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小説

期間限定商品が嫌いだった話

作者: ちりあくた

 当時の私は「期間限定商品」に弱かった。コンビニやスーパーマーケットにて、目線の高さに並ぶ六文字を認識した瞬間、私の手は反射的に伸びてしまっていた。


 なぜか、と聞かれても明瞭な理由は返せない。これはあくまで私の推論、あるいは推論ぶった妄想だが……多分チャンスを見逃すのが怖かったのだ。あの時期の私は失恋直後で、絶賛傷心中の惨めな青二才だった。高校時代から惚れていた先輩に告白をためらい続けた挙句、私の恋は始まることもなく終わってしまったのだ。


 涙にくれる日々だった。「もう二度とチャンスを逃すことはするまい」という誓いは、再生のために欠かせないものだった。誓いはやがて呪いへ転じ、呪いは神経系を蝕み、「チャンス」と評すには大げさな期間限定商品までもを逃がさないようになってしまった。多分そういう仕掛けだ。


 身体の赴くままに買ってしまった期間限定商品は、いつも自室の台所に眠っていた。なぜかそれらを食べないでいると安心できたのだ。うっかり冬季限定の雪見だいふくを開封してしまった夜には、私はそれを泣きながら口にした。翌日の講義中、頭の中では「果たして上手く食べれただろうか」という馬鹿らしい反省会が開かれ続けていた。


 当時の私に「期間限定商品は好きか嫌いか」と聞けば、迷わず後者を選び取ったろう。私は台所に溜まったお菓子袋の山を見るのが何よりも嫌いだった。それらは全て、ほんの失恋一つで歪んでしまうような、私の精神の脆さを象徴しているように思われた。台所に行けないものだから「自炊」という選択肢は封じられ、仕方なく近所のコンビニで食事を調達し、レジ前のお菓子を目にしてしまって、また……。そんな悪循環も、解決する気が無い私自身のことも、どうしようもなく嫌いだった。


 ある初秋の日のことだった。大学のカフェテリアにて、私は友人との駄弁り中にこんな話を聞いた。


「あんたの好きだった先輩、彼女と別れたって」

「ふーん、そっか」


 私はさも興味なさげな返事をした。しかしざわめく本心は表情に現れていたらしく、友人は何か言いたげなニヤケ顔で私を見つめている。彼女の予想通り、確かに私は心の内で「やった」と叫んでいた。チャンスが再び巡ってきたのだ。今度こそ絶対に、逃すわけにはいかない。


「あんたさ、これあげるよ」


 彼女は薄気味悪い笑みを浮かべながら二枚の短冊形の紙を差し出してきた。


「……遊園地のチケット……待ってよ、これ『カップル割』って書いてるんだけど」

「つまりはそういうこと。ま、頑張りな」


 彼女のオーバーな献身に怯みつつも、私はまんざらでもない気分でいた。


 その夜も、私は例に漏れずコンビニへ向かった。夏の余韻をわずかに抱えた外気が心地いい。秋虫の幻想的な重奏、曖昧な真夜中の輪郭もあいまって、どこか夢を見ているような気分だった。ウィーン、という機械音とともに、コンビニの自動ドアが私を迎え入れる。聞き慣れた鈴の音が鼓膜に響き始める。


 私はハッとした。少し効きすぎた空調に、頭をカァンと叩かれたような気がしたのだ。

 気づけば内心ではしゃぐ自分を、もう一人の自分が睨みつけていた。私にとっては先輩と付き合えるチャンスでも、彼にとっては痛々しい失恋なのだ。恋している人の不幸を喜ぶなんて。それに告白もできない意気地なしとか、ふさわしくないに決まってる。数秒考えれば小学生でもわかるような、あまりに単純明快な事実。それを私みたいなクズは。


 私の表情は失意に歪んだ。いつもなら意識してしまう、レジ裏のコンサート案内も、飲食スペースに居座る初老のサラリーマンも、「新商品!」のシールが貼られた菓子パンも、視界の中から追放されて消えていた。ただ本能のままに歩みを進め、大海に浮かぶヤシの実のように、「どこにでも行ってしまえ」という投げやりな気持ちが心に充満していた。


 いつの間にか、お菓子コーナーに私はいた。


 ああ、こんな時にまで。私は自分の呪われた本能を恨むとともに、どこか滑稽にも感じていた。私はもう以前の私ではないんだ。「チャンス」という灯に惹かれて彷徨う、蛾同然の存在になってしまったんだ。たとえチャンスを見つけても、その周囲をひらひら浮かぶだけの、寄る辺ない一匹の蛾。生存本能のマリオネットにしかなれない、一匹の蛾。


 ふふふ、と笑いがこみ上げてくる。周囲の人々にとって、当時の私は単なる不審者に映ったろう。だが、他人の視線なんてどうでも良かった。虫けらが人間の視線を気にしたところで、存在価値に傷がつくことなんてない。もともと傷だらけの代物なんだから。


 自分の中で、何かがプツンと音を立てながら切れた。張りつめられた糸のような何か。それは「一線」だったのかもしれない。


 それは突発的な奇行だった。私は脊髄に全てを委ねることに決めたのだ。棚の側にあったオレンジ色の買い物かごを一思いに掴み取ると、私の手はプログラムされた工場機械のように澱みなく動き始めた。


「秋季限定 焼き芋風味」「秋の味覚シリーズ第2弾 〜里山の焼き栗〜」「激ヤバ『芸術の秋』味」「秋限定 鳥取県産 二十世紀梨味」「秋をエンジョイ! ぶどう味」……。


 ついさっきまで棚に並んでいたはずの文字列たち。気づけばそれらは一つ残らず、オレンジのかごの中にすっぽり収まっていた。お菓子の種類や好き嫌いなどまるで介さずに、私の本能は「チャンス」を求めて暴れ狂った。この結果でもまだ本能は満足していなかったが、何しろかごはもう満杯だ。仕方なく、お菓子コーナーに後ろ髪をグイグイ引かれながら、私の足はレジへと急ぐのだった。


 レジに向かう途中、持て余した本能はスイーツコーナーでも暴虐の限りを尽くした。期間限定品がそれほど充実していなかったためか、私の魔の手は通期販売のケーキやパフェにまでも及んだ。その中でも特に目についたのが、「まんぷくイチゴパフェ」という名の、苺がふんだんに詰め込まれたパフェだった。


 会計後、私はパンパンに張ったレジ袋を両手に提げ、おぼつかない足取りで夜道を帰った。来た時の夢見心地は、今では嘘のように消えていた。ここは現実だ。上腕筋の痛みが、その事実を容赦無く叫び続けるのだった。


 家に着くと、私は上着も脱がずに台所へと直行した。両手に提げたありったけの「チャンス」。それらをいつものように、狭苦しい冷蔵庫の傍へ押しやろうとしたのだ。


「……こんなに」


 突然の気づきだった。冷えた視界には、見慣れたはずの光景がひどく異質に映ったのだろう。いつの間にか床には雑多な色調の商品たちが所狭しと並べられ、わざわざ敷いたはずのキッチンマットは影を潜めてしまっている。


 ふと私は寂しくなった。今日までにこれほどの「チャンス」を買っておきながら、私はほとんど手を出せていないのだ。今両手にある菓子類だって、自己嫌悪を諌め、思考停止を開始するためのトリガーでしかない。あまりに愚かなルーティンを、今日も繰り返してしまっていたのだ。


 私はその場にレジ袋をそっと置き、おもむろに、カオスな季節感漂う空間へと歩み始めた。


「夏野菜たっぷりチップス」「ミニショコラケーキ 〜バレンタイン限定〜」「ジューンブライドチョコクッキー」「春限定 さくら風味」「秋を堪能! さつまいもクラッカーズ」「夏みかんチューインガム」……。


 中には賞味期限切れのものもあるだろう。中には、周囲の菓子類の重さで砕けたものもあるだろう。私はその事実を知っているはずだった。どこか頭の片隅で、見捨てた「チャンス」たちの行く末を想像できていただろう。


 バカだなあ。


 心の一角でこぼした呟きは、確かに私の心臓を貫いた。「もう二度とチャンスを逃すことはするまい」と私は誓ったんだ。でもこの有様じゃないか。期間限定商品を口にするチャンスを手に入れても、先輩と付き合えるチャンスを手に入れても、私は結局言い訳をつけて逃げるのだ。本当は菓子の味わい方なんてどうだっていい。先輩の傷心につけ込むことだって、私は恋愛成就のためならば厭わない性格のはずだ。でも私は、その事実からもひらひら逃げて、またチャンスを求めて彷徨い歩く。本当にバカな人間だ。


 ……そうか。

 私が怖かったのは「チャンスを逃すこと」よりも、チャンスそのものだったんだ。


 だから期間限定商品を、期間限定というチャンスから解放しようと試み、ずっと食べないでいた。先輩への恋心もチャンスが絡んだ途端、逃げの姿勢に転じた。きっとそんな陳腐なカラクリなんだろう。


 もうそろそろ、「チャンス」なんてやめにしよう。


 いつしか私はそんな思考に至っていた。不健全な自暴自棄を経てたどり着いた結論だった。そんな考えを持ち始めた私にとって、やるべきことは一つ。床中の菓子を拾い上げ、賞味期限を確認し、開封して食する。そんな無限回の作業こそが今の私の使命だった。それこそが、過去の過ちに対する清算だった。


 夏、秋、夏、春、春、秋、冬、夏、冬、秋、春、秋、秋、冬、夏、春……。


 口の中では幾度となくタイムスリップが起こっていた。ほんの二、三十分で、悠久の時を巡ったような気分だった。私はくだらない日々の喪失を感じながら、一方でそれらを取り戻して行くような感覚も覚えていた。本当に不思議で、寂しく、物悲しい体験だった。


 数十個目に取り上げたのは、ピンク色の紙に包まれたチューインガムだった。賞味期限を確認するため、包装紙の上に視線を滑らせる。もはや流れ作業のような動作だった。まだ表記された日付が遠いのを把握すると、私は袋の端のギザギザに手を伸ばした。


 違和感。覚えたのはそれだった。ピンク色と肌色だけが揺れ動く視界の中に、何かおかしな点があるように思えたのだ。

 なんとなしに手を動かし、包装紙を回す。賞味期限を見間違えたかな、なんて思いながら。


「春季限定 濃厚いちご味」。

 袋の表面にはそうあった。「いちご」の三文字を受けて、私の脳裏に浮かんだのは、先ほどコンビニで購入した「まんぷくいちごパフェ」だった。まるで春とは程遠い、秋に差し掛かっているはずの今日に手に入れたいちごだ。秋真っ只中でも十分濃厚であろう、クラクラしそうなほど真っ赤ないちごだ。


 私は当たり前の事実を突きつけられた。期間限定商品は、真の意味で限定ではない、コンビニやお菓子メーカーが勝手に生み出した「旬擬き」だということを。彼らは時間という概念をスパッと切り取り、自分たちでチャンスを創造したのだということを。


 私は悟った。「逃してはいけない」だの「諦めよう」だの、そんな態度はズレているんだ。元来、そんなものどこにもないんだ。私がチャンスだと思っていたものは、全て私自身の産物だったんだ。


 その考えは心中にじわりと沁みた。次第に眼前の「チャンス」たちは色褪せて、なんの変哲も無いお菓子へと変貌していく。心に一筋の風が吹いた。知らぬ間に、影の差した菓子類の間からは、キッチンマットの檸檬色が顔を覗かせていた。


 おいしい。私は久々にそんな感想を抱いた。

 まっさらになった感覚の中に、突然飛び込んできたいちご味。それは私の空っぽな心を優しく包み込んでくれた。噛むたびに濃厚な甘酸っぱさが口内に広がって、まろやかな余韻を残して去っていく。私の顎はもう止まることを忘れていた。チューインガムの欠片が消える最後の一秒まで、私の歯はいちご味に染まった空間を行き来していた。


 ああ、なくなってしまった。私には、そんな風に過ぎ去った季節を惜しむ暇はなかった。目の前にはまだ、床一面の季節たちが広がっているのだ。決して「チャンス」などではない、ただただ美味しそうな、色とりどりのお菓子たち。私の手は反射的に伸びてしまっていた。


 気づけば、時刻は深夜二時を回っていた。ゴミ箱には大量の包装紙が詰め込まれ、台所の床はほとんど檸檬色一色だ。

 私は少しばかり膨らんだお腹をさすって立ち上がった。明日も講義だ、そろそろ寝なければ単位が怖い。消灯のため、リビングへと足を進める。

 道中、私の視線はリビングのテーブル上を通っていた。それは自然な動作の一部分で、なんの意図や意識もまるで含まれていなかったのだ。


 あっ、という声が零れていた。

 ぞんざいに置かれたリュックの脇には二枚の短冊形の紙があった。友人からもらった、遊園地のカップル限定割引券だ。


 ……これは、チャンスじゃないんだな。

 以前とは正反対の思考が浮かんでいた。そう、これは偶然舞い降りてきた奇跡の産物ではないし、何が何でも活かさなければならない宝物でもない。ただの紙切れだ。これをチャンスにできるかどうかは私次第で、別に放っておいて期限切れを待っても、今すぐ破り捨てて包装紙の山に突っ込んでも、後悔することはないだろう。チャンスは誰にでも作れる代物なのだから。だけど……。


「……あいつの優しさだしなぁ」


 私はその二枚を掴み取り、リュックのフロントポケットにそっと収めた。

 明日、先輩に渡してみよう。気持ちが伝わるか否かはもちろん大事だけれど、それよりも。私は今度こそ、このちっぽけな頼りない手で、チャンスを創造してみたいのだ。

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