手を伸ばす
その場に、風が吹いた。
倒れた荷車のそばで、子供の一人が身じろぎする。
小さな動きだったが、はっきり分かった。
逃げようとしていない。
子供は、ゆっくり前に出る。
足元の食料を拾い上げた。
手が震えている。
それでも、離さない。
周囲の大人たちは、誰も動かない。
声もかけない。
見ているだけだ。
私は、一歩だけ前に出た。
意識していなかった。
体が、先に動いた。
タケトシが、こちらを見る。
止めなかった。
子供が、見上げてくる。
何か言おうとして、口を開く。
声は出なかった。
それでも、私は距離を詰めた。
しゃがんで、目の高さを合わせる。
子供の手の中には、潰れかけたパンがあった。
息を整える。
言葉を探す。
見つからない。
代わりに、手を伸ばした。
奪うためじゃない。
取り上げるためでもない。
理由は、分からなかった。
指先が、パンに触れる。
その瞬間、子供の肩が強く跳ねた。
私は、動きを止める。
距離を保つ。
子供は、私を見る。
逃げない。
泣かない。
ただ、見ている。
周囲の空気が、少しだけ変わった。
誰かが、息を吐く音がした。
タケトシが、低く言う。
「……いい」
それだけだった。
私は、頷く。
パンから手を離す。
子供は、それを抱え込むように持ち直した。
私は立ち上がり、一歩下がる。
でも、背を向けなかった。
戻れる場所は、まだある。
それでも。
私は、元の場所には戻れなかった。
理由は、まだ分からない。
ただ、そうなってしまった。




