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37. 膝の上

 湯浴みを終え、温かいスープを少し口にする。それ以上食事をする気にはなれず下げてもらうと、ラーラがクリス様を呼びに行った。

 彼が私の部屋にやって来ると、私は使用人たちに外してもらい、二人きりの空間を作った。


「先ほどはありがとうございました、クリス様。……大丈夫ですか? お体、冷えてしまいましたよね」

「……俺は大丈夫だ」

「なぜあのタイミングで、庭園に?」

「ああ……、昼食を一緒にと思い君を呼びに行かせたら、執務室の者から君が庭園に行ったと報告を受けてな。迎えに行った」


 そう答えながら私から目を逸らす仕草に、不安がますます大きくなる。私は静かにソファーに座り、隣にクリス様が来るのを待った。

 けれど彼は離れたところに立ったまま、そばに寄ってこようとはしない。


「……クリス様。どうぞこちらへ」


 そっと促すと、クリス様は足取り重く、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。そして隣には座らず、私の目の前に跪いた。


「……クリス様……?」


 しばらくの間逡巡していた彼が、何かを決意したかのように、苦しげな表情で私の目を見上げた。


「……リア。君にずっと、言えなかったことがある」

「……何でしょうか」


 心臓が大きく音を立て、ドクドクと脈打ちはじめた。クリス様のこの表情を見れば、これからどれほど深刻な話が始まるのか察せないわけがない。

 黙って見守っていると、再び目を伏せたクリス様が、静かに深く息をついた。そしてゆっくりと、その唇が開かれる。

 彼はわずかに震える声で、こう言った。


「……俺は十三歳の時に、王妃に無理矢理体を奪われた」

「…………」


(え?)


 その言葉を理解するまでに、しばらく時間がかかった。

 やがて全身の血の気が引き、指先が冷たくなっていく。

 クリス様は淡々と言葉を続けた。


「人払いされた王妃の私室で彼女から手を伸ばされた時、恐怖のあまり咄嗟に振り払った。それまでねっとりとした笑みを浮かべていた彼女の表情が、一瞬で変わった。私の機嫌を損ねれば、お前の母親の立場がどうなるか分かっているのかと。まるで俺を洗脳するかのように、そういった意味の言葉を何度も何度も口にしながら、彼女は俺をベッドへと引き入れた」

「……っ」

「俺の意志とは裏腹に、強要され、蹂躙された。以来、何度か。……彼女の歪んだ欲望をぶつけられ、俺の中で何かが壊れていった。あの頃を境に、俺は女性が駄目になってしまったんだ」

「…………」


 言葉が出ない。クリス様がこれまでたった一人で抱えてきた苦しみは、私の想像をはるかに超える恐ろしいものだった。


「あの女の圧倒的な権力の前に屈服するしかない自分が惨めで、日々が地獄だった。こんなことを続けるのはマズいという認識はあったのか、さすがに長い期間ではなかったが、あの頃の記憶は俺を長い間苦しめ続けた。母には知られるわけにはいかなかったし、立場の弱い母の居場所を守りたかった。……今でも当然あの女が大嫌いだが、距離を置いていればいいと思っていた。だが、どうやら向こうはいまだに俺に対して歪んだ執着心があるらしい。さっきようやく、それに気付いた」


 ユーディア王妃の、私を抱きしめるクリス様に向けた、あの狂ったような顔。

 恐ろしさと怒りで、全身が小刻みに震える。


「リア、君と白い結婚契約について初めて話し合ったあの日、俺は君から聞かれ、はぐらかしてしまった。女性との触れ合いを嫌悪するに至った深い事情があるのかと問う君に、王妃の閨での仕打ちなどさすがに答えられず……。これまで黙っていて、すまない。どこかで打ち明けていれば、今日のような事態は回避できていたかもしれないのに」


 自分を責めるようなことを言うクリス様に、私は必死で首を振り否定する。この人を労りたい強い衝動が、体の奥から絶え間なく湧いてくる。


「……クリス様。あなたを抱きしめてもいいですか……? やっぱり、無理?」


 震える声でそう問うと、クリス様の瞳が揺れる。しばらくして、彼は跪いていた姿勢を崩し、へたり込むように床に座ると、私の膝の上に自分の頭を静かに置いた。

 まるで、疲れ果てた心を休ませるように。

 その姿を見た瞬間、たまらない愛おしさに涙が堰を切って溢れた。私はそっと手を広げ、彼の上体を覆うように優しく抱きしめる。

 息を殺して泣きながら、私は彼の背をゆっくりと撫でた。

 ふいに、クリス様が小さく呟く。


「……不思議だな。君に触れられることが、もう以前のように恐ろしくも不快でもない。……愛しているから、特別なんだな」


(────っ!)


 彼のその言葉が、私の息を止めた。

 その直後、心の奥底から湧き上がるどうしようもない喜びに、もう嗚咽を堪えることができなかった。


「わ……私もです……クリス様……っ。私も、あなたを愛しています……っ!」

「……ありがとう」


 小さく柔らかなその声は、かすかに震えていた。






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