4. トラウマの理由
「信じられませんっ! 何なんですかね、旦那様のあの態度は……! どう考えてもフローリアお嬢様に落ち度なんかないじゃありませんか! 分かってるくせに、八つ当たりして……。そもそも王太子殿下も何をお考えなんでしょう! 王太子妃教育も受けたことのない男爵家のご令嬢なんかと婚約したって、どうにもならないじゃないですか。そんなことも分からないのかしら、全く……! 絶対国王陛下にこっぴどく怒られてますよ今頃! 廃太子にされてしまえ!」
「シーッ! さすがに声が大きいわよラーラ。……あいたたた……」
自室に戻り、他の侍女たちを下がらせ二人きりになった途端、ラーラの怒りが爆発した。私たちはよくこうして二人きりで父の文句を言っては、ストレスを発散してきた。私より一つ年下のラーラは十七歳。私にとって信頼できる侍女であると同時に、何でも話せる親友でもある。辛く厳しい環境で育ってきた私にとっては、心の拠り所。ありがたい存在だ。
ラーラに手当てをしてもらいながら、私も答える。
「まさかこんなことになっちゃうなんて……。明日から社交界の噂話の中心は私ね」
「構いませんよっ。言わせておけばいいんです。だってお嬢様は、あのクリストファー王子殿下に選ばれたんですよ!? これがどんなにすごいことかお分かりでございますかっ? あの孤高の美形王子様に……お嬢様が選ばれたんですっ! 噂話の的になっても、大半はやっかみと羨望ですよ。……それに……」
ラーラは冷やした私の頬にガーゼを貼り終えると、自分の頬を膨らませた。
「ファーストダンスの直前にあんなものを見せられてしまったら、王太子殿下の手なんか触りたくもございませんよね! ただでさえお嬢様は……」
「……ええ。男性は苦手。とりわけあんな、ふしだらな行為をする人は……」
私の事情をある程度知っているラーラは、気の毒そうな表情でこちらを見る。
ダンスが始まる前に化粧室へ行った私は、その後大広間へと戻る途中、見てしまったのだ。
ジョゼフ王太子殿下とエヴァナ・オーデン男爵令嬢が、庭園の奥で強く抱き合い、情熱的な口づけを交わしているところを。
繰り返される熱烈な口づけの合間に、オーデン男爵令嬢は淫らな吐息を漏らしていた。それが耳に届いた私は踵を返し、化粧室へと駆け込んだのだ。そして胃の中のものを全て吐き出し、再度大広間へと向かった。
(……父と一緒ね。男性は皆ああなのかしら。汚い。汚らわしい……)
私がこうなってしまったそもそもの原因は、父にある。
あの厳格ぶっている恐ろしい父は、私が幼い頃から不貞行為を重ねてきた。仕事はしっかりとやるけれど、女性とは好き放題遊ぶ。そんな人だった。
五歳くらいの頃だった。その日も朝から数時間、淑女教育や王子妃教育に取り組み、ようやくお昼の休憩時間となった。机から解放された私はどうしても外の空気を吸いたかった。だって子どもだもの。子どもは外が好きなもの。走り回って風を感じたり、虫や花々を観察したり、そういうことがしたいのだ。
けれど私にそんな時間が与えられないことは、幼心にもう理解していた。だから私はその日、食事の前にほんの少しだけ、気晴らしにお庭を歩こうと思ったのだ。
そして、見てしまった。
裏庭の奥にある、ガゼボの柱の陰。父がやけに派手な身なりの女性の腰を抱き、まるで何かに取り憑かれたかのように夢中で口づけを繰り返しているのを。
幼い私の足は凍りついた。父の表情は普段の厳しい顔とはまるで違い、だらしなく緩んでいた。
見てはいけないものを見てしまったのだと悟り、総毛立った体がズンと重くなった。
恐怖と不気味さで上手く呼吸もできないまま、私は音を立てないよう一歩ずつゆっくりと、その場から離れたのだった。
あの日以来、私にとって父はただ厳しく恐ろしいだけではない、得体の知れない不気味な人となった。そして自分が成長し、あの日の行為の意味を知るにつれ、軽蔑と憎しみの対象へと変化していった。
(……偉そうに。こんな風に眉間に皺を刻んで、不機嫌そうな顔をしてみせちゃって。威厳のある雰囲気を醸し出しているけれど、あの姿があなたの本性でしょう。母を裏切って次々と使用人や商売の女性たちに手を出してることも、皆気付いているんですからね)
父に呼び出され説教をされるたびに、私は心の中でそう毒づくようになった。大嫌い。だけど私は貴族家の、バークリー公爵家の娘。父に歯向かうことなんて、微塵も考えられなかった。それに、私が反抗的な態度を取れば、父の怒りの矛先は全て母に向かうだろう。何かにつけて母を咎める父だ。お前のせいでこんな娘になったと、母のことを責め立てるのは目に見えていた。
ラーラに寝支度を整えてもらい、ベッドに入る。
カーテンの隙間から見える煌々とした月明かりをぼんやりと眺めながら、私は今夜の出来事を一つずつ思い返し、そして今後の自分について考えた。
(……ジョゼフ殿下は、いつからあのオーデン男爵令嬢と、あんな仲になっていたのかしら……)
私が気付いていなかっただけで、これまでもあんな行為をした後の手で、殿下は私に触れたことがあったのかもしれない。ダンスパーティーや、夜会のエスコートなどで……。
途端に鳥肌が立ち、私は慌てて思考の中からあの二人を振り払う。すると次に脳裏に浮かんだのは、美麗な第三王子のお顔だった。
(……まさかあのクリストファー王子殿下が、私との婚約をお望みになるなんて……。いまだに信じられないわ)
何をどうお考えになってあのような行動に出られたのかは分からないけれど、私にとっては確かにありがたかった。あんな公衆の面前でジョゼフ殿下に婚約破棄を宣言されたまま屋敷に帰ってきていれば、今夜私は父に一発ぶたれただけでは済まなかっただろう。明日は立てなくなっていたはずだし、その後の処遇もどうなったことか。
けれど……。
(本当に私は、あの方と婚約することになるのかしら。婚約するってことは、順調にいけば結婚するってこと。……私に……ちゃんとできるのかしら。夫婦の行為。口づけや、閨での肌の触れ合い……)
いかにお相手があの美しいクリストファー殿下であっても、それはとても難しいだろう。私が最も危惧しているのはそこだった。
想像するだけで、ゾッとする。
あんなことをするなんて。父や、ジョゼフ殿下と同じように、私もあんな気持ちの悪い顔をして、殿方と肌を触れ合わせるのだろうか。
ぶるりと身震いし、私はブランケットの中に潜り込んだ。
(……無理。考えたくもない。でも……そんなこと言える立場じゃないわよね。私はバークリー公爵家の娘ですもの。筆頭公爵家唯一の女子。王族に嫁ぐ道が断たれなかっただけでも本当にありがたいのよ。その上、もうお相手はジョゼフ殿下じゃない。なんて幸運なの。これ以上望むことはないはずよ。何でもやるしかない。当たり前のこと……)
深く考えちゃダメ。全ての女性が通る道なのよ。
そう思い込もうとしても、差し出されたジョゼフ殿下のあの手さえも取れなかった、今夜の自分の失態を思い出す。私は何度も深いため息をついた。
そして、数日後。王宮からの使者がやって来た。
私はクリストファー殿下の呼び出しに応じ、王宮へと向かったのだった。