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孤島で“鬼”になった少女は、文明世界で人の心を取り戻す ――Princess of the Flies――  作者: ベルモット
使われる力

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ありがとう

 昼前、声をかけられた。


 呼び止める、というほど強いものじゃない。


 ただ、私の進路に合わせて歩いてきただけだ。


「少し、いいか」


 断る理由も、急ぐ理由もなかった。


 私は立ち止まる。


 相手は、昨日の朝に食堂で向かいに座っていた男だった。


 名前は知らない。


 向こうも、私を名前で呼ばない。


「助かった」


 短い言葉だった。


 それだけで、用件が分かる。


 私は、返事を探す。


 見つからない。


「昨日の件だ」


 男は、視線を逸らしたまま続ける。


「怪我人が出なかった。あれが一番だ」


 評価みたいな口調だった。


 責める色はない。


 褒めてもいない。


 事実を並べているだけだ。


 それなのに、胸の奥が動いた。


「……そうですか」


 自分の声が、少し遅れて聞こえる。


 男は、私を見る。


 ほんの一瞬。


 何かを確かめるみたいに。


「無理はするな」


 そう言って、去っていった。


 引き止める気配もない。


 感謝も、それ以上は向けてこない。


 私は、その場に残る。


 風が、通り抜けた。


 布の端が揺れる。


 気づいて、手を見る。


 何も持っていない。


 それでも、指が少し強張っていた。


 歩き出す。


 途中で、別の声がした。


「ありがとう」


 今度は、はっきり聞こえた。


 振り返る。


 荷を抱えた女が、頭を下げている。


 視線が合うと、すぐに逸らされた。


 理由は、聞かされない。


 説明もない。


 それでも、意味は分かる。


 私は、軽く会釈した。


 それが、正しい返しだと思ったからだ。


 歩きながら、胸の奥を探る。


 嫌じゃない。


 けれど、嬉しいとも違う。


 ありがとう、という言葉が、重い。


 昨日のことが、静かに固定されていく。


 出来事じゃなく、役割として。


 誰かの無事が、私の行動に結びつく。


 それが、当然の流れみたいに扱われる。


 私は、空を見る。


 昨日と同じ色だ。


 変わっていない。


 なのに、足元だけが違う。


 少しだけ、踏み込みづらい。


 遠くで、呼ぶ声がした。


 用事のある呼び方だ。


 私は、止まらなかった。


 止まる理由が、まだなかった。


 感謝は、優しい。


 でも、逃げ道にはならない。


 そのことを、私はもう知っている。

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