36. 狂気に満ちた目
「……クリス、さま……」
駆け寄ってくる姿を見つめていると、私の目の前まで来たクリス様が、思いきり私を抱きしめた。
(……え? ……え??)
驚いたなんてもんじゃなかった。
クリス様が……あのクリス様が、私に触れている。
ずぶ濡れの私の体を、しっかりと抱きしめている。
たった今まで体の内側を巡っていた彼女たちに対する激しい怒りが、一瞬にしてどこかへ消え去ってしまった。もうそれどころではない。クリス様に抱きしめられているのだ。
「一体……何なんだこれは……。なぜ俺のリアがこんな目に遭っている!! 何があった!!」
私を腕に掻き抱いたまま、クリス様が護衛たちを怒鳴りつける。すかさずラーラが声を上げた。
「エヴァナ様が、フローリア様を噴水に突き落としたんです!」
「……何だと?」
その瞬間、クリス様の両腕に力がこもった。ただでさえきつく抱きしめられていたのに、もう息をするのも苦しいほどだ。けれど私は、ただひたすら呆然としていた。そして心臓の鼓動は狂ったように高鳴り続けている。
「午前中の執務を終え、フローリア様は食堂に移動される前にお散歩をなさっていたんです。ですので護衛たちは、後方に控えていて……。そしたら王妃陛下とエヴァナ嬢たちがここにやって来られ、エヴァナ嬢がフローリア様に、噴水に落としたネックレスを一緒に探してほしいと……! そう言ってフローリア様を噴水のそばに連れ出し、突き落としたんです!!」
「しつこいわねぇ。馬鹿言わないでよ!!」
ラーラの必死の訴えに、エヴァナ嬢が反論する。
「あなたまだ王妃陛下に逆らう気!? 王妃陛下がおっしゃったのよ。あたしがわざと突き落としたわけじゃないって! お話を聞いていなかったわけ?」
「……どういうことですか、王妃陛下。俺のリアに暴行を加えさせたのですか」
これまでに聞いたことがないほど低く剣呑な声で、クリス様が王妃陛下に問いかける。
王妃陛下は黙っている。
(……?)
無意識に彼女の方を見上げて、息を呑んだ。
激しい怒りのオーラをまとうクリス様より、さらに殺気立った怒りを滲ませた王妃陛下が、クリス様を血走った目で睨みつけていた。
「……まぁ……ずいぶんと奥方を大事になさっていること。あなたが女性に対して、そんなにも必死な姿を見せる日が来るなんてねぇ。けれど、みっともないわ。お止めになったら? 人目も憚らず……見苦しくて胸焼けがするわ」
……クリス様が私を抱きしめていることが気に入らないらしい。なぜだか王妃陛下の方が必死に見える。
けれどクリス様は、ますます私を強く抱きしめた。大丈夫だろうか、こんなに触れて。心配になる。後で反動が来て、倒れたりしないかしら。それに、彼まで濡れて風邪を引いてしまいそう。
「俺の妻なのですから、守るのは当然でしょう。たった一人の特別な女性だ。こんな仕打ちをして、ただで済むと思わないでくださいね。いくら何でも、これはやり過ぎだ。俺はあなたを決して許さない」
「……何ですって?」
王妃陛下のこめかみにくっきりと青筋が立つ。怒りに我を失ったその表情は身震いするほど恐ろしく、真っ赤な唇は口角が下がり、かすかに痙攣していた。
「こちらこそ、そんな態度は決して許さないわ。そんな目でこの私を睨みつけて……私の前で堂々と、そんな姿を……!!」
(……な、何? 何なの? この人……)
何だかおかしい。目が正気じゃない。
私を抱きしめるクリス様を見据える王妃陛下の顔は常軌を逸していて、周りの侍女たちやエヴァナ嬢まで圧倒され、言葉を失っている。
クリス様だけはおかまいなしに、私の体を横抱きに抱き上げた。
「行こう、リア。早く着替えなければ」
髪からもドレスからもポタポタと水滴を垂らす私のことを、ご自分がびしょ濡れになることも厭わず、クリス様は両腕でしっかりと抱いたまま部屋へと運んでくださった。
去り際彼の肩越しに、ちらりと王妃陛下の方を見た。
今にも私たちを刺し殺そうとするかのような鋭い狂気の視線が、私の目をはっきりと捕えた。
◇ ◇ ◇
「お、お守りできなくて……本当に申し訳ございませんっ……。……絶対にわざとです。わざとなんです。悔しい……っ! こんなことが許されるんですかっ? こんなの、あんまりです……!」
私室に戻り、クリス様が私の体を床に下ろすやいなや、ラーラがボロボロと涙を零しながら、私の体をタオルで拭きはじめた。他の侍女たちも慌ててそばに寄ってきて、ドレスを脱がせようとする。
「……ラーラ、リアを頼む。とにかくすぐに湯浴みと、温かい食事を」
「は、はいっ。……グスッ」
「俺も着替えてくる。……リア、後で大事な話がある」
ラーラに指示を出した後、そう言って私に向き直ったクリス様の表情はひどく苦しげだった。
「……承知いたしました、クリス様」
そう答えると、彼はそっと目を伏せ、部屋から出ていった。