何も言えなかった。
何も言えないまま、席を立った。
カフェを出る。
無意識に早足になる。
涙が次から次へと溢れてくる。
すれ違う人が、驚いたように私を見る。
でも、そんな視線も気にならない。
空いているソファに腰を下ろし、前かがみになって自分の膝に顔をうずめる。
私は声を押し殺して、静かに泣いた。
あんな最低な事実を知ったのに、彼のことを嫌いになれずにいる私も、どこかおかしいのかもしれない。
どれだけ好きでも、彼と一緒になれることは絶対にない。
既婚者だと知っていながら、そんなことを考えてしまう自分がいて、気持ち悪くなる。
明日から、また東京での日常が始まる。
わかっている。
この気持ちは、沖縄に置いていかなければならない。
けれど、東京に戻れば、この夢からも覚めてしまう。
…まぁ、それも結局は偽物だったのだけれど。
もう一度、彼がいるカフェの方角を見つめ、心の中でつぶやく。
「さようなら。」
止まらない涙を拭う。
重い足を引きずるように、搭乗口へ向かった。
あれから一週間が経った。
東京に戻ってからも、私は彼のことを思い出しては泣いていた。
彼の連絡先は消すことができずにいる。
好きなまま手放す恋が、こんなにも辛くて苦しいものだなんて知らなかった。
元々食べることが得意ではなかったけれど、さらに食べられなくなった。
ご飯が喉を通らない。
家にいると、彼のことを考えてしまうのが嫌で、無理にでも予定を詰め込んだ。
けれど、どこにいても、何をしていても、ふと彼のことが浮かんでしまう。
天気の良い日、青空の写真を撮った。
彼に見せたくなるのに、それができない現実が、また胸を締め付ける。
彼に送りたかった写真が、どんどん私のフォルダに溜まっていく。
ある日、野良猫を見かけた。
真っ黒で、手足だけ白く、靴下を履いているみたいな可愛い猫だった。
彼に話したくてたまらないのに、それができない現実が、また気持ちをひどく落ち込ませる。
彼に話したかったことを、ノートに書き出す日々。
そろそろ二冊目が終わりそうだ。
可愛い服を買っても、見せたい人がいない。
綺麗なネイルをしても、見せたい人がいない。
日常はどんどん進んでいくのに、私はあの日から止まったままだ。
悲しい。寂しい。苦しい。切ない。
気持ちが、胸の奥に、静かに溜まっていく。
助けて。
このままじゃ溺れてしまう。
誰でもいいから、この気持ちだけ私の中から持っていってほしい。
そんなことを思ったって、この気持ちを消し去ることなんてできない。
無理に忘れようとすればするほど、余計に思い出してしまうからだ。
わかっているのに。
気持ちが雁字搦めになっているようで、息が詰まりそうになる。
頭ではわかっている。
それでも、私はまだ探している。
既婚者だと知る前の、あの日の彼を。
私に優しくしてくれて、「好きだ」と言ってくれた、あの瞬間の彼を。
けれど、どんなにあの時の彼を求めても、もういない。
二度と会うこともない。
今いるのは、誰かの夫で、父親として生きている彼。
それが、現実だ。
そのことを受け入れるまでに、かなり時間がかかった。
彼のせいで、私は深く傷つき、ひどく落ち込んだ。
日常さえ、ままならないほどになった。
けれど、動けずにいる私を置いて時間は経っていった。
前よりも、自分の気持ちを整理できるようになった。
少しずつ、気持ちを抱えたまま前を向けるようになった。
気づけば、三カ月が過ぎていた。
ゆっくりと、自分の生活を取り戻していった。
音楽が聴けるようになった。
歌が歌えるようになった。
ご飯が食べられるようになって、美味しいと思えるようになった。
ときどき切ない夜もあるけれど、ちゃんと眠れるようになった。
やっと私は、あの日から歩き出した。
彼は最低な人だった。
それでも、優しくて柔らかい雰囲気を纏った人だった。
よく笑う人で、ふにゃっと笑う可愛い人だった。
髭が生えていて、大きなクマみたいな人だった。
砂浜を、二人で手をつないで歩いた。
彼の手は大きくて、少しだけ温かった。
朝も昼も、一緒に海を見た。
海を感じながらドライブもした。
水族館で、並んで水槽を見上げた。
一緒にご飯を食べて、お酒を飲んで、他愛もない話をした。
たった三日間。
それでも、確かに恋だった。
戻ってこないあの時間。
二度と会えないあの人。
ふと空を見上げる。
沖縄で見た、あの海の青を思い出す。
東京の空は、今日も青かった。
私は、今日も自分の人生を生きていく。
あの遠い青を思いながら。




