触れてはいけない距離
声が、聞こえた。
小さくて、掠れている。風に混じって、消えそうな音だった。
私は、足を止める。
間違いない。前だ。
木々の間に、影がある。低く、丸まっている。私は、ゆっくり近づいた。
子どもだった。
膝を抱えて、地面に座り込んでいる。服は汚れていて、靴は片方ない。目は、こちらを見ていない。
「……だいじょうぶ」
声を落として言う。
返事は、ない。
私は、距離を測る。
近づきすぎない。驚かせない。逃がさない。
その、間。
子どもが、顔を上げた。
目が合う。
一瞬だった。
恐怖が、はっきり見えた。
私は、動きを止める。
その瞬間、子どもが後ずさる。
足が、枯れ枝を踏んだ。
乾いた音。
子どもが、叫びそうになる。
私は、反射的に踏み込んだ。
速すぎた。
地面を蹴る感覚。距離が、一気に縮まる。
子どもの前に、立っている。
息が、近い。
子どもが、凍りつく。
私は、気づいた。
近すぎた。
獣が、目を覚ましている。
ほんの、一瞬。
指先に力が入る。視界が、狭まる。
私は、すぐに止まった。
膝を折る。視線を落とす。息を、吐く。
「……ごめん」
声が、震えた。
子どもは、動かない。
でも、叫ばない。
私は、両手を見せる。
何も持っていない。奪わない。
そのまま、待つ。
後ろで、大人が息を呑む気配がした。
私は、振り返らない。今は、見ない。
ここにいるのは、私と、この子だけだ。
少しずつ、時間が戻る。
子どもの肩が、わずかに下がる。
私は、距離を取り直す。
触れてはいけない距離。
でも、離れすぎてもいけない距離。
私は、その場所に立ち続けた。
獣を、眠らせたまま。




