鬼と呼ばれても
廊下の空気が、少しざわついていた。
人の数が、昨日より多い。足音が重なり、行き交う気配が絶えない。私は、自然と壁側を歩く。視線を落とし、音だけを拾う。
前方で、大人たちが立ち止まっている。白い服と、制服。声は低く抑えられているけれど、完全には隠れていない。
私は、歩く速度を少し落とした。
「……あの子のことだけど」
耳が、勝手に反応する。
「噂、聞いた?」
胸の奥が、少しだけ硬くなる。
私は、立ち止まらない。ただ、距離を保ったまま、足取りだけを緩める。
「島で、生き残ったって」
「一人で?」
短い沈黙。
「……人じゃなかった、って話もある」
言葉が、背中に当たる。
痛みはない。でも、冷たい。
私は、歩き続ける。足は、止まらない。止めない。
「鬼、みたいだったって」
その一言で、頭の中が一瞬、白くなる。
島の匂い。血の色。音。それらが重なって、戻ってくる。
呼吸が、浅くなる。
私は、廊下の角を曲がった。視界が切り替わる。壁に手をつき、立ち止まる。
息を整えようとする。でも、うまくいかない。
鬼。
そう呼ばれたことは、ある。島では、別の言葉だった。でも、意味は同じだ。
足音が、近づく。
私は、反射で身構えた。
「ミリア」
名前。
タケトシの声だった。
私は、ゆっくり顔を上げる。タケトシは、少し離れた場所に立っている。近づかない。でも、逃げ道は塞がない。
「聞こえたか」
私は、頷いた。
嘘は、つけなかった。
タケトシは、一瞬だけ目を伏せる。
「あれは、全部じゃない。お前の、全部じゃない」
それだけ言った。
否定もしない。正しもしない。
私は、壁から手を離した。
「……わたし」
声が、思ったより低く出た。
「こわい?」
質問の形だった。でも、答えは、分かっている。
タケトシは、すぐには答えなかった。
「怖いと思う人もいる」
正直な言い方だった。
「でも、名前を知っている人もいる」
名前。
ミリア。
呼ばれた名前。
私は、胸の奥に手を当てる。そこは、まだざわついている。でも、壊れてはいない。
遠くで、誰かが笑っている。子どもの声だ。
私は、そちらを見る。
さっきまでいた場所。積み木のある部屋。
戻れる場所。
私は、もう一度、息を吸った。
「……いく」
小さな声。でも、はっきり言った。
タケトシは、何も言わなかった。ただ、私の進む方向を空けた。
私は、歩き出す。
鬼と呼ばれる声があっても。
ミリアと呼ぶ声が、あるから。




