腰を下ろす
準備は、静かに進んでいた。
声を張る人はいない。誰も急かさない。それでも、建物の中の空気は確実に変わっている。
人の動きが増え、通路を行き交う足音が、少しだけ早い。
私は、壁際に立ったまま、それを見ていた。
タケトシが、近づいてくる。
手には、薄い布袋を持っていた。
「持てるか」
短く言って、差し出される。
私は、一瞬だけ迷った。
受け取れば、何かが変わる。
それは、分かっていた。
それでも。
私は、布袋を受け取った。
軽い。中身は多くない。最低限の装備だ。
タケトシは、何も言わなかった。
理由も聞かない。ただ、私の隣に立つ。
同じ向きで。
外に出ると、荷車が一台、用意されていた。
周囲には、すでに人が集まっている。
顔なじみはいない。
それでも、視線が集まる。
私は、一歩引きかけた。
その前に、タケトシが前へ出る。
自然な動きだった。
私を、後ろに残さない位置取り。
「この席でいい」
荷車の端を指で示す。
私の方は見ない。
周囲に向けた言葉だった。
私は、その場所を見る。
確かに、空いている。
理由は分からないのに、視線がそこから離れなかった。
私は、黙って乗った。
誰も止めない。
誰も驚かない。
当たり前のように、受け入れられている。
荷車が、動き出す。
揺れは、小さい。
私は、布袋を抱えたまま前を見る。
何も決めていない。
行くとも、残るとも、言っていない。
それでも。
私の立つ場所は、いつの間にか変わっていた。
タケトシが、隣に腰を下ろす。
距離は、近すぎず、遠すぎない。
こちらを見ないまま、低く言った。
「降りたくなったら、言え」
それだけだった。
私は、答えなかった。
荷車は止まらない。
道が、前に伸びていく。
私は、その揺れの中で、まだ何も決められないまま、そこにいた。




