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遠い青

作者: 海月霜月
掲載日:2026/03/16

十月。

街の木々が、ゆっくりと色を変え始める季節。


私は人生のどん底にいた。

先日、四年間付き合った彼氏に振られてしまったのだ。


今年三十歳。このまま彼と結婚するのだろうな、とぼんやり思っていた。

けれど、その未来は一瞬で崩れてしまった。


私は昔から、自分の本当の気持ちを素直に伝えることが苦手だ。


彼から「別れよう」と言われたときも、

「そう、わかった。今までたくさんごめんね、ありがとう。」と、それしか言えなかった。



街はハロウィン一色だった。

店先には顔をくり抜かれたかぼちゃが並び、電飾が街をきらきらと照らしている。

浮かれて楽しそうな人たち。

今の私には、その光景がどこか濁って見えた。


こんなふうに他人の幸せを素直に喜べないから、振られたのだろうか。


コンビニで買ったブラックコーヒーを一口飲む。

昔は苦くて飲めなかったのに、いつの間にか平気になっていた。

「はぁ、眠い。」

思わず大きなあくびが出た。

彼と別れてから、仕事で疲れているはずなのに眠れない日が続いている。

どうせ今夜も眠れない。



私は前野真紀。

どこにでもいる、平凡な会社員だ。


あと二か月で年末ということもあり、仕事は徐々に忙しくなってきた。

ここのところ帰宅時間は、毎日二十二時近い。

仕事で疲れた体をなんとか起こして、お風呂に入る。

パジャマに着替えて、やっとベッドに倒れ込む。

外着ではベッドに乗らない。それが私の小さなルールだ。


スマホの画面を開き、彼との写真を辿っていく。

こんなことをしているから、未だに立ち直れていないのだとわかっているのに、やめられない。

あぁ、このままじゃだめだ。

この部屋にいると、彼のことばかり思い出してしまう。



うん、旅行に行こう。

十二月になれば、今よりさらに忙しくなって、有給も取りづらくなる。

行くなら今のうちだ。

たまの息抜きだって大事だ。

大人だって、休みたいときもある。

それに、本音を言えば、年内のうちに彼への気持ちを整理したい。

最近肌寒くなってきたから、暖かいところへ行きたい。

行き先は沖縄にしよう。


今日も眠れそうにない。

私はベッドの上で、二泊三日の沖縄旅行のプランを立て始めた。




十一月。

いよいよ旅行当日。

私が住んでいる東京は、すっかり冬の空気に変わっていた。

これまでアイスで飲んでいたコーヒーも、ホットのほうが美味しく感じるようになった。


あの日、沖縄旅行を思いついた勢いのまま飛行機を予約した。

この時々現れる行動力は、一体どこからくるのだろう。


とくに細かく予定は決めていない。

ただ、私は水族館が好きなので、美ら海水族館は外せない。絶対に行く。


沖縄は高校生の頃、修学旅行で行ったきりだ。十二年前か。もうそんなに経つのか。

卒業してから同級生にはほとんど会っていないけれど、みんなは元気なのだろうか。

そう思ってみるけれど、正直そこまで興味はない。


沖縄はまだ暑いみたいなので、薄着で空港へ向かう。

ひんやりとした風が頬を撫でる。

…さ、寒すぎる。本当に沖縄は暑いのだろうか。


十時。

少し不安を感じながら飛行機に乗り込み、ベルトを締める。

いよいよだ。沖縄に着くのは十二時ごろ。

まずはどこへ行こう。緊張と期待で胸が膨らむ。

ぐんと体が引っ張られる。機体が加速する。

旅行は好きだけれど、飛行機の離陸はどうしても慣れない。

私は思わず手をぎゅっと握りしめた。


やがて機体は安定し、アナウンスが流れる。私はゆっくり目を開き、ほっと息を吐いた。

窓際の席から外を眺めると、どこまでも青い空が広がっていた。


気づけばうとうとしていたらしい。

スマホを見ると、出発から一時間半が過ぎていた。

沖縄まではあと少しだ。窓から差し込む光が、だんだん強くなってくる。


やがて機体が揺れ、車輪が地面に触れる音が響く。ゆっくりと滑走路を進んでいく。

アナウンスが流れ、ベルトを外す。

乗客たちが順番に降りていく。

その流れに合わせて、私もゆっくり立ち上がった。

「ふぅ。着いたー。」

地面に足が着く。この安心感といったら。


私は飛行機が苦手だ。ちなみに海も苦手だ。泳げないから。


キャリーケースを受け取り、空港をぐるりと見渡す。沖縄らしい空気に、心が躍る。

「本当に来たんだなー。」

沖縄は初めてじゃない。けれど、一人旅は人生で初めてだ。

私はかなり方向音痴で、人見知りでもある。道に迷ったら、多分簡単に詰む。

それでも、時間を気にする必要もないし、誰かに気を遣う必要もない。

心配事は尽きないけれど、それ以上にわくわくしていた。

二泊三日しかないのだから、とことん楽しもう。

高鳴る期待を胸に、私は空港を後にした。



この夜、私は彼と出会う。



ホテルに荷物を預けるため、キャリーケースをゴロゴロと引きながら歩く。

日の光が当たって、じんわりと暑い。背中が少し汗ばむ。

けれど日陰に入ると、風が涼しくて心地いい。

歩道脇の大きな木が風に揺れ、葉っぱ同士が当たってカサカサと音が鳴る。

沖縄を選んだのは避寒が目的だったけれど、十一月に来て正解だったな。

暑すぎず寒すぎず、本当に過ごしやすい。


二十分ほど歩いただろうか。

ホテルが見えてきた。

沖縄だからだろうか。近くの公園に植えてある木がとても南国っぽい。

わさわさと生い茂っていて背が高い。

これは東京では見られない光景だ。


ホテルに入り、フロントでチェックインを済ませる。

重たくて大きいキャリーケースを預け、やっと身軽に観光できるようになった。

さあ、これからどこへ行こうか。

今日は朝から何も食べていない。

猛烈にお腹が空いていた。


国際通りまで歩いて行ける。

ぶらつきながら、遅めのお昼ごはんを食べようかな。

私は軽い足取りで、国際通りに向かった。



国際通りはすごい人だった。

右を見ても左を見ても人、人、人。

カラフルな店がずらりと並んでいる。

これを食べたいというものはとくに決まっていない。

けれど、せっかく沖縄に来ているのだから、沖縄料理を堪能したい。

ソーキそばとか食べようかな。あぁ、でもゴーヤチャンプルーもいいな。

迷う。

お店が多すぎて、目移りしてしまう。

一旦、端から端まで歩いてみるか。


端から端まで歩いてみたけれど、結局決めることができなかった。

こういうとき誰かと来ていたら、その人に決めてもらえるのだけれど。


ふと目に入ったお店の前で足を止める。入り口のメニューをパラパラとめくる。

あ、ソーキそばがある。

「…もういいか、ここで。」

店内では扇風機がゆっくり回っていた。

時折吹く風が、汗ばんだ首筋に当たって気持ちいい。

案内された席に座って、ソーキそばを注文する。数分後、湯気の立つ丼が運ばれてきた。

「いい匂い…。」

小さく「いただきます」とつぶやき、麺をすする。

「んー、おいしい。」

空腹だったこともあって、あっという間に完食した。


時計を見ると、もう十七時。

食べたばかりなのに、またお腹が鳴る。

このまま居酒屋とか行こうかな。

少し満たされたお腹と一緒に、気分も軽くなっていた。


沖縄の夜はまだまだこれからだ。



十八時。

またお店選びで優柔不断が出てしまったけれど、

沖縄料理がたくさん食べられて、島唄のライブもやっているらしい店を見つけた。

まずゴーヤチャンプルーを頼む。

飲み物は、せっかくだからシークワーサーハイにした。

普段、一人で飲みに行くことなんてほとんどないから、少し緊張していた。

けれど料理もおいしく、お店の人も気さくで、すぐに肩の力が抜けていった。

奥から聞こえてくる島唄の演奏も心地いい。

「楽しいなぁ。」

店内はがやがやと賑わっていて、いろいろな会話が聞こえてくる。

ラジオみたいで、なんだか面白い。つい話の続きを待ってしまう。


ふわふわと、ほろ酔い気分になってきた。

お腹もそろそろ満たされてきたし、締めに何か頼もうかな。



そのときだった。



「あの、すみません。お一人ですか?」


最初は自分に話しかけられているとは思わず、聞き流していた。

けれど「あの」「すみません」と何度も聞こえてくる。

不思議に思って声のほうを見ると、髭の生えた大きな男の人が遠慮がちにこちらを見ていた。

体は大きいのに、声は少し高めで優しい。

照れたように笑っている。人懐っこそうな笑顔だ。


「え?私ですか?」

「あ、はい。あなたです。」


誰、この人。見覚えがない。私が忘れているだけだろうか。

「あ、いや。初めてですね、お会いするのは。」

どうやら思ったことがそのまま口から出ていたらしい。少し恥ずかしい。

「そう…ですよね。良かったです。…じゃあ、どなたですか?」

ふふ、と彼は笑った。

「羽川裕二と言います。お一人なのかなと思って。俺も一人だったので。楽しそうだったから、つい声をかけちゃいました。」

「はぁ…。どうも…。一人です。前野真紀です。」

軽く会釈する。


え、なにこれ。本当にこんなことあるんだ。



話を聞いてみると、彼も沖縄に一人旅に来ていたらしい。

先週仕事で大きなミスをしてしまい、なんとか乗り越えたものの、かなり落ち込んでしまったという。

気分転換もあって、今回沖縄まで来たのだそうだ。


もともと一人で出かけるのが好きらしい。

ただ、遠方への一人旅は今回が初めてで、少し緊張していたらしい。

そんなとき、自分と同じように一人で来ている人がいた。しかも楽しそうにしていた。

それで勇気を出して話しかけてみたのだという。


「どこから来たんですか?私は東京から来ました。」

「俺は北海道から来ました。端から端ですね。長時間フライトは腰にきます。」

「北海道から!また遠くから来ましたね。腰、大丈夫ですか?」


クスクスと笑っている自分に気づいた。

いつもなら初対面の人には、がちがちに緊張してしまうのに。



自分でも驚いたけれど、彼と話すのは思ったよりずっと楽しかった。

口周りには髭が生えていて、体はとても大きい。クマのような人だ。

だから最初は少し怖く見えた。

けれどよく笑う人で、笑った顔はふにゃっとしていて可愛らしい。

すごいギャップだ。

柔らかい雰囲気をまとった、優しくて穏やかな人。


彼と話していると、時間がゆっくり流れていくようだった。

それなのに、気づけばあっという間に時間が過ぎていた。

他愛もない話をしているだけなのに、その時間がとても心地よかった。


「あ、四十歳なんですか?私より十歳上ですね。」

「十歳差…!もうおじさんですね。」

「いやいや、そんなことないですよ。」


私より十歳上か。

けれど、帽子をかぶってオーバーオールを着ている彼は、とても四十歳には見えない。



いつの間にか島唄の演奏が終わり、二人で拍手をした。

「東京ではあまりないので、こういうの、とても楽しいです。」

「わかります。もうちょっと聴いていたかったですね。」


途中から話すことに夢中で、演奏は半分ほど聞いていなかった。

お互いそれがわかっていて、冗談っぽく笑い合う。


「このあとはどういう予定ですか?」 

「とくに決めてないです。羽川さんは?」

「俺も気ままな一人旅なので、とくに決めてないです。…あの、よかったら、このあと一緒に歩きませんか?」

「いいですよ。じゃあ、行きましょうか。」

ほんのりと顔が熱くなる。お酒のせい、きっとそれだけだ。



それぞれ会計を済ませて、店を出る。

沖縄の夜の空気が、火照った肌にふわりと触れた。

昼より少し涼しい風が吹き、あちこちから笑い声が聞こえてくる。


時刻は二十時。

空はすっかり暗いのに、国際通りはギラギラと光り、まだ眠りそうにない。

「夜の国際通りはまた違って見えますね。楽しそうです。」

「私も思いました。人も街も踊っていますよね。」

「詩的ですね。」

二人で顔を見合わせて静かに笑う。

すると、近くの店から大きな笑い声が聞こえてきて、つられてさらに笑えてくる。

「よさそうなお店があったら入りますか?」

「二軒目ですね。そうしましょう。」


気づけば自然と、彼の隣を歩いていた。


彼はさっきのお店でそれなりにお酒を飲んでいたらしく、足取りがふわふわしていて、とても楽しそうだ。

話を聞いた感じでは、かなりのお酒好きらしい。

私も普段より少し多めに飲んだせいか、顔が熱い。

手のひらが少し湿っていることにも気づく。


「あ、コンビニ。アイス食べようかな。」

「いいですね、アイス。俺も食べようかな。」


チョコ味のアイスをかじる。

甘くて冷たく、ほんの少し日常の楽しさを思い出す。彼も嬉しそうに小さなアイスを口に運んだ。


「んー。美味しい。」

「ですね。寒くないですか?」

「大丈夫です。ありがとうございます。」

「アイス、美味しいけど知覚過敏で歯にきます。」

「腰やら歯やら大変ですね。大丈夫ですか?」

彼のユーモアがツボに入って、思わず笑ってしまった。


夜風が頬をかすめる。

ふと隣を見ると、彼は嬉しそうに微笑んでいた。

その顔を見て、胸が小さく跳ねる。一瞬息をするのを忘れてしまった。

慌てて顔をそらす。


おかしい。見た目は全然タイプじゃないのに。

髭はあまり好きじゃないし、木こりみたいな体格も好みではない。

私はサーファーみたいな体格の人が好きなのに。


それなのに、この人といると不思議と肩の力が抜ける。

一緒に見ている景色がほんの少し輝いて見えた。



彼は、海のような人だと思った。

穏やかで、波のようにゆったりとしている。

けれど、ぱっと見ただけではわからない深さがある。


彼のそばにいると、広い海の前に立っているような気持ちになる。

少しだけ自分の小ささを感じながら、それでもまたここに来たいと思ってしまう。


心地よくて、胸の奥のもやもやがすっと溶けていく。


こんな感覚は、初めてだった。


私は泳げないから、海が苦手だったはずなのに。

それなのに今は、その深さを怖いとは思わない。

もう少し近づきたいとさえ思った。


まだ、この人のことをちゃんと知っているわけではない。

それでも私は、この人のことを、人として好きだと思った。


きっと、海を好きになるのと同じ理由で。




さらに少し歩いて、小さなバーに入った。

外の喧騒とは別世界のように、店内は落ち着いた空気に包まれている。

木のカウンターに腰を下ろす。

ほんのりと漂うウイスキーの香りと、柔らかいジャズが耳をくすぐった。

バーテンダーが氷をグラスに落とす音が、静かな店内に小さく響く。

「おしゃれなところですね。」

「ね。俺も普段こんなところ入らないから、ちょっとドキドキする。」


いつの間にか、彼は敬語を使っていなかった。

心を開いてくれたのだろうか。そう思うと、なんだか嬉しくなる。



隣に座る彼と、ふと目が合う。

他愛もないことばかり話しているのに、自然と笑ってしまう。

笑い声が途切れても、気まずさはない。

ただ穏やかな時間が、静かに流れていく。



しばらくお酒と音楽を楽しんでから、店を出た。

時計を見ると、もうすぐ零時になろうとしていた。


ネオンに照らされた道を歩く。

さっきまで聞こえていた笑い声は、もうほとんど聞こえない。

車の通りもなく、ときどき自転車が静かに横切るだけだ。


「うーん」と思い切り伸びをする。


「そろそろホテルに戻る?」

「そうですね、もうこんな時間ですし。」


そう答えたけれど、本当はもう少し彼と一緒にいたかった。

けれど、さすがにもうこんな時間だ。


「どこのホテルに泊まってるの?遅いし送るよ。」

「ありがとうございます。でもここから歩いて十分ですし、大丈夫ですよ。」

「歩いて十分?もしかしてあそこのホテル?」

「そうです。え、もしかして同じところに泊まっているんですか?」

「ぽいね。」


思わず笑ってしまう。

知らない土地での思いがけない偶然に、胸の奥がふっと緩んだ。

「じゃあ、一緒に戻ろうか。」

「そうですね。」



街は明るいのに、歩いているのは私と彼だけのように思えた。

まるで沖縄に、私たち二人しかいないみたいだ。


「ちなみに、明日の予定は?」

「美ら海水族館に行こうと思っています。」


そう言うと、彼は少し考えるような仕草をした。そして遠慮がちに言う。


「…俺も一緒していいですか?」


あれ、ここでは敬語なんだ。

大きくてクマのような人が、小さくなってこちらの様子をうかがっている。

その姿がなんだか可愛く見えた。


「もちろん、いいですよ。一緒に行きましょう。」

そう答えながら、心の中で、小さく期待が膨らんでいくのを感じた。


「じゃあ、連絡先、交換しておこうか。」

「そうですね。明日の予定立てないとですしね。」


スマホを取り出し、LINEを交換する。彼の名前が、ともだち欄に追加された。


「ちゃんと交換できたのかな。今、何か送ってみてもいい?」

「大丈夫ですよ。私も何か送りますね。」


ポコン、とメッセージが届く。画面には「よろしくね」の文字。

私は、「こちらこそ」と返信した。


それだけのやり取りなのに、胸の奥が少しくすぐったくなる。

気づけば、画面に表示された彼の名前をもう一度見つめていた。



ホテルに着いた。

同じホテルに帰る人がいるというだけで、なんだか心強い。

迷わず無事にたどり着けたことにも、ほっとする。

エレベーターで別れた。

ドアが閉まる瞬間、自然と軽く手を振り合った。


自分の部屋に戻り、キャリーケースが置かれているのを確認する。

ふう、と火照った体をソファに沈めた。

静けさの中で、今日一日の出来事がゆっくりと思い出された。


バーでの笑い声。

アイスを食べたときの夜風。

彼と交わした会話。


思い返すたびに、自然と彼の顔が浮かぶ。

胸の奥で、小さなざわめきが広がる。


こんな偶然の出会いが、これから何かを変えるのかもしれない。

そう思うと、なかなか眠れなかった。



翌日。

沖縄旅行の二日目。

今日は一人じゃない。羽川さんも一緒だ。


予定より早く起きて、念入りに準備をする。


いつもなら十分あれば終わるメイクも、今日は三十分かかった。

服はワンピースにした。

動きやすさ重視でデニムばかり持ってきていたけれど、ワンピースを一着入れておいてよかった。

二日前の私、ありがとう。

毛先をアイロンで巻いて整える。

小ぶりのイヤリングをつける。

お気に入りのピンキーリングをはめる。

最後に薄いピンクのリップを塗って、準備完了だ。



昨夜、羽川さんと別れてから、なかなか眠れなかった。どうやら彼も同じだったらしい。

ピコン、と通知音が鳴る。彼からだ。


“今日はありがとう。もう寝たかな。なかなか眠れなくて。”

“こちらこそありがとうございました。私も眠れずにいます。”


すぐに既読がついたと思ったら、スマホが震えた。

画面には「羽川裕二」の名前。電話だ。

少し息を整えて電話に出る。


「もしもし。」

「もしもし。ごめん、突然。どうせ眠れないなら、明日の予定でも一緒に立てようかなって思って。」


電話越しの声は、少しだけ近くに感じた。


「大丈夫ですよ。そうしましょうか。」


最初は明日の予定を立てていたのに、いつの間にか話は脱線し、他愛もないことばかり話していた。

いつ帰るのか。

どんな仕事をしているのか。

好きな食べ物や嫌いな食べ物。

誕生日や血液型。


気づけば、話し始めてから二時間が経っていた。


「すみません、気づいたらもうこんな時間。そろそろ寝ないとですよね。」

「うわ、本当だね。こちらこそごめん。全然気づかなかったよ。」

「楽しかったです。明日、よろしくお願いします。」

「こちらこそ。十時にホテルのロビーだったよね。楽しみにしてる。」

「はい。じゃあ、おやすみなさい。」

「うん。おやすみ。」


そう言いながらも、なかなか電話を切れない。

すると、電話の向こうからふふ、と笑い声が聞こえてきた。


「切らないの?」

「いや、なんだか名残惜しくて。羽川さんが切ってください。」

「俺だってそうなんだけどな。」


少し笑ってから、彼が言う。


「わかった。じゃあ切るよ。おやすみ。」

「はい。おやすみなさい。」


少し間があって、プツンと電話が切れた。


電話を切ったあとも、しばらくスマホを握ったまま、履歴を見つめていた。

画面には、さっきまで話していた彼の名前が残っている。



結局眠れたのは、深夜三時を過ぎてからだった。

普段ならこんな日はお昼過ぎまで寝てしまう。

けれど今日は、目覚ましよりも早く目が覚めた。


旅行に来ているからなのか、それとも彼と会うからなのか。

理由はわからない。

けれど、なんだかとても気分がいい。


鼻歌を歌いながら、上機嫌で準備をした。



八時。

準備はすっかり終わっていた。

約束の時間までまだ二時間ある。

どうやって時間をつぶそうか。


泊まっているホテルの目の前には海が広がっている。

いわゆるオーシャンビューというやつだ。


東京に住んでいると、海を見ることはほとんどない。

少し見に行ってみようかな。


カーディガンを羽織り、スマホだけ持って部屋を出た。



エレベーターでロビーまで降りる。

まだ早い時間なのに、ソファにはちらほら人が座っていた。


「あれ?」


見覚えのある人がいる。

髭が生えていて、クマみたいに大きな人。


羽川さん?


本を読んでいるようだけれど、ページは進んでいない。


慌ててスマホを見る。

画面には八時十五分と表示されていた。

良かった。

時間を見間違えているわけではなさそうだ。


それなら、どうして彼はここにいるのだろう。


彼に近寄り、そっと声をかける。


「羽川さん?」


驚いたようにこちらを見る。

それから目を伏せて、少し照れたように頭をかいた。


「おはよう。いや、なんだか落ち着かなくて。約束の時間の前だけど待っていようかなって。」

「え?」


何か言う隙もないほど、彼は早口で話し出した。

「びっくりするよね。ごめん。前野さんはどうしてここに?」

「私は、せっかくだし海を見ようかなと思って…。」

「いいね。朝に見る海は、また印象が違うよね。」


なんとか会話はしているけれど、頭がうまく回らない。

二時間も前から私を待っていた。その事実に驚いて、けれど嬉しくて。


「羽川さんも、見に行きますか?海、一緒に。」

「え、いいの?じゃあご一緒しようかな。」


嬉しそうに笑う彼。栞をはさみ、本を閉じる。小さな鞄にしまって立ち上がった。


「じゃあ、行こうか。沖縄でも、朝は少し寒いだろうから気をつけてね。」



そのとき、ふと思った。



あ、私、この人のこと好きだ。



見た目は全然タイプじゃない。

今まで好きになった人とも違うし、知り合ってまだ二日目だ。


それでも私は羽川さんのことが好きだ。



「あの、実は私も今日楽しみにしていて。早く準備が終わってしまったから、海を見に行こうかなって思ったんです。」

「え、そうなの?」

「はい。ロビーで見つけたとき、嬉しかったです。」

「そうなんだ、良かった。引かれたかなと思ってたから…すごく嬉しい。」


ほっとしたように笑う彼。

好きだと自分の気持ちがはっきりしてから、彼の言動すべてが可愛く見える。


「あそこから外に行けるみたいだよ。行こう。」

「はい、行きましょう。」


ロビーの奥にある浜辺へ続く扉へ向かう。


扉は思ったより重くて、なかなか開かない。

すると彼が、私の後ろからそっと手を伸ばして押した。

背中のすぐ後ろに彼の気配を感じて、少しうつむいた。

重かった扉はあっという間に開いた。


そのとき、ふと彼との体格差に気づく。

私は身長が160センチ。彼は180センチある。


彼の目を見て話すときは、かなり顔を上げないといけない。

それに気づいているのか、それとも無意識なのか。

話すとき、彼は少しかがんでこちらに耳を傾けてくれる。

それがとても嬉しかった。



ロビーから出て、少し歩く。

砂浜に靴が沈み、視界いっぱいに海が広がった。

朝日が海の上でキラキラと光っている。

風は少しひんやりしていた。

やっぱりカーディガンを羽織ってきて正解だ。


「寒くない?大丈夫?」

「大丈夫です。ありがとうございます。羽川さんは寒くないですか?」

「ありがとう。俺も大丈夫だよ。」


彼のさりげない優しさが嬉しかった。


このまま歩くのもいいけれど、足の先だけなら海に入ってみたい気持ちもある。

いつもなら、そんなこと思わないのに。


「足だけ、海に入ってみる?」


私は驚いて彼の顔を見る。

ちょうど今、同じことを考えていたからだ。


「奇遇ですね。私も今、同じことを考えていました。」

「本当に?以心伝心かな?」


冗談っぽく言って、彼は笑う。

楽しい。

こんな時間がずっと続けばいいのに。


「さすがに風邪を引きそうだし、このまま歩こうか。」

「ふふ、そうですね。」


並んで砂浜を歩く。

時々、靴の中に砂が入り込む。


けれどそれも気にならないほど、私は浮かれていた。




三十分ほど歩いただろうか。

彼と過ごす時間は、驚くほど早く過ぎていく。

さっきよりも暖かくなって、やわらかい風が足元を通り抜けた。


そのとき、盛り上がった砂に足を取られた。


「わっ。」


体がぐらりと傾く。

転ぶ、と思って目をぎゅっとつぶった。




…あれ?


転ばない。




気づくと、彼の手が私の手首をしっかりつかんでいた。

彼の手は、私よりも温かい。


「大丈夫?危なかったね。」


心配そうに、私の顔をのぞき込む。胸がどきりと跳ねた。


「…はい。ありがとうございます。」


恥ずかしさをごまかすように、顔をそらす。


そっと手を離そうとする。


けれど、その瞬間。

彼の手に少しだけ力が入った。



離れない。



顔を上げて彼を見ると、照れたように笑っていた。


少しだけ沈黙が続く。


彼の手の温もりが、なかなか離れてくれない。


沈黙を破るように、彼が静かに言った。


「ごめん。いつまでも掴んでいたら痛いよね。」


彼の手が、私の手首から手のひらへと移る。そして、ぎゅっと握られた。


「あ…いえ。本当に大丈夫です…。」


言葉が詰まる。

こういうとき、何て言えばいいんだろう。

自分の顔が赤くなっているのがわかる。

私は足元を見つめた。


彼の手は離れないまま、また歩き出す。



砂浜を踏むたび、しゃりっと音がする。

波の音が、ゆっくりと寄せては返していく。


海はどこまでも青かった。

その青の中で、私たちは手をつないで歩いた。



けれど彼も、そのことには触れてこない。

私も触れられずにいる。


ただ、つないだ手から伝わる体温だけがそこにあった。


「そうだ。前野さんも、そろそろ敬語やめてほしいんだけど、どうかな。」

「あ、そうですね。じゃあ…えっと…」


少し考えてから、私は言った。


「お腹、すいたね。」


彼はくすっと笑う。


「たしかに。そろそろ戻って朝ごはん食べる?」

「そう…だね。」

「一緒に食べる?」

「はい。」

「あ、こら。敬語に戻ってるよ。」

「あ…えっと。うん。」


少しぎこちない空気のまま、私たちは来た道を戻る。

手は、つないだままだった。


大丈夫かな、手汗とか。

緊張と嬉しさで心臓の音がすごい。

耳の横で鳴っているみたいだ。

隣にいる彼に聞こえていませんように。



ロビーの入り口に着くと、彼の手の力が緩み、自然と手が離れる。

ほっとしたような、でも少しさみしいような。

不思議な気持ちになる。


「二階にビュッフェ会場があるみたいだけど、このまま行く?一度部屋に戻る?」

「いえ、このまま行きましょう。…行こうか。」

「ぎこちないなぁ。」

「ほんとにね。」


お互い顔を見合わせて笑いながら、エレベーターに乗り込む。

私たちと同じように、会場へ向かう人が数人いる。

自然と会話も止まった。


ふと鏡に目がいく。

隣にいる彼は、このエレベーターの中で一番大きい。


今日も帽子を被っている。

青いシャツがよく似合っている。

今日はメガネもかけている。


鏡の中の彼を見ながら、心の中でつぶやく。



好きだなぁ。



その瞬間、バチっと鏡越しに彼と目が合った。


彼は笑いそうになる口元を、大きな手のひらで隠す。


…あ。

さっき私と手をつないでいた方の手だ。左手。


そう思った瞬間、かーっと顔が熱くなる。

それを隠すようにうつむいた。



チン、と音が鳴り、エレベーターが止まる。表示は二階を指していた。

ぞろぞろと人が降りていく。

最後に、私と彼の二人だけがエレベーターを降りた。


「さっき、なんで見てたの?」


彼が小さな声で問いかける。


「…いや、その、帽子が似合ってるなと思って。」


我ながら苦しい言い訳だ。けれど、今はこれで勘弁してほしい。顔から火が出そうなのだ。


「そう?ありがとう、嬉しいよ。帽子好きなんだ。」


二人でビュッフェ会場に向かう。入り口に差し掛かったとき、彼が言った。


「でも、それだけじゃないでしょ?」


少し意地悪な顔で笑っている。そんな表情もするんだ、とつい見とれてしまう。

はっと我に返り、慌てて答える。


「本当にそれだけ。」

「えー?本当かなぁ。」


十歳上の余裕を感じる。けれど、どこか無邪気で子どもっぽい。

知れば知るほど、彼を好きになる。



二人で朝食を済ませる。

気づけばもうすぐ十時だった。


「じゃあ、一旦部屋に戻って、荷物片づけてからロビーに行くよ。」

「うん。私も。」




部屋に戻る。

朝出たときのままの部屋を、軽く片付ける。

もう一度、毛先をアイロンで巻く。

リップを塗り直す。

汗臭くないか確認して、制汗スプレーを少しだけ振りかける。

スマホ、ルームキー、ハンカチ、リップ。

必要なものを鞄にしまう。

準備を終えて部屋を出た。


今日は一日、彼と一緒だ。

自然と足取りが軽くなる。



ロビーへ出ると、彼が先に待っていた。

私に気づき、手を振る。

私も少しぎこちなく手を振り返した。


ホテルの入り口に立つスタッフの方が声をかけてくれた。

「良い一日を。」


普段なら軽く会釈するだけなのに、今日は自然と言葉が出た。

「ありがとう、行ってきます。」




彼と並んでホテルの外へ出る。

日の光がまぶしい。

スマホを取り出し、ナビアプリを起動する。


「車で行くの?それとも電車?」

「レンタカーを予約してるから、とりあえずそのお店まで歩こう。」

「了解。」


この辺りは坂道が多い。

昨日は上り坂だったから、今日は下り坂だ。

体が少し前に傾き、自然と早歩きになる。

足元がもつれたら、おむすびみたいにコロコロ転がってしまいそうだ。

気を付けないと。


「坂道、気を付けてね。」

「上り坂もきついけど、下りは下りで膝にくるね。」

「おじさんみたい…。」

「おじさんなんだよ。」

楽しく話しながら歩く。

下り坂なのに、息が少し上がる。

もう少し体力をつけたほうがいいのかもしれない。


軽いドライブになるので、途中でコンビニに寄った。

彼はブラックコーヒー。

私はカフェラテ。




レンタカーを予約していた店に到着した。

スタッフから注意点を聞き、返却時間を確認する。


予約していた車に、二人で乗り込んだ。

もともとは一人旅だったので、私が運転するつもりだった。

けれど、彼が運転してくれることになった。

私は助手席に座る。

思っていたより距離が近くて、少しドキドキする。


「じゃあ、行こうか。」

「うん、お願いします!」


目的地を沖縄美ら海水族館に設定する。

シートベルトを締め、スマホのプレイリストを流した。

車がゆっくりと動き出す。


「お。この曲、俺も好きでよく聴くよ。」

「本当?いい歌だよね。」


自然と会話も弾む。


今日はまだ、始まったばかり。




最初は二人で歌ったり、

窓を少し開けて「風が気持ちいいね」と話したりしながら、

のんびり目的地へ向かっていた。


けれど慣れない土地なので、ナビがあっても何度か道に迷ってしまう。


私も方向音痴なのだけれど、どうやら彼も同じらしい。

彼は少し眉を寄せながら、ナビの画面をのぞき込んでいる。


迷って焦っているのだろうけれど、私は彼の新たな一面を知ることができて、内心嬉しかった。


「この道じゃない?」

「今のところ右折じゃない?」

二人で言い合いながら進んでいく。


出発したのは十一時だったけれど、美ら海水族館に着いたのは十四時を過ぎた頃だった。


「ごめん…。迷って着くの遅くなっちゃった…。」


わかりやすく落ち込んでいる彼を見て、可愛いなと思う。


「大丈夫だよ。急いでないし、ドライブ楽しかったよ。運転ありがとう。」

「優しい…。気使ってくれてる…。」


彼はそう言うけれど、本当に楽しかった。

天気は快晴。

好きな人とドライブして、窓の外には海が見える。


これ以上ないほど幸せな時間だった。




館内に入り、美ら海水族館の入場チケットを買う。

やっぱり人気なのだろう。館内はかなりの人であふれていた。

気を抜くと、彼とはぐれてしまいそうだ。


「すごい人だね。」

「そうだね、沖縄に来たら美ら海水族館は行っておきたいよね。」

「はぐれたら、見つけるのが大変そうだね。」

「本当にね。気をつけないと。」


伝わってないなぁ、というように、彼は頭を少しかきながら笑う。どうしたんだろう。


「手、つなぎたいって意味だったんだけど。」

「…あ…。」


館内が少しだけ薄暗くて助かった。きっと今、顔が真っ赤だ。


「いい?」


そう言って確認してくれたけれど、彼の左手はもう私の右手のそばまで来ていた。


「…うん。」


私は右手をそっと彼の左手に重ねる。

ぎゅっと力が入り、彼の手が私の手を包み込む。


朝も思ったけれど、彼は手も大きいんだな。

彼の手の中にすっぽりとおさまる自分の手を見て、このままずっと、離さないでいてほしいと思った。




手をつないだまま、人の流れに沿ってゆっくり館内を見て回る。

亀やジュゴン、チンアナゴなど、見どころがたくさんあって楽しい。


しばらく歩くと、大きな水槽が見えてきた。

人の数もひと際多い。


ジンベエザメが泳ぐ大水槽だ。


水槽の前で、二人並んで立つ。

水槽の中は、どこまでも深い青だった。

光に揺れる水の色が、まるで遠い海の中にいるみたいだった。


ジンベエザメが頭上をゆっくりと泳いでいく。


「すごい…。」


思わず声が小さくなる。

見るのは二回目なのに、やっぱりその迫力に圧倒される。


ふと横を見ると、彼も同じように水槽を見上げていた。

何も言わずに、ただ、じっと見つめている。

その横顔を、つい見てしまう。


「こっち見すぎ。」

「…!」


ばれていた。恥ずかしい。

何か言い訳を言いたいのに、何も思いつかない。


「…いや、何を思ってるのかなって。」


「…えー?ひみつ。」


笑って答える彼。

つないだ手に、少しだけ力が入る。


…どうしたんだろう。


不思議そうにしている私の様子に気づいたのか、彼は少し伏し目がちに、小さな声でつぶやく。


「ずっとこのまま、こうしていたいなって思ってたんだよ。」

「この時間が、終わらなければいいのにって。」


胸の奥がどくんと鳴った。

気づけば、彼と目が合っていた。


いつもなら恥ずかしくて、すぐに逸らしてしまうのに、

なぜかこのときは、目を離すことができなかった。


そのとき、水槽の青い光がふっと揺れた。

私たちは、そっと視線を水槽へ戻した。


大きな魚が、ゆっくりと水槽の奥へ泳いでいく。


「綺麗。ずっと見ていられるね。」


私がつぶやくと、彼は小さく笑った。


「…そうだね。」



けれどその声は、どこか遠くを見ているようだった。




「楽しかったね。」

「うん。ジンベエザメ、すごかった。」


二時間ほど館内を見て回ったあと、彼が言った。


「帰りに海、寄らない?」


もう一度彼と海が見たかったから、私は「うん」と頷いた。




しばらく車を走らせると、大きな橋が見えてきた。

その近くに車を停めて、浜辺へ向かった。


昼間より少し傾いた太陽が、海の表面をきらきらと照らしている。

波の音がゆっくり繰り返されて、さっきまでの水族館の賑やかさが、遠い出来事のように感じられた。


少し離れたところで、カップルがウェディングフォトを撮っていた。

白いドレスが風に揺れて、カメラマンの声に合わせて二人が幸せそうに笑っていた。


素敵だな、と思いながら眺める。


私はスマホを取り出して、写真を撮る。

どこまでも青い空。

遠くまで広がる水平線。

揺れる波。

柔らかい日の光。


綺麗だな、と思う。

そして、綺麗だなと思える自分に、少し驚く。


元婚約者のことを、まったく思い出していないことに気づく。

つい最近まで、何をしていても思い出してしまっていたのに。



きっと、彼と出会ったからだ。



ふと横を見ると、彼もいろんな写真を撮っているみたいだった。

海や砂浜、空や鳥の写真を撮っている。

時々しゃがみこんで、何かを真剣に覗き込んでいる。

カニでもいたのかな。


その後ろ姿がなんだか可愛くて、私はこっそり彼にスマホを向けた。

ばれないように、そっとシャッターを押す。

彼の写真が、一枚増えた。


多分、彼は気づいていない。


「何撮ったの?」


いつの間にか、彼が隣に立っていた。

いつからそこにいたの?ばれてないよね?いろんな考えが頭の中をよぎる。


「海撮ったよ。」


心臓はバクバクしているけれど、なんとか平静を装う。私はスマホの画面を見せる。


「いいね。すごく綺麗。」


そう言って、彼は海のほうへ目を向けた。


「海って、涙の味がするんだって。」

「へぇ、素敵だね。」


彼は黙ったまま遠くの水平線を見つめている。一体、何を考えているのだろう。




気づけば、空の色が少しずつ変わり始めていた。

すでに十八時を過ぎていた。


「そろそろ戻ろうか。」

「そうだね。」


もう一度、振り返って海を見る。

波はさっきと同じように、静かに砂浜へ寄せていた。




車に戻り、レンタカーを走らせる。

窓の外には、夕方の沖縄の街並みがゆっくりと流れていく。

オレンジ色の空が、建物の隙間からのぞいていた。


なんとなく、何も話せなかった。

きっと彼も同じだった。


車の中は、音楽だけが響いていた。




レンタカーを返し、歩いて国際通りへ向かう。

昼間よりも人が増えていて、通りは賑やかだった。


お土産屋の明かり。

どこからか聞こえてくる三線の音。

観光客の楽しそうな声。


さっきまでの静かな海とは、まるで別の世界みたいだった。




昨日とは違う居酒屋に二人で入る。

店員さんに案内されて席に座ると、私はふぅと息をついた。



相変わらず彼と話すのは楽しくて、お酒もどんどん進んでいく。

お酒は好きだけれど、強いわけではない。

だからすぐに顔が赤くなる。


そんな私を見て、彼は頬杖をつきながら微笑んでいる。

髭の奥で、ふにゃっと柔らかく笑っていた。


「可愛いね。」


その一言に、一瞬酔いが覚める。

ドクドクと鳴る自分の心臓がうるさい。


「そういうこと言わないで。期待しちゃうから。」

「期待してくれてもいいんだけどね。」


「どういうこと?」

「そのままの意味だよ。」


「じゃあ、言ってもいい?」

「何を?」



私はグラスから手を離す。

そして、彼を見つめる。



酔っているからだろうか。

心臓が、うるさいくらい鳴っている。



「…好き。」



「え?」


「私、羽川さんのこと、好きです。」



彼は私を見たまま、何も言わない。

一瞬、顔が曇ったような気がした。



彼は私から目を逸らす。

そして、頭を少しかきながら笑う。



「突然だな。」

「突然言うの、だめだった?」

「だめじゃない。嬉しいよ。でも、酔っていないときに言ってほしいな。」


酔っていようが、いまいが、私の気持ちは変わらないけれど。


「わかった。明日言う。」

「うん、そうして。」




しばらく料理とお酒を楽しんだあと、店を出た。

明日は最終日。

朝から片付けやチェックアウトで慌ただしくなるだろうから、

今日はもうホテルに戻ろうということになった。


夜の道を二人で歩きながら、ふと自分が言った言葉を思い出して恥ずかしくなる。

気持ちに嘘はない。

けれど、酔った勢いだったことも確かだ。


「さっきの、忘れてもいいよ。」

「だめ、忘れないよ。明日楽しみにしてる。」


彼は笑う。


私は好きだと言ったけれど、彼は同じ言葉を返してくれない。

私のことを、どう思っているのだろう。



一緒にいられる時間は、もう残り少ない。

明日が来る前に、もう少しだけ一緒にいられることが、ただ嬉しかった。



目線を少し落とす。

彼の左手まで、あと数センチ。

けれど、自分から手をつなぐ勇気はなかなか出ない。


彼はそんな私の葛藤には気づかず、楽しそうに鼻歌を歌っている。


「沖縄は、時間が止まっているみたいでいいよね。」

「うん?」

「…ずっとここにいられたらいいのにね。」


「どうしたの?」と聞こうとして、やめた。


彼の横顔は、さっきまでの楽しそうな表情とは少し違って見えたからだ。




翌日。

いよいよ最終日がやってきた。


私は十四時半の便を、彼は十五時の便を予約している。

時間がほとんど変わらないので、早めに空港へ向かい、そこで一緒に過ごすことになった。


二人でタクシーに乗り込み、空港へ向かう。

沖縄で過ごす時間も、あと少しだ。


昨日の告白を思い出し、顔から火が出そうになる。

ばれないように、横目で彼を見る。


窓の外を見ている彼の顔は、私からは見えなかった。




空港に着き、角にあるカフェに入る。

彼はブラックコーヒーを頼み、私はカフェラテを頼んだ。


彼は一口コーヒーを飲んだあと、ふぅと息を吐き、静かに口を開いた。


「昨日の話、覚えてる?」


ドキッと心臓が鳴る。思わず飲んでいたカフェラテをこぼしそうになる。


「うん。覚えてる。」

「なんだった?」


「私が、羽川さんを好きって話だよね?」

「そう。よかった、忘れてなかった。」


「忘れるわけないよ。そもそも私、酔って記憶が飛ぶことなんてほぼないし。」

「ということは、少なくとも一回はあるということだよね。」


くく、と笑う彼。

こういう、ときどき意地悪なところも好きだと思う。


「俺もこの三日間、前野さんと一緒に過ごして、とても楽しかったよ。本当に。」

「うん。」


「俺も、前野さんのこと好きだなと思った。」

「…うん。」


「沖縄に来てよかったって思った。」

「うん。」


「昨日、水族館でさ。俺、ずっとこのままこうしていられたらいいのにって、本気で思った。」

「うん。嬉しい。」


彼はそこで、少しだけ笑った。

けれど、その笑顔はどこか苦しそうだった。


「…でもね。」

「まず、俺は北海道に住んでいるから、滅多に会えない。」


「…そうだね。」





沈黙が流れる。

うつむく彼。


肩が少しだけ震えているように見える。

気のせいだろうか。




彼は意を決したように、ぱっと顔を上げた。



「…実はね。」



彼はコーヒーを見つめたまま言った。



「…言わなきゃいけないことがある。」



何かを言おうとしている彼。

一体何だろう。


彼の表情が、ただ事ではないことを物語っていた。



「…実は、俺、結婚してるんだ。」


彼の左手には、さっきまではなかった指輪が光っていた。




………え?




「ごめん。…言い出せなくて。」

「子どももいる。」

「前野さんのことを好きだと思った気持ちは、嘘じゃない。」

「でも、この先前野さんと会うことはない。」

「今日が前野さんと過ごせる、最後の日なんだ。」

「最初から言わなきゃと思っていた。」

「でも、前野さんと過ごす時間が楽しくて…言えなかった。」

「本当にごめん。」




彼は早口で言葉を続ける。

私は何も聞いていないのに。


鈍器で頭を殴られたような感覚が走った。

頭が回らない。


彼の声がどんどん遠くなる。

背中に冷や汗が流れ落ちる。




彼は何を言っているの?




震える唇をぎゅっと噛み締める。

どうにか自分を落ち着かせようとする。


声にならない声を、乾いた口から絞り出す。



「…既婚者?」



彼は私を見ようとしない。

昨日までとは別人みたいだ。



でもお願い。

嘘だと言って。



「…そう、だね。」



私の願いは、一瞬で砕けた。



「…じゃあ、なんで」

「え?」


「なんで、お店で声をかけてきたの?」

「…それは、」


「なんで、一緒に水族館に行ったの?」

「…。」


「なんで今日、私のことを好きだと言ったの?」

「でも、」


「全部、嘘だったってこと?」

「それは違う、嘘じゃない。」

「無理だよ…。何言われたって、もう何も信じられないよ…。」




彼はときどき、遠くを見つめることがあった。

あのとき、何を見ていたのだろう。


今ならわかる。

きっと、私以外の場所だ。

帰るべき場所を。




そんなことも知らずに私は、彼の隣にいられることを喜んでいた。



…ばかみたいだ。



目の前の彼は、うつむいて肩を震わせている。

顔は見えないけれど、泣いているように見えた。


「なんであなたが泣くの…。泣きたいのはこっちだよ…。」


周りからは、楽しそうな笑い声が絶えず聞こえてくる。

私は目の前にあるカフェラテを見つめることしかできない。


もう一度、彼に目を向ける。

あのあと彼は、私を見ることはなかった。




私は何も言えなかった。

何も言えないまま、席を立った。


カフェを出る。

無意識に早足になる。

涙が次から次へと溢れてくる。


すれ違う人が、驚いたように私を見る。

でも、そんな視線も気にならない。


空いているソファに腰を下ろし、前かがみになって自分の膝に顔をうずめる。


私は声を押し殺して、静かに泣いた。




あんな最低な事実を知ったのに、彼のことを嫌いになれずにいる私も、どこかおかしいのかもしれない。


どれだけ好きでも、彼と一緒になれることは絶対にない。

既婚者だと知っていながら、そんなことを考えてしまう自分がいて、気持ち悪くなる。




明日から、また東京での日常が始まる。


わかっている。

この気持ちは、沖縄に置いていかなければならない。


けれど、東京に戻れば、この夢からも覚めてしまう。



…まぁ、それも結局は偽物だったのだけれど。




もう一度、彼がいるカフェの方角を見つめ、心の中でつぶやく。


「さようなら。」


止まらない涙を拭う。

重い足を引きずるように、搭乗口へ向かった。






あれから一週間が経った。


東京に戻ってからも、私は彼のことを思い出しては泣いていた。



彼の連絡先は消すことができずにいる。


好きなまま手放す恋が、こんなにも辛くて苦しいものだなんて知らなかった。



元々食べることが得意ではなかったけれど、さらに食べられなくなった。

ご飯が喉を通らない。


家にいると、彼のことを考えてしまうのが嫌で、無理にでも予定を詰め込んだ。



けれど、どこにいても、何をしていても、ふと彼のことが浮かんでしまう。



天気の良い日、青空の写真を撮った。


彼に見せたくなるのに、それができない現実が、また胸を締め付ける。

彼に送りたかった写真が、どんどん私のフォルダに溜まっていく。



ある日、野良猫を見かけた。


真っ黒で、手足だけ白く、靴下を履いているみたいな可愛い猫だった。

彼に話したくてたまらないのに、それができない現実が、また気持ちをひどく落ち込ませる。

彼に話したかったことを、ノートに書き出す日々。

そろそろ二冊目が終わりそうだ。



可愛い服を買っても、見せたい人がいない。

綺麗なネイルをしても、見せたい人がいない。




日常はどんどん進んでいくのに、私はあの日から止まったままだ。




悲しい。寂しい。苦しい。切ない。

気持ちが、胸の奥に、静かに溜まっていく。



助けて。

このままじゃ溺れてしまう。


誰でもいいから、この気持ちだけ私の中から持っていってほしい。



そんなことを思ったって、この気持ちを消し去ることなんてできない。

無理に忘れようとすればするほど、余計に思い出してしまうからだ。


わかっているのに。


気持ちが雁字搦めになっているようで、息が詰まりそうになる。




頭ではわかっている。

それでも、私はまだ探している。



既婚者だと知る前の、あの日の彼を。


私に優しくしてくれて、「好きだ」と言ってくれた、あの瞬間の彼を。


けれど、どんなにあの時の彼を求めても、もういない。

二度と会うこともない。


今いるのは、誰かの夫で、父親として生きている彼。



それが、現実だ。




そのことを受け入れるまでに、かなり時間がかかった。




彼のせいで、私は深く傷つき、ひどく落ち込んだ。

日常さえ、ままならないほどになった。

けれど、動けずにいる私を置いて時間は経っていった。




前よりも、自分の気持ちを整理できるようになった。

少しずつ、気持ちを抱えたまま前を向けるようになった。





気づけば、三カ月が過ぎていた。


ゆっくりと、自分の生活を取り戻していった。





音楽が聴けるようになった。

歌が歌えるようになった。

ご飯が食べられるようになって、美味しいと思えるようになった。


ときどき切ない夜もあるけれど、ちゃんと眠れるようになった。




やっと私は、あの日から歩き出した。






彼は最低な人だった。

それでも、優しくて柔らかい雰囲気を纏った人だった。

よく笑う人で、ふにゃっと笑う可愛い人だった。

髭が生えていて、大きなクマみたいな人だった。



砂浜を、二人で手をつないで歩いた。

彼の手は大きくて、少しだけ温かった。

朝も昼も、一緒に海を見た。

海を感じながらドライブもした。

水族館で、並んで水槽を見上げた。

一緒にご飯を食べて、お酒を飲んで、他愛もない話をした。





たった三日間。

それでも、確かに恋だった。





戻ってこないあの時間。

二度と会えないあの人。



ふと空を見上げる。

沖縄で見た、あの海の青を思い出す。


東京の空は、今日も青かった。



私は、今日も自分の人生を生きていく。



あの遠い青を思いながら。


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