31. クリス様の気持ち
「今夜はお疲れ様でした、クリス様」
その夜。深夜遅くにようやく寝室に入った私は、ほぼ同時に部屋に入ってきたクリス様を労った。彼は優しく微笑み、同じように私を労ってくれる。
「ありがとう。君も疲れただろう」
「ふふ。まだ高揚感が残っていて、何だかふわふわした気分です」
「そうだな。ようやく一大イベントが終わったわけだ。……大きな問題もなく、無事終えられて本当に良かった」
二人分のハーブティーを淹れ、彼にカップを一つ渡す。ソファーにゆったりと腰かけていたクリス様は礼を言って受け取り、静かに口をつけた。
(……どうしよう。何だか妙に緊張しちゃうな……)
目を逸らして向かいのソファーに浅く座りながら、私は落ち着かない気持ちになる。別に、今までと何も変わらない夜なのだ。白い結婚をしたその日から、私たちはこうして夫婦の寝室で一緒に眠っているのだから。キングサイズのベッドのど真ん中に、ブランケットの防波堤を築いて。そして最近では先にクリス様が眠ってから、私がそっとベッドに入り、防波堤なしで眠る。毎夜そうして過ごしてきた。
けれど今夜私は、この方への自分の想いが恋心であることを自覚してしまった。一人の人として好きだとか、夫として尊敬しているというだけではない。男性として意識し、胸を焦がしているのだと。
「弟君は溌剌としていて爽やかな青年だな」
「そうですか? 十七にしては幼いでしょう? 姉としては少し不安でもあるんです。あまりにも擦れていなくて」
「いいんじゃないか。しっかりしている。立派にバークリー公爵家を継いでいけそうだと思ったよ。彼は聡明で利発だ」
穏やかな笑みを浮かべ何気ない会話を交わしながらも、私の心は、クリス様とのこれまでの時間を辿っていた。一体いつから、私はこの人をこんなにも愛おしく思っていたんだろう。……きっかけとして思い当たるのは、やはりあの日。お忍びで王都を散策中、父のみっともない姿に傷を重ねた私に、クリス様が言ってくださった、あの言葉。
『もしも俺が他の者と同じように女性に触れられたとしても……、今後いつか、そんな日が来たとしても、……俺は生涯、君以外の女性に触れることはない』
『まともに触れられなくても、君は誰よりもかけがえのない、俺の妻だ』
何度心の中で思い返したか分からない。ご自分は私の父とは違うのだと。決して私を同じように傷付けないと言い、母のことまで気遣ってくださった。落ち込む私の指先を、革手袋越しに握り、一緒に歩いてくれた。きっと無理していただろうに。女性に触れる不快さよりも、私の心を労ることを優先してくださったのだ。思い出すたびに心が熱く震える。あの日から、私たちの距離は一気に縮まったように思う。自分でも上手く説明できない胸の疼きを感じるようになったし、もっとこの方と近付きたいと思えるようになったのだ。
今夜のクリス様は、特別色っぽくて、格好良かった。
「それにしてもヘリオット侯爵はやたらと俺たちの周りをうろついていたな。何度挨拶に来るつもりだと突っ込んでやろうかと思った」
「ふふ。ずっと近くにいましたわね。クリス様に忠義を示しているおつもりだったのだと思いますよ。ほら、次男のご令息が、今年学園を卒業なさるご予定ですし」
「やはりそのことだろうか。騎士科に在籍していたのは聞き及んでいるが、成績はさほどでもないようだ。近衛のポジションを狙っているのなら甘いな」
……でも、クリス様はどうなのかしら。そんな疑問が、ふいに脳裏をよぎる。私の中で、この人はもう特別な存在になったけれど、クリス様は……? やっぱり私に対する気持ちは、一人の人間としての好感情に過ぎないのかしら。
それとも、クリス様にとっての“かけがえのない妻”って……。
「……そろそろ休むか。明日は今夜出席してくれていた大使らとの昼食会があるな」
「ええ、午前中はさほど予定が詰まっていないので、少しゆっくりなさってくださいね。最近働きすぎですから。ダンスの練習も、ずっと続けてきましたし」
他愛のない会話も終わり、私たちは自然と立ち上がった。その時、クリス様がさらりと言う。
「おいで、リア。一緒に寝よう」
(……?)
「……ええ、はい。どうぞお先に。私は後でまいりますので」
いつもはクリス様が先にベッドに入り、私はしばらく隣の私室で時間を潰す。読書をしながら数十分ほど経ってから、音を立てないようにそっと戻ってきて、眠るクリス様とは逆側のベッドの端に潜り込むのだ。それが私たちの最近のパターン。
だから、突然の「一緒に寝よう」に戸惑い、そう返事をしたのだ。
けれどクリス様からは、全く想像もしなかった言葉が返ってきた。
「もうわざわざ自分の部屋に下がらなくていい。……今夜からは、一緒にベッドに入ろう」
「……。……へっ?」
耳から入ってきた言葉を、しばらくして理解した私は、思わず間の抜けた声を上げる。……一緒に? ベッドに?
まじまじと見つめる私に向かって、クリス様が少し笑みを浮かべはっきりと言った。
「今夜なら、大丈夫な気がするんだ。リア、このまま行けるところまで行こう」
「…………。……い、」
頭が真っ白になり、その後心臓が痛いほど強く脈打った。鳴り響く自分の激しい鼓動が、耳の奥でドクドクと聞こえる。
行けるところまで、行く……?
(どっ……! どこまでですかクリス様……っ!?)