口に出された条件
その日の夕方、廊下で名前を呼ばれた。
振り向くと、白い服を着た大人が立っている。昨日、話をした人ではない。視線が、私の顔ではなく、少し下に落ちていた。
「少し、時間いい?」
私は、頷いた。
並んで廊下を歩く。距離は短いのに、足音がやけに響く。途中ですれ違う人たちは、誰も声をかけてこない。ただ、視線だけが残る。
小さな部屋に通された。
机の上に、紙が置かれている。昨日と同じ形式の書類だ。違うのは、最初から開かれていることだった。
私は、そこで足を止めた。
「確認だけだから」
大人が言う。
「場所と人数、それから期間。この内容で合ってる?」
声に出されると、紙の中身が急に重く感じられた。昨日は、ただ見ただけだった。今日は、はっきり言葉になる。
私は、紙に目を落とす。
場所。人数。期間。
昨日と同じだ。
私は、頷いた。
「じゃあ、明日までに返事がほしい」
明日。
その一言が、胸の奥に引っかかる。
決める場所じゃない、と思っていたはずなのに。時間だけが、先に決まっていく。
私は、口を開いた。
「……どうして、明日なんですか」
大人は、少し間を置いてから答えた。
「現場は、待ってくれないから」
理由は、それだけだった。
私は、言葉を返せない。
大人は、紙を指で押さえる。
「行かないなら、それでいい。でも、行くなら準備が必要になる」
行くか、行かないか。
その二つが、机の上に置かれる。
私は、指先を強く握った。
何も言えない。
「無理はさせない」
大人が、視線を上げずに言う。
その言葉が、逆に引っかかった。どこまでが無理で、どこからが無理じゃないのか、私には分からない。
部屋を出る。
廊下に戻ると、空気が少し冷たく感じた。
私は、立ち止まらない。
逃げるためじゃない。
戻る場所が、そこにあるからだ。
自分の部屋の前で、手が止まる。
中に入れば、また考える。
入らなくても、明日は来る。
私は、息を吸った。
一度触れてしまったものは、もう消えない。
だから、決めないままではいられなかった。




